牧師メッセージ

6月28日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝説教「その道を歩もう。」

更新日: 2020.06.30

聖霊降臨節第5主日(2020.6.28)礼拝説教     伝道師 山内慎平

ミカ書4章1~7節、ヘブライ人への手紙12章18~29節

牧会祈祷

 求めるものを捨ておくことのない、救いの源である神さま
 聖霊降臨節第5主日、あなたにこの1週間を守られながら過ごし、この礼拝へと導かれていますこと感謝いたします。私たちは様々な隔たりを超えて、この主の日に祈りをささげます。
 
 主よ、私たちを聖霊によって整え、あなたからの言葉を受け入れるようにしてください。私たちの心を騒がせる様々な声を沈黙させ、ただあなたの声を心に響かせることができますように。
 
 あなたは世を愛し、この世界のあらゆるところにあなたの教会を建てられました。あなたに仕えます私たちは、あなたが愛のわざを行う時の手であり、行きたいところに行く足であり、語りたいことを語る口であり、見たいものを見る目です。しかし、私たちは必要とされる時に、あなたのためにこの体を用いることを喜びとしないことがあります。どうか、私たちの思いも、言葉も、行いも、周りに向かって開くことができますように。私たちを他者と共に生きる者としてください。
 
 私たちの世界は多くの分断によって引き裂かれています。偏見、差別、それぞれの思いにとらわれて、互いを分け隔て、攻撃し合っています。隣人の命が危険にさらされています。どうか、あなたがこの悲惨さや痛みをもたらす分断を超えて、共に生き、分かち合う一致をもたらしてください。一人一人があなたの命の息を吹き込まれている、かけがえのない命であることを気づかせてください。

 私たちは今も新型コロナウィルスの脅威にさらされています。あなたが一人一人の命を守ってください。また、その命を守り、支えています一人一人の働きを祝し、支えてくださいますように。

 この祈りを、一人一人の祈りに合わせて、主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。

説  教        「その道を歩もう。」

 ヘブライ人への手紙では、信仰の歩みを徒競走にたとえています。そのイメージは旧約聖書の時代から神さまの約束を信じてきた人々の歩みが一本の線のようにつながっている、リレーレースのようなものとして語られています。
 私たちの信仰の歩みもそのようにつながってきたものではないでしょうか。あの人のおかげで教会につながっていられる。あの人によって私の信仰は強められた。そのような経験を私たちはしていることと思います。リレーレースのように、私たちは多くの信仰のバトンを渡され、また渡しています。
 信仰の歩みは決して楽しいだけではありません。時には忍耐も求められます。手紙の著者も競争に例えた信仰の歩みを忍耐強く走り抜くことを語っています。その歩みは一人で歩き通すことはできないものでしょう。一人一人があの人がいたからこそ、この人がいたからこそ歩めたはずです。そして、今日の読まれた手紙の箇所で私たちは改めて、自分たちの信仰の歩みに心強い同伴者がいることに気づかされます。

 今日の聖書箇所であるヘブライ人への手紙ではシナイの山とシオンの山、2つの山が比べられています。シナイ山はイスラエルの人々を代表してモーセが登り、神様から律法を与えられた山です。
 シナイ山は「手で触れることができる」(12:18-19)地上に存在する山です。しかし、そこでは「燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音」(12:18-19)と、恐ろしい現象が起きています。辺りは暗く視界が悪く、雷やラッパの音の大音響が鳴らされ、人々を怖がらせる現象が起きています。また、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」(12:20)のであり、危険を冒してシナイ山に近づく者は、獣であろうと滅ぼされます。ヘブライ人への手紙では、シナイ山の恐ろしい描写が記されています。
 そして、自然現象よりさらに人々を震え上がらせるものが神様の声です。それは「聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声」(12:18-19)です。出エジプト記でイスラエルの人々はモーセに、神さまが直接自分たちに語りかけないように望んでいます。イスラエルの人々が言うには、神さまが語りかけてしまうと「私たちは死んで」(出20:19)しまうからです。また、イスラエルの人々と同じようにモーセですら、神さまの怒りの前でおびえ、震えました。
 この手紙でシナイ山は恐れに満ちた場所として語られています。シナイ山は罪を背負っている私たち人間が近づくと、恐れを起こさせるものなのです。それでは、私たちは今、このシナイ山にいるのでしょうか。

