牧師メッセージ

5月 31日(日)聖霊降臨節第1主日 ペンテコステ礼拝説教「聖霊によって生かされ歩む」

更新日: 2020.06.02

聖霊降臨節第1主日ペンテコステ(2020.5.31)礼拝説教     牧師 若林 一義
エゼキエル書37章1~14節、使徒言行録2章1~11節

「聖霊によって生かされ歩む」
 皆さんと共にペンテコステ礼拝を守れることを心から感謝いたします。
 ご存知 のようにペンテコステは、クリスマス、イースターと並ぶ教会の大事な記念日です。過越の祭りから50日目の五旬祭の時に、聖霊降臨という出来事が起こりました。ペンテコステは イエスさまの言葉を聞くだけだった弟子たちが、自ら語る者となり、その結果、信じる者が起こされ、教会が生まれた記念の日です。
 イエスさま は天に帰られる前、弟子たちに、「聖霊が与えられるまで、エルサレムで待ちなさい」と言われました。弟子たちはイエスさまの言葉に従い、共に集まり、祈って、待ちました。でも、 彼らには不安があったと思います。というのもイエスさまは「聖霊が与えられるまで 、エルサレムで待ちなさい 」と言われましたが、「それ」がいつなのか、何日後にとか何月何日にとかおっしゃらなかったからです。しかし、今は言葉に従って待つしかないのです 。
 その 10 日後、五旬祭の日に 弟子たちの物語が大きく動き出します。 一同が集まっていた時、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とルカは記述します。
 「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」、ギリシャ語では「風」と「霊」は同じ語源の言葉です。また、ヘブライ語では 「霊」と「息」は同じ単語です、神の霊は神の息吹として表現されます。
 風を皆さんは目で見ることはできるでしょうか?見ることは出来ませんが、木々や草花が風に吹かれて揺れる様を見るとそこに存在を感じます。息を皆さんは見ることができますでしょう か? 息もまた風と同じように見ることはできませんが、確かに存在します。風も息も見ることはできませんが、確かに必ず存在し感じることができます。神さまの息吹、聖霊も私たちは見 ることはできませんが、確かに存在します。確かに弟子たちの上に降りました 。
 その神さまの息吹は、「炎のような舌の形で弟子たちに降った」とルカは記述します。炎は神さまの臨在を示す言葉として聖書に度々れています。「舌」は「言葉」と同じ言葉です。霊の賜物として舌 言葉が与えられ、弟子たちが語り始めたことを、ルカは「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と表現しています。 洗礼者 ヨハネは ルカ 福音書 3 16 で 「キリストは聖霊と火であなたたちに 洗礼( バプテスマ を授けられる」と 語っていました。 今、その出来事が起こり「一同は霊が語らせるままに、他の国の言葉で話し出した」と報告しています。
 ペンテコステの出来事は、これまで恐れや不安にとらわれ隠れて語ることの出来なかった弟子たちが、語る者に変えられていったことです。14 節からペトロの長い説教が記されています。イエスさまが捕らえられた時ペトロは、「お前もイエスの仲間ではないか」と人々から問われ、「その人を知らない」と否認しています。復活の朝には、自分たちも捕らえられるかもしれないと恐れて、家の戸に鍵をかけて震えていました(ヨハネ20:19)。そのペトロが「あなた方は神の子を十字架にかけて殺したのだ」と人々の罪を公然と指摘しています。
 イエスさまの十字架から50 日目、何の準備も出来ていない弟子たちが、霊に動かされるまま、語り始めます。しかし、そこで語られた内容は、「あなた方が殺したイエスこそ神の子である」と言う、驚くべき内容でした。弟子たちを取り巻く状況は何一つ変化していませんし、50 日前にイエスさまを捕らえて処刑した大祭司や律法学者は依然としてエルサレムの支配権を握っています。群集は弟子たちを異質な集団として不信の目で見ています。事実後の4 章ではペトロとヨハネは捕らえられ、議会で取り調べを受けました。そしてその中で「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と命じられました。それでも、それでも彼らは語ります。それは聖霊に押し出されて語らずにはいられないのです。
