牧師メッセージ

8月23日(日)聖霊降臨節第13主日礼拝説教「キリストの思い」

更新日: 2020.08.25

聖霊降臨節第13主日(2020.8.23)礼拝説教     伝道師 山内慎平
ヨブ記28章12~28節、コリントの信徒への手紙一2章11節~3章9節

牧会祈祷
 天地の造り主、わたしたちの命の源である神さま
 今日もわたしたちに安息の日を備え、それぞれの生活の場から呼び集めてくださり、あらゆる場所でともに聖霊降臨節第13主日の礼拝をささげられますことを感謝いたします。

 一週間の歩みは喜びだけでなく、心も体も疲れを覚えることがありました。孤独や痛みに耐えなければならないことがありました。あなたの愛を疑うこともありました。しかし、あなたがしっかりとわたしたちに寄り添ってくださっていたことを思い出します。あなたの愛を疑い、心があなたから離れていました。あなたの赦しを願います。

 わたしたちの生活を、命を支える自然のことを覚えて祈ります。今、船の座礁事故によってその海に生きる多くの命が奪われ、命が脅かされています。そして、同じようにいたるところで自然が傷つけられています。その回復のために働かれる人々をあなたが強めてください。また、この自然に生きる一人一人が、共に生きるすべての命とその命を吹き込まれたあなたに心を向けて、生きていくことができますように。

 わたしたちは先日、信仰の友を御元へと送りました。その生涯をあなたが守り、多くの恵みを注いでくださったことを感謝します。明日行われます葬りの式を通して、生にあっても死にあってもわたしたちを導くあなたが慰めと癒しを与えてくださいますように。

 主よ、苦しみの中で安らぎを求めている人々のために祈ります。突然の病に驚きと不安を覚えている人、原因の分からない痛み苦しみに耐えている人、人と会うことのできない孤独の中にいる人、災害の被害によって、今も途方に暮れる人、すべての人をあなたが励まし、支えてください。癒しを与えてくださいますように。

 この感謝と祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。
 アーメン。

説  教        「キリストの思い」

 コリントの信徒への手紙は、パウロが設立に関わったコリントの教会に宛てた手紙です。そして、コリントの教会が抱える問題に対処するために、この手紙は書かれました。今日の聖書箇所では、2つの問題について語られています。
 その問題の1つは、コリントの教会の人々がどの伝道者に教えを受けたのか、誰から洗礼を受けたかで派閥ができ、互いに争う状況が生まれていたことです。パウロがコリントを去った後、教会には様々な伝道者がやってきて、教会で宣教活動を行いました。今日の新約聖書の箇所にも出てきますが、教会の人々は、それぞれ「パウロにつく」、「アポロにつく」などと言い、グループが教会内で生まれていました。
 問題の2つ目は、信徒の中に特別な霊的な知識、神様のことについて特別なことを知っていると言い、他の信徒を見下すような態度をとる者がいたことです。コリントの教会には様々な人が所属していました。裕福な者から奴隷に至るまで、社会的、経済的に異なる人々が属していました。そこに、知識や知恵の差もありました。
コリントの教会は誰につくのか、という派閥の問題、知識の差による差別の問題によって分裂しかかっていました。

 自分には特別な霊的知識があり、誰よりも神さまの思いを理解していると自負し、教会で分裂をもたらしている人々を、パウロは「肉の人」(3:3)と呼び、その態度を厳しく非難しました。肉の人と呼ばれ、自身の霊的な知識を誇る人々は、自分こそが神さまに属する「霊の人」であると考えていました。しかし、パウロからするとその人たちは霊の人ではありません。彼らはその逆の肉の人でしかないのです。
 コリントの教会で自分たちの知識を誇っていた人たちは、洗練された霊的な知識や神秘的な経験が乏しい人たちを肉の人と見なしていました。そのため、神さまに関する特別な知識を持つと自負する人々にとって肉の人とは、自分たちより劣った人たちのことでした。しかし、今日の手紙の箇所で、霊的な知識を誇る人々はパウロから肉の人と見なされています。パウロは知識を誇る人々とは違う意味で肉の人という言葉を使っています。パウロがこの手紙で語る肉の人とは、教会内で競い合い、分裂をもたらすような人です。そして、パウロはそのような人々を乳飲み子、赤ん坊にたとえ、未熟だと非難しました。パウロはコリントの教会の人々に霊的であることの意味を強く問います。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいるということになりはしませんか」(3:3)と。
 ねたみと訳されている言葉は、宗教的な熱心さをも意味しています。ねたみと聞くと、些細なことで教会の人々が口論している場面を想像しますが、コリントの教会で起きている問題は、ある程度、お互いの神さまや信仰の理解に基づいたものでした。それぞれのグループが自分たちの信仰を守るために熱心であったために、教会内で争いが生じたともいえます。しかし、そのように信仰上の熱心さから互いに競い合うことは肉の人の行いだと、パウロは言います。コリントの教会の人々は自分の信じる神さまへの熱心さから行動していても、大切なことを忘れてしまっています。そのため、コリントの教会の人々は、自分の信仰が成熟していると思っているのに、パウロから言われているように、その信仰は未熟で、肉の人、教会を分裂させかねない人でしかありません。