 この手紙には、私たちがシナイ山にいるのではなく、シオンの山に近づいていると記されています。この箇所には神さまの豊かな救いが描かれています。
 まずシオンの山は、「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都」(11:10)である天のエルサレムです。シナイ山とは異なり、そこは恐ろしい場所ではありません。神さまの国、平和がもたらされる場所です。
 その神の都には無数の天使たちが祝いの集まりを開き、「天に登録されている長子たちの集会」(12:23)も催されていることが記されています。「天に登録されている長子たち」は、神さまの長子であるイエスさまにつながり、洗礼を受けたキリスト者のことです。その人々が、天使と共に天で集っている様子が描かれています。
 また、シオンの山には神さまが審判者としています。神の都に来るのはイエスさまにつながり、その入り口を通過してきた人々です。イエスさまは「聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者」(10:14)とします。それは圧迫や迫害といった困難の中にいた人たちの権利を永遠に完全なものとして回復させます。シオンでは、そのイエスさまを遣わした神さまが審判者です。シナイでモーセに与えられた律法のような厳しさはありません。
 また、シオンには「完全なものとされた正しい人たちの霊」(12:23)も存在します。この霊は、イエスさま以前、またイエスさまの生きた時代にすでに死んでしまった、敬虔な人たちの魂です。神の都、シオンには多くの人々が招かれています。
 共通してシナイとシオンには血があります。シナイ山の上にある血はアベルの血です。人類最初の殺人の犠牲者ともいわれ、兄カインによって殺されたアベルの血です。その血は土の中から神さまに向かって復讐を叫び求める血です。
 一方、シオンの山の上にあるのはアベルの血よりも立派に語るイエスさまの血です。その血は、イエスさまが十字架の上で贖いのために流されました。その血によって、イエスさまは新しい契約の仲介者となりました。新しい契約は赦しの契約です。それは「召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐ」(9:15)契約です。アベルの血は復讐を、イエスさまの血は赦しを求めるものです。
 この手紙の著者はシナイとシオンの2つの山を対照的なイメージで語っています。どちらの山がより魅力的かと言えば、おそらくシオンの山の方が魅力的なのではないでしょうか。

 この救いに対して、人々がどのような態度をとるのかが大切になります。手紙の著者は、イスラエルの人々が神さまに対して不安を抱き、神さまを拒絶した結果、その人々が荒野で滅びたと厳しい評価をしています。
 また、イスラエルの人々は、シナイ山でモーセを通じて神の啓示を受けました。一方、新しい契約の時に、神さまは御子イエス・キリストを私たちに遣わし、御子を通して語りました。そのため、手紙の著者は神さまとモーセを拒絶したイスラエルの人々のように、「天から御旨を告げる方に背を向ける」(12:25)、御子イエス・キリストを拒否する者も罰を受ける、それもより厳しい罰を受けることになると語ります。
 厳しい言葉と共に、私たちにとって喜ばしいこともこの後に手紙の著者は語ります。それは「揺り動かされることのない御国」(12:28)を受けるという約束です。
 旧約の時代、地を揺り動かす地震は頑丈な建物でさえ、その土台から壊すほどの破壊的な力を持っていました。新約の時代、イエスさまによる新しい契約の時代に神様は、「揺り動かされないものが存続するために」(12:27)地を揺り動かします。破壊ではなく、正しい人々を保護するために地を揺り動かします。
 神さまの守りの内にある揺り動かされることのない御国を、未来であっても必ず受け取ることになることを手紙の著者は語っています。そして、その御国を受けるからこそ、私たちには感謝をもって神さまに仕えることが求められているとも著者は述べています。
 この手紙の部分では、本当に豊かな救いのイメージが描かれています。それは、シナイとシオンの二つの山の対比によって、鮮やかに描かれています。対比されていることによって、シナイとシオンの神さまが別々の存在に感じられます。しかし、今日の箇所で語られたシナイとシオンの神さまは当然、同一の神さまです。

