牧師メッセージ

3月1日(日) 受難節第1主日礼拝説教「世の楽しみよ、去れ」

更新日: 2020.04.19

受難節第1主日(2020.3.1)礼拝説教     牧師 野田和人

出エジプト記17章1-7節,マタイによる福音書3章16節-4章11節

 

牧会祈祷

 慈愛と憐れみに富みたもう、命の創り主なる主イエス・キリストの父なる神さま、あなたは私たち一人ひとりの名を呼び、主の年2020年の受難節第1主日の礼拝へと招いてくださいました。その大きな恵みに心より感謝いたします。

 私たちは再びレント/受難節を歩み始めました。私たちは、自分のことであれば指先の小さなとげの痛みにも耐えかねる者ですけれども、十字架へと向かわれる主イエス・キリストの苦しみには思いを向けることの少ない者です。

 主イエスは、あなたの御言葉を宣べ伝える働きを始められる前に悪魔の試みを受け、それを退けられました。「人はパンだけで生きるものではなく、主を試さず、ただ主に仕えよ」と。しかし私たちは、しばしばあなたの言葉に聴こうとせず、あなたの掟を守ろうとせず、自分自身の思いにのみ忠実であろうとします。御言葉に聴くことによって、自分の思いにのみ忠実で傲慢な私たちの心を打ち砕き、主に立ち返らせてください。

 どうか私たちを憐れみ、主イエスの十字架によって私たちが生かされている幸いを深く知り、感謝のうちに生きる者とならせてください。礼拝を終えてこの礼拝堂から一歩外へと踏み出す時、主こそわが神と告白する者として、それぞれの持ち場へと遣わしてください。

 神さま、心や体に重荷を負い、疲れている者をどうか顧みてください。私たちが生かされているこの地上の世界には、未だ多くの争いがあり、貧しさがあります。特に今は未知のウイルスとの未曽有の闘いがあります。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈らずにはおられません。

 どうか主にある平和をこの地にもたらしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 

説  教         「世の楽しみよ、去れ」

 キリスト教の教会暦の一番元になっているものは、キリストが復活された週の初めの日、現在は日曜日に当たる主の日を記念する復活祭/イースター(今年は4月12日)です。この日から50日後にペンテコステ/聖霊降臨祭(今年は5月31日)が来、紀元4世紀頃からは、この日から40日前(日曜日を入れると46日前)に当たる水曜日から、イースターの時に行われる年に一度の洗礼式の準備期間としての四旬節、受難節/レントが守られるようになりました。

 ノアの洪水の物語では40日40夜雨が降り続き、モーセは40日間シナイ山に留まり、イスラエルの民は40年間荒れ野をさまよい、イエスさまも40日間断食をされました。聖書の中では受難や試練を表す40という数字です。その40日間の始まりを、私たちは「悔い改め」を意味する灰-棕梠の枝の灰を用いて、今年は2月26日、先週の水曜日に「灰の水曜日」の礼拝を守りました。

 日本キリスト教団の主日聖書日課によれば、受難節第1主日には毎年、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書の同じ記事(並行箇所)が当てられており、今年は、マタイによる福音書の「誘惑を受ける」の箇所となっています。受難節が始まるこの時期に、なぜいつもこの箇所なのかということですが、キリスト者が、悔い改めに始まる自らの信仰の原点を問う時、やはり自分自身に関連してくる事柄がここで語られているということではないかと思います。今日はそのことを皆さんご自身でも確かめていただきたいと思っています。

 第4福音者のヨハネによる福音書では、イエスさまが神の子であるのは、洗礼者ヨハネ自身の証言を通して明らかにされました。「霊が鳩のように天から降って、この方―イエスの上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)、そのイエスさまとの出会いの場で、「この方こそ世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)という表現を用いて。

 第4福音書は、このようにして神の子としてこの世に来られたイエスさまの「時」を重要視して、この後すぐ、洗礼者ヨハネを介したイエスさまと最初の弟子たちとの出会いの場面へと移っていきます。けれども共観福音書はその前に、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声によってイエスさまが神の子であることを証言し、では一体どのような意味でイエスさまが神の子であるのかを明らかにするために、天からの声の直後に、イエスさまが「誘惑を受ける」というこの場面を置いたと考えることができます。したがってこの箇所は、第4福音書の「この方こそ世の罪を取り除く神の小羊だ」との洗礼者ヨハネの証言に共観福音書として対応するもの、その内容を表すものと考えてもいいでしょう。

