牧師メッセージ

「あの方はここにはおられない」

更新日: 2014.04.27

2014年 復活祭主日礼拝

出エジプト記14章15-22節 マルコによる福音書16章1-8節

 牧師 野田 和人

イースターおめでとうございます。英語では“Happy Easter”ですが、ポルトガル語では“Feliz Pascoa”(フェリース パスコア)です。パスコアというのは、過越祭を意味するギリシア語“パスカ”から来ていて、ポルトガル語やスペイン語、イタリア語、フランス語を用いるラテン語系諸国では、復活祭を表すのに、その背景には、かつてイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放した「主の過越」を記念して祝われた過越の祭りがあることがはっきりと分かるように、パスカ(過越)から派生した言葉を用いています。その「主の過越」の後、今朝最初にお読みいただいた出エジプト記の記事にあるように、主なる神はイスラエルをエジプトから実際に救い出すために、夜もすがら激しく行動され、海を二つに分けて民を導き出しました。この民、イスラエルの解放を記念する祝いの真最中にイエスは十字架につけられて殺され、葬られ、そこから甦らされることをマルコは伝えています。
神がそのように定められて、イエスの十字架の死と復活を通して、神から遠く遠く離れた民がその罪を赦され、新しく生きる命を与えられた。新たな解放、新たな「過越」が起こった。その喜びをよく伝える“Feliz Pascoa”ではないかと思います。“Happy Easter”ではなかなか伝わらないことかなと思ったりします。

その復活の朝の喜びを謳った詩に、手足や言葉が不自由となり、瞬きの詩人と呼ばれた水野源三さんの次のような詩があります。「空には夜明けとともに雲雀(ひばり)が鳴きだし、野辺には、つゆに濡れて、すみれが咲き匂う。こんな美しい朝に、こんな美しい朝に、主イエスさまは墓の中から出てこられたのだろう。」今朝の喜びが素直に率直に表されていますが、この復活は最初からこうした喜びをもって受け入れられたものではありませんでした。特に、今日後からお読みいただいたマルコによる福音書ではそうです。
「安息日が終わると」ですから、土曜日、日が沈んで安息日が終わってから、女たちは香料を買い求めました。あわただしく埋葬された、敬愛するイエスの亡がらに香油を塗るために、夜が明けるのを待ちかねて、女たちは最後の奉仕へと墓へ急ぎます。ガリラヤから従ってきて、イエスの十字架の死と葬りを見届けた女たちです。ここには、イエスが捕らえられた時、イエスを見捨てて逃げ去った男の弟子たちの姿はありません。
イエスの葬られた墓は、岩を横に掘って作った横穴式で、入口を大きな円盤状の石で塞ぐ形のものでした。彼女らにはその思い石が心配の種でした。ところが墓に着いてみると、石はすでに脇へ転がされていました。とにかく中へと入ります。そこで、イエスの納められた場所で、深い悲しみと喪失感とともに立つ彼女らに告げられたのは、驚くべき、思ってもみなかった言葉でした。「彼は起こされた。甦らされた。ここにはいない。」そこには何もありませんでした。香油を塗るべきイエスの亡がらがありません。墓は空でした。「彼はここにはいない。甦らされた。あなたがたは間違った場所で十字架につけられたナザレのイエスを捜している。彼は生きておられる。死者の中にはいない。それは『わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く』(14:28)とかねて言われたとおりだ。そこでお目にかかれる。」
彼女らの衝撃はどれほどだったでしょう。つい一週間前、王を迎えるかのような民衆の歓喜を受けてエルサレムに入城されたイエスの歩みが、実は十字架へと至るものであったという、思ってもみなかった展開を見せた時も弟子たちは恐れおののいたのですが、今また、空虚な墓を前にして、思いもよらない展開におののき恐れるほかありません。

「思ってもみなかった展開!?」いや、そうではありませんでした。天の使いの言葉にもあるように、「かねて言われたとおり」でした。振り返ってみれば、事柄はいつも「かねて言われたとおり」に起こってきたのでした。子ロバに乗ってのエルサレム入城、イエスがその民に受け入れられないこと、ユダの裏切り、ペトロの否認、死刑判決と引き渡し、嘲り、死、そして復活、すべて「かねて言われたとおり」でした。ただその時その時には、悟ることがなかったのです。
ペトロは、イエスとの繋がりを三度繰り返して否定した後で、イエスの言われたとおり鶏が鳴いた時、その取り返しのつかなさに愕然として泣き崩れました。主を愛し、主に従いたいと志しながらも、自らの弱さ、愚かさに敗れ、その場から消えていきました。
ところが驚くべきことに、天の使いはそのペトロに、弟子たちの中でもペトロに、「今あなたがたが見聞きしていることを告げなさい」と女たちに語るのです。惨めに躓いた弟子たちを再び招き、赦し、導き、新たに遣わそうとされるのです。けれども、その声を聞く女たちは震え上がり、正気を失い、恐ろしさのあまり誰にも何も言いませんでした。
マルコによる福音書はここで終わります。女たちは、恐れながらも喜んで男の弟子たちにこの出来事を知らせに走ったのでもなく、沈黙したままで突然終わります。

私たちは先週の棕梠の主日から始まった受難週の中で、洗足木曜日聖餐礼拝において、「この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である」という主イエスの言葉を聞きました。そして、この新しい契約を結んでくださる神は、弟子たちの泥足を洗ってくださる神であること、彼らのこれまでの人生の労苦や痛み、恥や罪をいたわり、癒し、拭ってくださる、そのために今まさに十字架にかかろうとしている独り子なる神であることを示されました。そして金曜日、十字架上の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのか」との祈り、叫びを聞き、神ご自身が痛み、苦しみを味わい尽くしてくださったことを通してはじめて、私たちは永遠の命へと至る救いに入れられるのだという確信を示されました。けれども、今日、復活の朝、空の墓の前に立って、驚きと怖れのあまり、私たちは声を失うのです。
マルコによる福音書が唐突にここで終わっているのは、この沈黙の向こう側に響いている、主がかねて言われた事柄を私たちがより鮮明に聴くことができるためではないかと思います。ここでの沈黙とは、無理解のことです。私たち人間のあらゆる無理解に対して、ただ主イエスの約束だけが向かい合っている、ガリラヤで会おうとの主の約束だけが向かい合っている、そのことをよりはっきりと伝えるための突然の結末ではないでしょうか。

そのガリラヤで、弟子たちがかつて生き、今は失意のうちに生きる現場で、復活の主が彼らと再会される。「あの方はもうここにはおられない。」同じように、私たちのガリラヤにおいても、苦しみや悲しみ、矛盾や不条理に満ちた私たちの日常の現場においても、生ける復活の主イエス・キリストが私と出会ってくださり、私たちはそこで生かされる。この情景が、私たちの無理解というスクリーンを通して透けてはっきりと見えてくる時、その時はじめて、私たちは今日のイースターの喜びに満たされることができます。
キリスト者は、主が復活された日曜日の朝ごとに、主がかねて言われたことを思い起こして礼拝に集うのです。「空には夜明けとともに雲雀(ひばり)が鳴きだし、野辺には、つゆに濡れて、すみれが咲き匂う。こんな美しい朝に、こんな美しい朝に、主イエスさまは墓の中から出てこられたのだろう。」

神さま、主の復活を感謝します。あなたを求める者、あなたを知らずにいる者をもあなたが憐れんでくださって、復活の主とともに新しい命を生きる希望を私たちに与え、私たちを敵意から善意へと、対立から和解へと導いてください。
暗く凍える海の水の中で助けを求める者に、あなたのあたたかい光、平安を与えてください。私たちの復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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