牧師メッセージ

10月25日(日)降誕前第9主日礼拝説教 「わたしたちを造られた方」

更新日: 2020.10.28

降誕前第9主日(2020.10.25)礼拝説教     伝道師 山内慎平
箴言8章1、22~31節、マタイによる福音書10章28~33節
 天地を創造され、私たちと共にいてくださる神さま
 教会の暦は新しい期節に入り、降誕前第9主日を迎えました。あなたが私たちの生活の中に与えて下さる恵みによって、疲れを覚え、弱くなっている心と体を新しくしてくださいますように。
 あなたに与えられた新しい朝、ライブ配信などを通じて、それぞれの場でこの礼拝の時を覚えて、祈りを合わせています一人一人の上にも変わらないあなたからの祝福が豊かにありますように。
 この世界に建てられていますすべての教会をあなたが今週も導いてください。困難に直面していますすべての教会の歩みをあなたがお守りください。
 主よ、あらゆる暴力に苦しめられています人々のことを覚えて祈ります。虐待や体罰、中傷や差別、争いによって多くの人が傷ついています。神さま、どうかその命を暴力からお守りください。その命を支えてください。
 苦しみの中にある人のことを覚えます。病気の人、悩んでいる人、悲しむ人、孤独な人。それらすべての人をあなたが励まし、支えて下さいますように。また、その人々のために働き、支えとなっています一人一人をあなたが励まし、力を与えて下さいますように。
 この祈りを、一人一人の祈りに合わせて、主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

説  教 「わたしたちを造られた方」
 今日から教会暦も変わり、聖霊降臨節から降誕前節に入りました。これからクリスマスまで、イエス・キリストの誕生を迎える準備の期間となります。最初の降誕前第9主日は、神さまの創造を思い起こし、その準備をしていきたいと思います。
 先程読まれました旧約聖書の箴言8章22節に「主は、その道の初めにわたしを造られた。」とありました。この「わたし」は、知恵が擬人化されたものです。今日の他の箇所でも擬人化された知恵である「わたし」が登場します。
 知恵は自らのことを、8章30節で「巧みな者」であると言います。この「巧みな者」は複数の訳があり、その一つとして、「幼児」、「小さなこども」という翻訳があります。その訳に従えば、神さまによって造られた知恵は「日々、主を楽しませる」(8:30)小さな子どものようなものとなります。知恵は神さまの前で小さな子どものように喜び、楽を奏す、はしゃぎます。小さな子どものような知恵は神さまにとっての喜びです。また、知恵は神さまが造られた人間とも共に楽しみ、喜びます。そのため、知恵は人間にとっても喜びです。
 知恵が人間にとってどれほどの喜びなのか、擬人化された知恵は今日の箇所の少し前、8章10-11節で人々にこのように語ります。「精選された金よりも、知識を受け入れよ。知恵は真珠にまさりどのような財宝も比べることはできない」。知識を得ることの喜びは大きく、それは金や財宝とは比べ物にならないほどであると言われています。
知恵があれば人は「理解力のある人にはそれがすべて正しいと分かる」(8:9)知識や公平さを得、正しい道を進むことができることが語られています。そして、知恵は傲慢やおごり、悪を憎むものであるとも言われています。知恵は人を正しく導くからこそ、大きな喜びとなります。この知恵は私たちの人生を支えるものです。
 それでは、この知恵はどのようにしたら得られるのでしょうか。「主を畏れることは知恵の初め。」(1:7)この姿勢が求められています。人が神さまを畏れ敬うことが知恵を求める人の初めとして語られます。箴言では、世界を創造した神さまの働きが語られます。8章22-29節でも、神さまが大地や天を造られた様子が語られていました。この世界を創造した神さまを知り、求めることが知恵の始まりとなります。

