牧師メッセージ

5月17日(日)復活節第6主日礼拝説教「ひとりきり」

更新日: 2020.05.19

復活節第6主日/いのれ(2020.5.17)礼拝説教     伝道師 山内慎平
出エジプト記33章7~11節、ヨハネによる福音書16章25~33節

牧会祈祷
 よみがえりの主イエス・キリストの父なる神さま
 復活節第6主日、「いのれ」という礼拝テーマの下、主日の礼拝へと導かれています。神さま、あなたはわたしたちの祈りを退けることなく、慈しみを注いでくださいました。あなたの計り知ることのできない愛と恵みに感謝しつつ、今、この時に私たちはそれぞれの場で祈りを合わせ、共に祈りを献げます。

 主イエスはご受難の前夜、自分は去っていくが、また戻ってくると約束されました。また、主はわたしたちを孤独の中に置き去りにすることもないと約束されました。この約束に感謝いたします。
 わたしたちが困難の中、失意の中で苦しむ時、どうすることもできない時も、主イエスを自分の内に受け入れ、主が共にいることを信じて、勇気を持つことができますように。キリストに結ばれて、心をひとつにして他者と共に歩む者としてください。

 わたしたちは死によって、愛する一人一人との別れを経験します。亡くなられた一人一人の魂をあなたの愛のみ手に委ねます。魂があなたのもとで、安らかに休息の時を過ごせますように。今、死の別れによって悲しみの中にいる人々の上に、あなたの慰めと平安が豊かにありますように。今、それぞれの場にいる私たちを、天と地を、あなたが1つに結び合わせて下さい。御元にいる人々と共に、この主の日の礼拝を献げる者としてください。

 この祈りを、一人一人の祈りに合わせて、主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

説  教        「ひとりきり」
 今日、最初に読まれましたのは出エジプト記の臨在の幕屋の場面です。雲の柱が幕屋に下り、神さまとモーセが親しく語っています。雲の柱は出エジプト記で度々登場します。エジプトを脱出したイスラエルの人々を先導する神さまの導きのしるしとして、追ってくるエジプト軍からイスラエルの人々を守る道具として現れました。雲の柱は、わたしたちの現実に神様が働いてくださったことの象徴です。
 幕屋での神さまとモーセの対話が今日の箇所の後に登場します。モーセは「どうか今、あなたの道をお示しください」(出33:13)と神さまに訴えます。あなたの道とは神さまの道です。その道は、神さまが共にいて導かれ、人と共に歩まれる道です。モーセは神さまに導きを願っています。この時のモーセの思いには、本当にこれからも神さまは共にいて導き、歩んでくれるのだろうかという不安があったことも想像されます。イスラエルの人々はエジプトから救い出してくださった神さまに何度も背きました。神さまは反省することのないイスラエルの人々のかたくなさに怒り、約束の地までの歩みを共にすることはしないと言っています。そのような神さまの言葉もあり、モーセは不安の中にあったのではないかと思います。わたしたちも神さまが共にいてくださるのかという不安を持つことはあります。

 今日の新約聖書の箇所はイエスさまが弟子たちに語った最後の別れの説教です。弟子たちはこの後、イエスさまの十字架での死に直面し、深い悲しみを味わうこととなります。もうイエスさまは共にいてくれないのだと、不安に襲われます。しかし、今日の箇所でイエスさまが最後に語られた「わたしは既に世に勝っている」という言葉は弟子たちにとって大きな慰めでした。

 31節に「今ようやく、信じるようになったのか」とイエスさまの言葉が記されています。この言葉は、30節の「今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」という弟子たちの言葉を受けたものです。弟子たちは、イエスさまが神さまから遣わされている者、イエスさまの神さまとしての性質、神性に気がつきました。
 イエスさまの人間としての属性を認める人は多くいると思います。イエス・キリストは偉大な教師であり、偉大な人物であることを認める人、その点を尊敬する人はいます。しかし、イエスさまの優れた人間性を認めることはできても、神の子としてのイエスさまを認めることができない難しい現実もあります。キリスト教の信仰において、イエスさまの人間の側面と、神さまの側面の両方を認めることは必要不可欠です。どちらか一方を信じていても、それでは不十分な信仰です。弟子たちは、イエスさまの内に人間と神さまの属性の両方を見出し、理解したことを告白しています。しかし、この確信がこの後崩れ去ってしまいます。
 ルカによる福音書でイエスさまが十字架にはりつけになった場面、イエスさまは自分の両脇で同じく十字架にはりつけられている人に対して、またイエスさまを十字架に付けるよう叫んだ人たちに対して「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と言いました。この言葉は、イエスさまを十字架刑へと追いやったローマの官憲や、ユダヤ教の指導者だけでなく、弟子たちにも同様に語りかけられた言葉です。
 弟子たちは今日の箇所で、イエスさまが神さまのもとから来られたことを信じると、告白しました。いい加減にではなく、真剣にそのように告白したはずです。それでも、その信仰は崩れ去ってしまいます。

