牧師メッセージ

4月10日(金)受難日正午礼拝「十字架の王」

更新日: 2020.04.15

受難日正午礼拝(2020.4.10)説教 「十字架の王」

ヨハネによる福音書19章16b-27節  牧師 若林一義

 ピラトによる判決を受けて、イエスさまの遺体は引き渡されました。ここでは「彼らはイエスを引き取った」と言われます。「彼ら」というようにそれが直接誰であったかは明示されません。もちろんここまでの流れで言えば具体的には刑の執行を担当するローマ兵ということでしょう。しかしより広げてみれば、最後までイエスさまの十字架刑を要求して叫び続けたユダヤ人たちということでもあるでしょうし、もっと言えばイエスさまを十字架につけるすべての人々、そして現代に生きる私たちも含まれるのではないでしょうか。ここに語られる「彼ら」は「我ら」でもあります。

十字架刑の執行場所。それはエルサレムの郊外にあった小高い丘、ちょうど遠くから観ると人の頭蓋骨のような形に見えたことから「ゴルゴタ」と呼ばれた場所です。「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」と記されます。ここで私たちが目を留めなければならないのは、イエスさまが「自ら十字架を背負い」行かれたということです。他の福音書を見ると、途中でキレネ人シモンが無理矢理にイエスさまに代わって十字架を担がされますが、ヨハネ福音書はそのことには一切触れていません。ただ強調して「イエスは自ら」と記すのです。

福音書は十字架をご自分で担ってゴルゴタに進まれるイエスさまの姿を通して、イエスさまを信じる者たち(私たち)に、「さあ!あなたたちも十字架を負ってこのわたしについてきなさい」、というイエスさまの招きを示しています。イエスさまの十字架の姿は、イエスさまを自分の荷物持ちのようにして、自分の行きたいところに後ろから黙ってついてきてもらうというようなことではないわけです。ここでは私たちが十字架のイエスさまの後に従っていく歩み、しかもおのおの自分の十字架を背負ってイエスさまに従っていく歩みであることを覚えなければなりません。

共観福音書の中でイエスさまは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と語っています。ヨハネ福音書にはこの言葉は出てきませんが、それに代わってイエスさま自らが自分の十字架を背負う姿を通して、私たちに自分の十字架を背負って、イエスさまに従う者の姿を身をもって示しています。

イエスさまが十字架にかけられたとき、他の二人の罪人とともにつけられました。この二人の罪人を巡る詳細をルカ福音書は記していますが、ヨハネ福音書は一切触れることをしません。しかしその一方で、イエスさまの頭上に掲げられた罪状書きについてのやり取りを詳しく記しています。「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、『「ユダヤ人の王」と書かず、「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書いてください』と言った。しかし、ピラトは、『わたしが書いたものは、書いたままにしておけ』と答えた。」。イエスさまの十字架の頭上に「ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられたことはマタイ、マルコ、ルカ福音書にも記されていますが、ヨハネの関心はそれ以上です。

特に他の福音書にはないここでの強調点は二つです。一つはイエスさまをユダヤ人の王とする罪状書きが「それはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書いてあった」という証言です。ヘブライ語はユダヤ人の言葉、ラテン語はローマ帝国の公用語、ギリシア語は当時の地中海世界の標準的な言葉でした。誰にとってもわかる言葉でこのことが書かれたということです。そして強調点の二つ目は、この罪状書きについてのユダヤ人のクレームと、ピラトの却下のやりとりです。ユダヤ人からすれば罪状書きとはいえナザレのイエスを「ユダヤ人の王」と記されることは許されることではありません。「自称した、と書いてください」と彼らは願いますが、ピラトはこれを退けます。ピラトは、イエスさまについて「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」と言っていました。彼の中では罪人ではなかったのです。

けれどもそのような両者の思惑を超えて、ここにイエスさまが「王」であることがはっきりと世界に向けて記されたことは、神の深い御心の表れであったと言えます。「私が書いたものは、書いたままにしておけ」というピラトの確証の言葉は、その言葉の意図とは別にまさにイエスさまこそがまことの王であられることを証しする言葉となってここに記されているのです。

聖書は、呪いの木である十字架の上に上げられたイエスさまを「王」とします。王のイメージは豪華な装束を着け、豪華な王宮のきらびやかな王座に座り、そこで黄金の笏を手に権勢を振るうものでした。けれども聖書の記すまことの王であるイエスさまの姿は全く正反対です。私たちが王として仰ぐ方は、高くそびえ立つ豪華絢爛の王座に座る王でなく、十字架の上に掲げられ傷ついたイエスさまです。しかしこの十字架の上に挙げられたイエスさまを仰ぐ時に、救いが私たちにもたらされるのです。

現代のこの日本においては豪華な衣装を身にまとう王は、いません。しかし、王は様々に形を変えて私たちの間近にいます。お金、物、力など様々な形をもって私たちに現れ私たちの目を向けさせようとします。しかし私たちの本当の王は、人々が顔を背け、目をそらし、あるいはあざける十字架の王だけなのです。その十字架の上にかけられたイエスさまを王と呼ぶ。そこに救いがあり、そこにいのちがあり、そこに希望があると信じ告白します。それが私たちの信仰なのです。

この十字架につけられたイエスさまをまことの救い主、王の王と信じ、告白し、宣べ伝える。この方にいのちがあり、希望があり、救いがあると信じ、告白し、宣べ伝える。こうして十字架の王であるイエスさまにそれぞれ自分の十字架を背負いながら従う歩みを共に始めていきたいと願うものです。

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