牧師メッセージ

4月26日(日)復活節第3主日礼拝説教「暗きから輝きへ」

更新日: 2020.04.28

復活節第3主日(2020.4.26)礼拝説教   牧師 若林一義

ヨハネによる福音書21章1-14]節

説教  「暗きから輝きへ」

 復活節の歩みを共にしていますが、私たちは今なお、一つ所に集まることはできず、それぞれの場で礼拝を守ることを強いられています。しかし、今朝もまた弟子たちの家に現れ、「平和があるように」と語られたように皆さんのおられる所に来てくださり、語り、食を共にしておられることを信じ感謝いたします。

 ヨハネは「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスさまは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスさまの名により命を受けるためである」。と20章の最後で記しています。

 ヨハネは弟子たちのその後の物語を「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである」(21:1)。と記します。エルサレムで弟子たちの前に現れたイエスさまが、今度はガリラヤにおいて弟子たちに現れたんだとヨハネは記します。イエスさまは復活された日の夕方、弟子たちに現れ、八日目にはトマスのために、再び現れました。20章21節に「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」とあり、弟子たちを派遣しています。他の福音書を見ますと、マリアを通してガリラヤで会うことになっているとも伝えられています。

 弟子たちは、自分たちの故郷であるガリラヤに戻ります。なぜ戻ったのかそれは先ほどのガリラヤで会うというイエスさまの言葉に従ったからでした。またルカの最後と繋げて考えるとするならば、「エルサレムから初めて、あなた方はこれらの事の証人となる。」と記されていますから、エルサレムからガリラヤへイエスさまの死と復活、神の業について伝えながら戻ってきたのでしょう。

 イエスさまの復活は、イエスさまを十字架かけてしまった、イエスさまのもとから離れて、閉じこもり鍵をかける弟子たち、絶望している弟子たちを絶望から喜びへと再び立ち上がらせる時とりました。しかし、本日の箇所の前半では喜びを感じられないのです。無気力な彼ら、日々の生活を淡々と行う彼らが描かれているような気がします。まだ彼らは半信半疑でした。ガリラヤで会うと言われたけれども「自分たちは何をすればよいのだろう」と思っていたことでしょう。彼らは不安にとらわれていたと思います。

 落ち着かないのか手持無沙汰なのか、もしくは自分たちの糧を得るためなのか、詳しくはわかりませんが、ペトロたちは漁に出ます。

 皆さんは釣りをされた(される)ことはあるでしょうか。私自身は中学生の時に友人と朝から明石港に釣りに行きました。丸一日釣れなかったのでそれ以来、自分から進んで釣りに行くことはありません。それは、「釣れない=面白くない、楽しくない」からでした。もちろん時間帯の問題であったのかもしれません。一般的に漁をするのに最適な時間は夜だと言われています。ペトロたちは夜に漁に出て、網を打ちましたが、何の収穫もありませんでした。彼らは、心も体も疲れ果て、戻っていくのです。その時、一人の人が岸に立ち、「子たちよ、何か食べるものはあるか」と彼らに呼びかけました。朝早く、漁から帰る船の魚を買うために仲買人が岸辺に来るのは普通のことですから、弟子たちはその人が仲買人と思い、答えます「ありません」。その人は弟子たちに言います「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ」(21:6)。彼らは言われるとおりに行いました。その結果、網を引き上げることの出来ないほどのたくさんの魚が取れました。

 この出来事を見て、ヨハネは、その人がイエスさまであることに気づきました。このような奇跡を起こせる方はイエスさましかいない。そしてペトロに「主だ」いいます。

 イエスさまは不安の中にある弟子とパンと魚で共に食事をとりました。弟子たちにとってこの食事は忘れられないものになったはずです。再び一緒に食事をした喜び、その記憶が初代教会の信仰者たちを支えたのです。後に初代教会はシンボルとして「魚」を選びました。

