牧師メッセージ

4月19日(日) 復活節第2主日礼拝説教「見えない」

更新日: 2020.04.21

復活節第2主日(2020.4.19)礼拝説教     伝道師 山内慎平
出エジプト記15:1-11、ヨハネによる福音書20:19-31

牧会祈祷
 よみがえりの主イエス・キリストの父なる神さま、復活節第2主日、主イエスの十字架とよみがえりを覚え、その深い愛をたたえてこの礼拝を献げます。

 7日間の歩みをあなたによって守られ、この礼拝へと導かれていることを心より感謝いたします。私たちは喜びと感謝のうちに生きたいと願っています。しかし、私自身、また私の周りには悲しみ、嘆き、失望、怒りといった感情が渦巻いています。特に今、新型コロナウイルスによっていのちが脅かされ、私たちは当たり前に思っていたものを突然に失っています。親密な仲間との交わりが困難です。家で密かにすごしています。この苦しみの中にあっても私たちはそれぞれの場で御前に集っています。私たちのすべてをご存知のあなたが、憐れんでください。

 主イエスは、互いに愛し合いなさい、仕えられるより仕える者になりなさい、と私たちに教えてくださいました。その掟を私たちが守れない時もあります。私たちにあなたの愛を思い起こさせてください。祈り続ける教会へとあなたが導いてください。主によって1つとされていることを確信し、祈りを献げ続けていけますように。

 この祈りを、一人一人の祈りに合わせて、主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。

説教    「見えない」
 今日のヨハネによる福音書の箇所の前で、マグダラのマリアが復活したイエスさまに出会います。そして、弟子たちにメッセージを伝えることを命じられ、イエスさまからのメッセージと復活の主に出会ったことを弟子たちに伝えます。

 しかし、マリアが復活の主から託されたメッセージを弟子たちに伝えても、弟子たちはすぐにそのことを信じきれなかったと思います。弟子たちはイエスさまが復活された日の夕方、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。弟子たちはイエスさまが復活されたという証言を聞いても信じきれず、不安の中にいた様子が記されています。また、弟子たちは混乱の中にいたはずです。そんな状況で、いきなり主が復活したと言われても弟子たちは主の復活を受け入れる心の準備ができていません。

 恐れて家の戸を閉ざしていたことは、弟子たちの心の様子を表しているようにも思います。自分の思いや悲しみ、恐怖の感情に閉じこもり、大切なことを見落としてしまっています。
トマスも他の弟子の「わたしたちは主を見た」と言う報告を聞いた際、すぐにその報告と主の復活を信じませんでした。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(20:25)と言いました。

 このトマスの主張は、実際に見て、触ることができたら信じるという意味にもとれます。トマスはイエスさまの復活を信じないというわけではありません。トマスは自分が確かだと思える基準、自分に分かる基準に合うのであれば信じると言っています。

 トマスの主張は合理的で、正しく思えます。私たちも自分の目で見、耳で聞き、手で触れたものこそが確かなものだと考えることがあるのではないでしょうか。トマスは復活した主の確かさをそのようにして知ろうとしました。トマスも主の復活を聞いて素直に信じることができなかった弟子たちと同じように、復活を受け入れる心の準備ができていません。自分の常識や理解の範囲でイエスさまを信じようとしています。このトマスと同じように私たちもまた、自分の常識や理解の中でイエスさまを信じようとしてしまいます。復活を目の当たりにすることで、人は今まで自分にとって確かだと思っていたことの不確かさに気付かされます。そのため、私たちは恐ろしさや不安を感じます。復活を信じることは、私たちに不安や恐れをもたらすものでもあります。

 不安になり、戸に鍵をかけ家に閉じこもっていた弟子たちの前に復活したイエスさまが現れます。イエスさまは鍵を閉めているはずの家の中に入ってきました。しかも、イエスさまは肉体をもって、弟子たちのところへ来られました。イエスさまの手とわき腹には十字架上で死なれた時の生々しい傷跡が残っていました。戸をすり抜けられるような特別な体ではなく、傷ついた肉体をもって復活のイエスさまは弟子たちの前に現れました。

 そして、イエスさまは弟子たちのところへ「来て」くださいました。一方的にイエスさまの方から弟子たちの前に現れました。この場面から、イエスさまは私たちのところに来られる方であることを私たちは知らされます。

 弟子たちの前に現れたイエスさまは「あなたがたに平和があるように」と言います。「あなたがたに平和があるように」というこの言葉は、ユダヤ人の社会では日常的な挨拶の言葉であり、ヘブライ語では「シャローム」です。イエスさまは日常的な挨拶の言葉で弟子たちに話しかけました。しかし、弟子たちにとって「あなたがたに平和があるように」という言葉は重要な意味を持つ挨拶の言葉でした。