 今日の箇所は、「実に、私たちの神は、焼き尽くす火です」(12:29)という一文で終わります。神さまは焼き尽くす火であり、完全に焼いてあらゆるものを灰にする破壊的なものであるというイメージが浮かぶ一文です。その火はマタイによる福音書で語られる終わりの日に「つまずきとなるものすべてと不法を行う者ども」(マタ13:41)を焼き尽くす火です。しかし、それと同時にこの火は清め、保護するものでもあります。マラキ書では、鉄を精錬する火のように人を清め守る火(マラキ書3:2-4)として表現されています。
 シナイとシオンの同一の神さまは、焼き尽くす厳しさと守り清める優しさの両方を持ち、決して厳しいだけ、優しいだけの方ではないことを最後の文から知らされます。私たちの神は、そのような焼き尽くす火なのです。また、火と同様に破壊するためにも、保護するためにも地だけでなく天をも揺り動かす方です。
 この神さまのイメージを知らされて、わたしには不安が生まれます。それは終わりの時に自分は焼き尽くされ、埃のように払い落される者なのか、それとも清められ、揺り動かされることのない貴重な者なのかという点です。
 しかし、私たちにはよき知らせがあります。それは、「御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる」(7:25)イエスさまが共にいてくださるということです。

 シナイ山とシオンの山への2つの道が手紙の中で示されましたが、どちらの道に行っても同じ頂上で神さまと会うことになるでしょう。違うのはどの道を行くかだけです。イエスさまはこの手紙の冒頭で天使たちより優れた存在と言われていながら、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされ」(2:9)、私たちと同じように苦しみました。イエスさまがそうしたのは、「地上ではよそ者であり、仮住まいの者」(11:13)のようであり、「神が設計者であり建設者である」(11:10)都をまだかまだかと探し求めているすべての人に慈しみを示すためでした。御国が訪れる時、イエスさまは共に歩いてきたすべての人をそこへ招き入れます。
 私たちに開かれている道は自力で好きなように登ることもできます。しかし、それは神さまの恵みにばかり甘え、福音を拒否するような歩みになりかねません。私たちに語り掛ける神さまの言葉は諸刃の剣です。その言葉は厳しくもあり、優しくもあります。その言葉を前にした時、イエスさまがご自分を通して開いてくださった新しい道を通り、神さまのもとへと導かれるのかどうかが大切となります。その道を前にして、恐れて身を引くのか。それとも憐れみを受け、恵みにあずかって、時に応じた助けをいただくために、大胆に神さまのもとへ近づくのか。その決断に迫られます。
 イエスさまは、無力で弱い私たちを御国へと招き、受け入れてくださいます。私たちが大胆に神の都に近づこうとするとき、私たちもその道につながります。多くの信仰の先達が進んできた道をイエスさまに導かれつつ進んでいくことになります。その道の先で、自身の血によって赦しの約束を示されたイエスさまが、約束された神の都で弱く、無防備な私たちでさえも中に入るように招いていてくださいます。そのイエスさまの招きに従って、私たちは重荷やつまずきになりうるすべてのものを捨て去って多くの信仰者がそうしてきたように大胆に神の都に近づきたいと願います。

 ご在天の主なる神さま
 「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」。私たちはあなたから与えられる恵みにばかり感謝し、あなたが厳しさを持って語られる福音から遠ざかり、あなたの恵み豊かな言葉を素直に受け入れることのできない弱さを抱えています。どうか、あなたへと信頼しきって近づくことができるよう、私たちに躊躇することがない大胆さをお与えください。
 御子イエス・キリストが、私たちの弱さ、嘆きを受け入れ、神の目に値高い者として受け入れてくださり、私たちに先立って御国へと続く道を歩いてくださっていることを確信して、信仰の道を歩んで行けますように。

 この祈り、主イエス・キリストの御名によっておささげ致します。アーメン。

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