 聖霊に押し出されて語られた言葉は、多くの人々の心を動かしました。人々はペトロの話に心を打たれ、「兄弟たち、私たちはどうしたら良いですか」と問いかけました。ペトロは言います「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。ペトロ自身がイエスさまに赦されたように彼らもまたイエスさまによって赦されると語るのです。
 ペトロの勧めに従い、この日に3000 人がバプテスマを受けたとルカは記します。聖霊の賜物は、聞く者にそれが真実であることを気づかせることです。聖霊が働いて弟子たちに言葉を語らせ、聖霊が働いて人々にそれが真実であることを気づかせました。もちろん、聴いた全ての人が信じたのではありません。しかし、確かにそこに言葉を聴いて大きく心を揺さぶられた人々がいるのです。心動かされる、心を揺さぶられる、とは心の生き返りを意味しています。もっと言うと神さまへと再び心を向け、歩む者へと変えられたことを意味しています。
 パウロもまた「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」と言います。主は求める者には、応えて下さるからです。では、その求めはどのようにして為されるのでしょうか。宣教する者の言葉を聞くことによってです。信仰を与えられた者が召され、遣わされ、宣べ伝えることを通して、人は聞き、信じ、呼び求めるようになります。これが起こったのがペンテコステの出来事です。私たちはこの出来事が、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という聖霊の降臨によって始まったことを知りました。ペンテコステの日に説教したのは、ペトロでしたが、ペトロにだけ聖霊が下り、ペトロだけが語る者になったのではありません。ほかの弟子たちにも聖霊が下り、それぞれが語る者に変えられていったのです。一人一人がそれぞれの立場、持ち場で福音を語ることになったのです。
 初代教会は、牧師・宣教師・執事等の役職の区別はなく、一人一人が与えられたみ言葉、喜びを語っていきました。遣わされた教師と共に、皆さん一人一人が立てられてもいます。教会学校では、それぞれの科に教師・スタッフが立てられ、教えます。また、皆さんが、教友であろうとなかろうと、礼拝に来たくても来れない方、病や悩みなどの重荷を負うている方を励まし祈り支える時、皆さんもまた共に命を与えられて歩む者、神さまの言葉を語るもとして立てられています。
 「信仰は聞くことから始まります」が、そのためには語る者が必要です。ペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が下り、弟子たちが聞く者から語る者へ、神さまの業の参加者に変えられました。そして聖霊に促された言葉は、同じく聞く者であった群集をも変えていきました。皆さんもかつて聞いて変えられて、洗礼を受けました。聖霊をいただいて、聞く者から語る者へと変えられました。教師、牧師一人が聖霊に満たされて語っても、その言葉は広がりを持ちません。皆さんが聖霊に満たされている、そして聖霊と共に語られた言葉を語るものとして私たちは歩みが与えられます。それとともに教会は新しい歩みを日々進めています。
 エゼキエル書に「枯れた骨が神の霊によって生き返る」とありました。それはまさに渇望している中に神の霊が与えられて、絶望から喜びへと変えられている様が描かれています。わたしたちは日々様々なことに惑わされ振り回され、疲れ渇望しています。しかし、エゼキエルは主によって絶望の中に希望が、喜びが与えられて再び命を与えられるのだ、新しい命が与えられるのだと語ります。
 それは弟子たちも同じであったのです。絶望と不安、恐怖に捕らえられ鍵をかけ閉じこもっていました。しかし、彼らに喜びが与えられたのです。聖霊は恐れに捕らわれていた主の弟子たちに命を吹き込んで、彼らを大胆に主の証しに生きるキリストの証人として生かし始めました。そして聖霊は今も、この私たちのうちに住み、私たちに力を与え、私たちを新しい人として生かし、一つに集め、そしてここから遣わしてくださるのです。
祈りましょう。

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