 イエスさまは最後の晩餐の席で、自身の受難について話し、弟子たちは受難を悲しんだ後に、その悲しみは喜びに変わると言いました。そして、イエスさまは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)と語りました。今日の聖書箇所で確かに弟子たちはイエスさまの受難の後、喜びを経験します。その喜びは、「わたし(イエス)が父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」(14:20)ことです。弟子たちが復活のイエスさまに会っていることはまさに喜びの瞬間です。弟子たちの真ん中に立った復活されたイエスさまとの出会いは、出会った人に自分がイエスさまと父なる神さまとの交わりの中で生きていることを実感させます。また、復活の主との出会いは悲しみや恐れを越えて喜びをもたらす平和を人々に与えます。

 イエスさまは「わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(14:27)と言いました。イエスさまが約束されて私たちに与える平和は、一時的な、はかないものではありません。どのようなときも与えられる、永遠のものであることを、私たちは弟子たちの真ん中に立たれた復活のイエスさまとの出会いから知ります。

 イエスさまは「あなたがたに平和があるように」と言われた後、手とわき腹とを弟子たちに見せます。なぜ、イエスさまは突然に手とわき腹を見せたのでしょうか。弟子たちはマグダラのマリアの「わたしは主を見ました」という証言を素直に信じませんでした。むしろ、自分の思いや恐れに心がとらわれていたのではないでしょうか。また、弟子たちはそれぞれ自分たちの期待している救い主のイメージや、イエスさまへの信仰を自分の考える基準で理解していたかもしれません。しかし、イエスさまの復活を通してそのイメージや信仰が崩れました。弟子たちは、十字架の上で死なれたあのイエスさまが、私たちに平和をもたらす復活の主なのだということを理解しました。

 復活を信じるとき、私たちは恐れや不安を感じます。それは、自分が今まで確かだと信じてきたものの不確かさを思い知らされるからです。そして、自分が確立してきたもの、信仰や思いを自ら否定することになるため不安になります。しかし、弟子たちは復活の主との出会いによって自らが確かと信じてきたもの、自分の思いを克服することが出来ました。自分の行いを顧みる基準を、自分を越えたところに見出すものとなりました。復活の主との出会いはそのようにして人を新しく創り変えます。そうして、新しい自分を確立し、新しい命を生きていきます。

 また復活されたイエスさまの手とわき腹の傷跡から、イエスさまが人間のために代わって苦しみを受けて死なれたことの事実に気付く人、その傷跡から神さまの贖いの業を見出す人こそ信仰者です。そのことによってイエスさまの十字架が現実のものであることを理解し、自分の思いから解放されます。そして手とわき腹の傷跡から、私たちと共に神さまがいてくださることを理解できます。神さまが全知全能、力ある方だけでなく、この世へと降って来られ、弱くされた、私たちの現実においても共におられる方であることを知ります。そのため、弟子たちは喜びました。また、トマスも実際にイエスさまの釘跡を見、触る前に、その傷跡からイエスさまの十字架を見出し、「わたしの主、わたしの神よ」(20:28)と告白しました。

 私たちもこの弟子たちと同じ経験を礼拝の中でします。説教や聖餐において、主の十字架と復活の出来事を体験し、思い起こします。そして、神さまを受け入れ、神さまに向かって自身の思いにとらわれている自分を解放し、神さまが現実において共にいて、私たちを新しく生まれ変わらせてくださることを確信して礼拝をささげています。

 弟子たちの共同体、教会は多くの試練を受け、主が見えなくなることもあります。しかし、イエスさまは今日の箇所で弟子たちの集まりに対して息を吹きかけられました。トマス個人には吹きかけられませんでした。イエスさまは一つの共同体、体に息を吹きかけられました。それは弟子たちの共同体、教会が一つの一致した体であることを思い起こさせます。

 私たちは今、とても苦しい中で礼拝を守っています。それぞれの場所で祈りを共に献げています。共に同じ場所に集い、顔を合わせることが出来ない中にあっても、主が私たちキリスト者を一つにさせています。それぞれの場で献げられている祈り、それも礼拝であり、その真ん中に復活のイエスさまが立ってくださっています。悲しみの中、苦しみの中にいる私たちにイエスさまは「あなたがたに平和があるように」と話しかけます。その時、悲しみは喜びへと変わります。

 主イエス・キリストの父なる神さま
 復活された主イエスが弟子たちの集まりの真ん中に立たれたこの日に、主が示された痛々しい手とわき腹の傷跡を通して、あなたが私たちの罪のために代わって苦しみを受けて死なれたという現実、その救いの業を私たちが見出せますように。「平和があるように」と語りかけた復活の主と出会い、弟子たちの悲しみは喜びへと変わりました。主が与えられた、苦しみ、悲しみを越えた喜びをもたらす平和を私たちに分かち合わせてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

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