 イエスさまは32節で「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」と語っています。イエスさまに敵対する者たちだけでなく、弟子たちの信仰が弱くなり、イエスさまを裏切る、見捨てて去っていくことが述べられています。弟子たちの信仰が崩れ去ることを予感させる言葉です。そして、実際に弟子たちはこの後、イエスさまを裏切ることになります。この弟子たちの姿は、わたしたちの姿でもあります、時に、信仰が弱まることを何度もわたしたちは経験します。
 しかし、弟子たちの裏切りにあってもイエスさまはその行為を叱りはしません。それは、イエスさまがそのような弱さを肯定していると考えることも出来ます。イエスさまからするとそれでよいのです。なぜ、イエスさまは裏切りにあっても強くいられるのでしょうか。
 その答えをイエスさまは「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16:32)と言います。イエスさまはかつてあって、いまもあり、これからもある存在と1つであるために、強いのです。イエスさまが弟子たちの強い信仰に支えられているから強いのではありません。父なる神さまとの一致こそイエスさまを強くしているのです。

 今日の箇所の最後でイエスさまは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と語られます。イエスさまのことを見捨て、去っていこうとする弟子たちに対する叱責の言葉は語られません。むしろ、弟子たちがこれから、この世で受けると思われる困難や苦しみについてイエスさまは心配しています。イエスさまはこの世で苦難があるけれども、この世のすること、人間のすることには限りがあるのだから恐れる必要はないことを語っています。イエスさまはご自身がこの世を去るにあたり、この世に別れを告げるにあたって、この言葉を語っています。「わたしは既に世に勝っている。」と。
 わたしたちの信仰を確信に導くのが「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」という言葉です。この言葉がわたしたちの弱さ、もろさを強めます。

 私たちは生きている現実の中で様々な苦しみや悲しみに襲われます。「なぜ、わたしにばかりこんな理不尽なことが起こるのか」、疲れ果てて「もう世の中はどうなってもいい」という思いになることがあります。今も私たちを苦しめる新型コロナウイルス感染症の脅威、争いや暴力、苦しみや悲惨をもたらす力のすごさをわたしたちは日々目の当たりにしています。一体、これらに終わりはあるのか。この悲惨をもたらす力に神さまは対抗できるのか。わたしたちは様々な不安を覚えます。
 その悲惨をもたらす力にイエスさまは十字架の死と復活の出来事によって勝利しました。「わたしは既に世に勝っている。」はその勝利宣言です。十字架の死、復活といった出来事は、神さまに敵対する力への勝利を象徴しています。死に勝利する力において、イエスさまがわたしたちの信仰を強めてくださるのだと思います。わたしたちが強いから信仰を守れているのではありません。神さま自身がわたしたちの内に働かれる、共にいてくださるからこそ、わたしたちの信仰は強められます。そして、かつてあって、いまもあり、これからもある存在、永遠の存在である神さまと共にいることを確信し生きている人は、無限の希望を得ています。
 わたしたちは悪の力、闇の力によって絶望し、嘆くことがあります。しかし、神さまが自分の内にはたらかれている、共に生きているという確信に生きる人は、その絶望や嘆きは、ある時期までは確かに受け入れなければならないものではあるものの、限りがある、終わりのあるものだと理解します。その有限さを知ると同時に、わたしたちの生活の場に神さまが共にいてくださるという希望は限りないものであることも知ります。

 父なる神が共にいてくださる、その一致こそがイエスさまの強さでした。そして、イエスさまが十字架の死によって示された「これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と語られた究極の愛、その恵みを通して私たちは、父なる神さまとイエスさまの一致に結び合わされ、1つとなります。そのため、わたしたちは弱い時にも強くなります。
 悲しみや苦しみの中で、わたしたちは闇に思いがとらわれ、神さまを見失うこともあるはずです。自分を襲う苦しみに終わりがないように思えてしまいます。すべてに見放されたような気持になるかもしれません。モーセの「どうか今、あなたの道をお示しください」という訴えは、私たちの訴えでもあるのだと思います。苦しみの中で、神さまの導きをわたしたちは求めます。「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」のです。弱くされている私たちを励まし、導く神さまの場所を自分の心の中に用意して生きていくことが、わたしたちに求められているのだと思います。
 「わたしは既に世に勝っている」イエスさまが示された究極の愛によって、わたしたちは悪や闇の力に限りがあることを知らされました。それと同時に、「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる。」という限りのない希望に生きていることを知ります。その希望こそ、弱い私を強くします。祈りましょう。

 ご在天の主イエス・キリストの父なる神さま
 私たちのあなたへの信頼は、この世の絶望、悲嘆、失意によって弱くされてしまいます。しかし、主イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と語られました。弱さの中にあっても、共におられるあなたを信じる確かな心をわたしたちに与えてください。
 あなたの示された愛に、父と子の交わりに、わたしたちも一つとされていることに感謝します。苦しみ、悲しみの中で弱くされている一人一人をあなたが力づけるように、わたしたちが主イエスの名によって祈る者としてください。
 この祈り、主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン。

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