 これが福音書記者たちの時代の教会のメシア理解を表すものであり、私たちは毎年レントに入るたびごとに、その理解を再確認するということです。

 人はエデンの園において自由で平和で豊かでした。ただそれを担保するものとして、園の中央には決して食べてはならない禁断の木の実を付けた木が植えられていました。ところが蛇は女に言います。「園のどの木からも食べてはいけないと神は言われたのか。この実を取って食べても死ぬことはない。かえって自分の目が開けて、賢くなって、神のように善悪を知るようになるのだ」(創1:1,4-5)と。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆して」(創1:6)いました。蛇の囁きは女の目と口と頭のすべてを刺激して、女を全く欲望の虜にしてしまいました。女はもはやその欲望を自分で抑えることはできません。「食べてはならない」と言われていた木の実を取って食べ、男も食べ、こうして彼らは園のただ一つの戒めを破ったことで、園を失ったのでした。

 園のただ一つの戒めとは、神になろうとしてはいけないということです。神の支配と裁きを自分のものとしてはならないということです。この戒めを破り、善悪の知識の木から禁断の木の実を取って食べたことで、彼らだけでなく私たちも罪に堕ちたのでした。

 その「罪を取り除く神の小羊」としてこの世へと来られたのがイエスさまであり、今、荒れ野で私たちに代わって悪魔の誘惑を、試練を受ける中で、その罪から私たちが離れるための方策を、ここで私たちに示してくださっているのではないでしょうか。

 もしイエスさまがここで神の子として石をパンに変え、神殿の屋根から飛び降りていたらどうだったでしょうか。これは実は私たちが心の隠れたところで、そうして欲しいと望んでいることではないでしょうか。

 3週前、私たちはヨハネによる福音書6章の五千人の供食物語から、神さまからの溢れ出る祝福を通して得られる感謝の満腹について聴きました。けれどもこの感謝の満腹が、いとも簡単に経験的な満腹へと取って代わられてしまうことも私たちは知っています。イエスさまをこの地上の王にしよう、いつも経験的な満腹を与えてくれる私たちのリーダーにしようという心の動きが、私たちの中には必ずあるということです。

 「もし神の子なら(あるいは神の子なのだから)、その力を見せよ。そうすれば信じよう」という思いのあるところでは、たとえどのような「しるし」が何度行われようとも、そこでは何事も起こっていません。それで信仰が強められるのかと言えば、そんなことは決してありません。ただ際限のない欲求が、あるいは際限のない疑いが続いていくだけ、繰り返されていくだけでしょう。そこにはイエスさまをイエスさまご自身として見るという視点が全く欠けており、イエスさまを、ただ利用するためだけの偶像にしてしまおうという魂胆がありありと見えています。そこから、「もし自分がイエスさまの立場だったら」と考えるまでにはそれほど時間を要しません。

 しかしイエスさまはここで、私たちすべてがもし自分がイエスさまの立場だったらおそらく選んだであろう決断とは、全く違った決断をされたのでした。それは、イエスさまご自身が私たち人間の立場に立ってなされた決断でした。自分がもしイエスさまの立場だったらと考える私に対して、イエスさまを偶像とし、神になろうとする私に対して、悪魔の囁きにもろくも崩れ落ちる弱さの中にある私に対して、イエスさまはそのような私をも含めた、私たちすべての人間の立場に立って決断されたのでした。

 イエスさまがここで、荒れ野での40日間の断食の後、私たち人間の弱さを担って、無力さを覆って決断されたところに、福音書記者たちは神の子の現れを見たのです。神の子の従順な姿を見たのです。

 イエスさまは、その人間としての弱さのただ中で、神の言葉によって生き、神を試みず、神のみに仕えるという生き方を示してくださいました。それが、イエスさまが私たちのために、私たち人間の立場で果たしてくださった正義でした。

 主イエスが、荒れ野での40日間の断食の後に出会わされた悪魔からの誘惑の中で守り通されたもの、それは、私たち人間の所有欲、貪欲や権力へのあこがれといった誘惑に抗い、その誘惑に打ち勝つ信仰を守り通そうとされたのではなく、あるいはそうするようにと私たちに勧められたのではなく、ただ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神さまからの祝福の言葉を守り通されたのでした。そしてこれが、私たちが罪から離れるための唯一の方策なのです。

 この祝福の言葉がイエスさまを通して私たち一人ひとりの上に臨む時、私たちの中にある世の楽しみとほまれは去り行き、私たちは私たちの立場に自ら立ってくださったイエスさまと共に弱さの中で悔い改めて、神の言葉によって生き、神を試みず、神のみに仕えることができるのではないでしょうか。ここに私たちの信仰の原点があります。

 そしてこのことを、私たちは再び巡り来たこのレントにおいて今一度新たに知らされ、再確認しつつ私たちの日々の営みの中に生かしていくことが求められているのです。

 祈りましょう。

 神さま、私たちを赦してください。過去の束縛から抜け出すことを阻む、私たちの恐れや愚かさを赦してください。あなたの助けによって、私たちは本当に新しい人になることができるということを信じさせてください。

 すべてを赦し、新たにするあなたの聖霊を迎え入れることができるように、私たちを開いてください。着古したコートを脱ぎ捨て、喜びと熱情と信仰と共に、あなたが与えてくださる未来を迎えることができますように。

 私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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