魚
魚(ギ語イクスース)「イエス・キリスト、神の子、救い主」という意味の言葉の頭文字。

 イエスさまの指示によってガリラヤに来たけれども、イエスさまに会えない。彼らは不安になり、自分たちが出会ったイエスさまは幻ではなかったのかと思い始めます。人間の信仰とはこの程度のものだと言われているようです。復活のイエスさまに出会って喜びますが、喜びはすぐにさめ、やがては、不信に囚われてしまう。

 私たちの信仰生活もそうではないでしょうか。神さまが私たちを養って下さると信じていても、様々な悩みや困難に突き当たると、それだけに目を奪われ神さまを横に置いてしまう。神さまが養われると思っていても本当には信じきれていないのです。私たちにとって最大の問題です。

 救われたという確信を持てない歩んでいけない、このことは弟子たちだけの事ではなく、わたしたち、また教会、信仰者が常に問われてきた、常に持ってきた問題だと思うのです。

 イエスさまが三度来られたのは、復活がまだ弟子たちの生存を変えるまでの出来事になっていないからでした。

 福音書が記された時代の教会も困難の中にありました。ユダヤ教から異端として排除され、ローマ帝国からの迫害も始まっていました。イエスさまを主と告白し、教会に加わったために、ある者は殺され、ある者は捕らえられていきました。自分たちは何のために主を告白したのか、何のために教会に集っているのか、そのような思いが教会の中に広がっていました。弟子たちが何のためにガリラヤにいるのかがわからなく、不安だった状況と同じです。しかしそこに復活の主が来られた。そして御言葉に従った時に数えきれない収穫が与えられた。そこから主は生きておられる、私たちと共におられるのだと、あらためてヨハネは20章で完結した物語に書き加えていったのです。

 この21章の物語は、ルカ福音書5章にあるペトロが初めてイエスさまと出会った物語を思い起こします。一晩中漁をして何も取れず疲れ切ってしまったペトロが、イエスさまの召命を受けた時の記事です。描かれています。イエスさまの言葉に従うペトロが記されています。

 イエスさまの言葉に聞き従い歩むとき、そこに新しい出来事が生まれていきます。これは多くの人が経験している出来事です。個人の信仰も教会の形成もこの驚くべき出来事、この感動が基本となって形作られていきます。言い方を変えれば、信仰とは私たちが信じるのではなく、信じるものにさせられていく出来事なのです。私たちにとって教会はとても大切で大事な場です。教会の礼拝を通して、私たちは復活の主に出会い、命をいただきます。

 復活のイエスさまが弟子たちに来てくださったことを思い起こさなければなりません。救いは個人の出来事ではなく、共同体の出来事でもあるからです。いま新型コロナウイルスによって出口の見えない状況に置かれています。日々の生活に不安を覚え、教会に集い大切な人、大好きな人、苦手な人、と礼拝を守りたくとも守れない・・・自宅での礼拝だけでは自分の信仰は揺らぎ、すぼんでしまうのではないか?と不安を覚えている今、闇の中にいるような状況の今、あらためて御言葉を聴き、イエスさまがいま私たちと共におられ、声をかけ、共に食卓を囲んでくださっていることを覚えなければならないのです。弟子たちに声をかけられたのは過去の出来事ではなく、今もわたしたちに「あなたがたに平和があるように」「もう泣かなくてもよい」「さあ来て、朝の食事をしよう」と声をかけてくださっていいます。夜通し漁をして疲れ闇の中にいる彼ら、疲れきった彼らは、この言葉によって闇の中から光の中へと導き入れられました。それは絶望から喜びへと導き入れられたのです。

 いまコロナによって私たちは社会的にも信仰的にも暗闇の中に不安の中に置かれています。しかし、それは永遠に続くものではないのです。語りかけられることによってわたしたちもまた弟子たちと同じように暗いところから光のあるところへ、絶望から喜びへと引き上げられているのです。そのことを信じ、喜びをもって共に歩んでいきましょう。

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