 コリントの教会で知識を誇っていた人々が忘れていたことは、神さまの存在です。本人たちからすると、忘れていなかったのかもしれません。しかし、その態度や行動によって、教会が分裂の危機に陥っているのですから、神さまを忘れてしまっていると言われても仕方ありません。コリントの教会での問題は、自分たちの思いや世間の習慣や常識に従っているために起こりました。
 問題に直面しているコリント教会の人々に、パウロは彼らが忘れている重要な事実を示します。それは、「わたしたちはキリストの思いを抱いています」(2:16)ということです。「思い」と訳される言葉は、「霊」も意味します。パウロは、洗礼によって教会のメンバーとなり、神さまに属するものとなったわたしたちは皆、キリストの霊を受けていると言います。皆がキリストの霊を受けているという事実の前で、霊的な知識を誇っている人々の誇りは何の意味も持ちません。神さまにつながっている一人一人が、神さまの思いを知るように求められています。
 それでは、キリストの思いを抱くことは何を意味しているのでしょうか。パウロにとって、主の思いを抱くとは、十字架につけられたイエスさまを模範とすることです。へりくだり、わたしたちの贖いのために十字架につけられ、死なれたイエスさまの深い愛に根ざしたその姿を手本として生きていくことが求められています。神さまにつながっているわたしたちはその思いを区別なく与えられています。神さまの思いは分裂や不一致を望んではいません。キリストの思い、主の霊は一致をもたらします。そして、人々と教会を一つにし、互いに喜び合うことができるようにします。

 コリントの教会には、霊的な知識の有無、どれだけ神さまの思いを理解しているのかという点で優劣をつける人たちが存在していました。生まれも育ちも違う人たちが集まればどうしてもお互いの違いに注目してしまいます。コリントの教会もそうでしたし、今の教会であっても様々な人がいます。わたしたちはそれぞれに違いを持つ人々と共に生きています。
 1カ月ほど前に、大阪市で自治会の班長選びをめぐり、男性が、自身が障がい者であることなどを記した文書を書くことを強要され、それが原因で自殺したというニュースがありました。このニュースを見て、改めて私の問題として、違いを超えて他の人と生きることについて考えさせられました。
 男性は精神の病気を理由に自治会の班長選びを辞退しようと申し出たところ、当時の班長から特別扱いはできないと言われ、他の住人の理解を得る目的で、自身の障がいや、「できないこと」と「できること」を挙げた文書を書かされたと報道されています。
 実際に男性が書いた文書には、「しょうがいがあります」、「けいさんができません」といった項目が挙げられ、そこに○×で、できることか、苦手なことか書いてあったそうです。
 特別扱いはできないが、他の住人の理解を得るために、本人にできること、できないことを書かせるのはあまりに酷だと感じました。それは男性の抱える問題を他の人たちも知り、共に生きていくうえでは必要かもしれません。しかし、違いばかりが強調されて、誰かが外に追いやられてしまうことは避けないといけません。そのために、違いを乗り越えた新しい関係を結ぶ何かが必要です。
 そのようなわたしたちに新しい関係をもたらすのは、神さまが示された愛、わたしたちが抱く主の思いなのだと思います。

 3章でパウロは教会を畑にたとえ、そこに様々な働きがあること、そのすべてを神様が成長させてくださると主張していました。この主張は、コリントの教会の問題の1つであったどの伝道者の側につくのかという派閥争いに対するものです。教会の人々は、パウロにつく、アポロにつくと、互いに争っていました。しかし、パウロからすると、両者の働きは違うものであっても、結果として教会を成長させるのは神さまです。その違いにこだわることには意味がありません。神さまによって、それぞれが違う働きを与えられているのです。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」(3:9)です。その働きは一人一人違います。ここで、働きの違いにばかり注目してしまうと、わたしたちは肉の人になってしまい、分裂を招いてしまいます。そうではなく、私と生きている一人一人が多様な働きを担い、その一人一人を神さまが愛をもって育ててくださっている。そのことに気づくことが、キリストの思いを抱いているわたしたちに求められていることなのだと思います。一人一人の存在に関わっている神さまを見つめることが、互いの違いを乗り越えた関係を結ぶ上で大切なのだと思います。
 神さまは知識や知恵でわたしたちと関係を結ばれませんでした。何よりもその深い愛によって関係を結ばれました。キリストの思い、主の霊に導かれて、わたしたちは喜びあって他者と生き、互いが責任をもって関わり合い、争うことなく互いの違いに向き合うことができる交わりを生み出していけるように願います。

 ご在天の主なる神様
 あなたから受け、わたしたちが抱いているキリストの思いを通して、わたしたちが共に生きる人々と一つとなる交わりを作り出せるよう導いてください。私の思いではなく、あなたの思いに、わたしたちの心を向けさせてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によって、おささげいたします。
 アーメン。

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