 神さまによる世界の創造は、何らかの理由でご自分以外のもの、被造物を必要として始めたものではありません。神さまはただ自由に世界を創造することを決めました。また、その決意は世界を造って終わるようないい加減なものではありません。神さまは御自分が造られた被造物を愛することも決めました。初めから、神さまによる世界の創造には、神さまの愛が示されています。教会学校の今月の暗唱聖句でもあります、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創1:31)と、神さまはご自身で創造されたものすべてを肯定し、喜んでいます。
 しかし、最初の人間アダムとエバは、禁じられた木の実を口にしたことで、神さまとの約束を破り、罪を犯し、神さまを悲しませました。そして、神さまはアダムに、犯した罪によって大地は呪われたものとなり、食べ物を得るのに苦しまなければならないと言われました。人間の神さまへの背きによって、人間と自然のバランスは崩れました。
 また、人間は被造物を通して神さまを知ることができます。パウロは「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ロマ1:20)と言いました。しかし、人は心が弱まり、造り主である神さまではなく、造られたものの力に頼り、それらを拝んでしまい、被造物と神さまの関係が崩れていきます。
 神さまの創造の働き、その恵みに対して人間は初めから、罪を犯し、神さまを悲しませてきました。それでは、その罪によって、人間と造り主である神さまとの関係は壊れてしまったのでしょうか。

 教会の歴史の初期に、キリスト教の神を善なる神と悪なる神に区別する考えが登場し、問題となりました。それは、人の魂は善なる神が造り、人を罪に誘う肉体は悪なる神が造ったという考えです。この考えでは、体は魂と比べて劣ったものとして扱われます。肉体を劣ったものとする考えは、様々な広がりを見せ、禁欲主義の人々からは、肉体はただの汚れた肉の塊として扱われ、自身で肉体を痛めつけました。また、人間の体を単なる物として扱う態度も生まれました。
 しかし、この体を否定することは危険なことです。自分の体をいらないもの、汚れたもの、単なる物として扱うことは、本人からしてみたら単に自身の肉体だけを否定していると思っているのかもしれませんが、肉体の否定は、人間の存在すべての否定になってしまいます。それは、私たちを造られた神さまを否定するもので、同時に自分自身を、自分の命を、そして、造られた世界そのものを否定することへとつながります。

 体を劣ったものとして扱うことにより、人間は造り主である神さまとの関係を断ち切ってしまうこととなります。神さまの創造から離れれば、自分の体を含めた存在すべてはそれこそ、ただの物であったり、否定すべきものになってしまいます。神さまは被造物をただ自由に創り、愛することを決めました。体を否定することは、創造における神さまの恵み、神さまがすべての被造物を受け入れてくださったその愛の関係から自分を引きはがそうとすることになります。
 しかし、体を劣ったもの、憎いものだと思っていない人であっても、すべての人は自分が今生きている現実の中で苦しみや辛さを味わっているとき、つらい現実から逃れるために自身の体と、生きているこの現実を壊したい思い、憎しみに駆られることがあります。その衝動を自分に向け、自死を選ぶ人がいます。その衝動を他者に向ける人もいます。
 箴言の今日の箇所の8章の結びに「わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者」(8:36)とあります。自身の体を、現実を憎んでいる人は、その全てを造られた神様を見失っている。もしくは、そもそも世界を創った神さまの存在を知らない人もいるはずです。その人たちが、造り主であられる神さまを見出すことが、自分自身や自分の生きている現実に向けられた憎しみからの解放をもたらすのだと思います。
 今日一緒に読んでいただいた新約聖書のマタイによる福音書で、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(10:30)と神さまは言われました。ここには、髪の毛の一本一本を数え、それを知っているほど私たちのことを愛している神さまの姿が語られています。例え、神さまを見失おうとも、知らずとも、造り主であられる神さまはその一人一人に愛のまなざしを向けていてくださいます。
 箴言で知恵は人間に呼びかけます。「わたしを見いだす者は命を見いだし 主に喜び迎えていただくことができる」(8:35)。知恵に導かれ、私たちを造られた神さまを見出したキリスト者は、この福音を今も憎しみの中や苦しみの中にいる人たちに伝える役目が与えられています。そして、その役目は決して簡単なものではないはずです。不安や恐れもあります。
 しかし、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタ10:28)。私たちが本当に恐れるべきは命を司る神さまです。神さま以外に私たちの命を滅ぼすものはいません。私たちにとって、この神さまを知っていることは大きな力になるはずです。

 知恵の初めは、主を畏れることでした。畏れるとは、神さまを怖がる、恐怖することではありません。それは、驚くことです。神さまはこの世界を造られ、すべての被造物を愛することに決めました。この神さまの創造の恵みに驚くことが、主を畏れること、知恵の初めなのだと思います。
 知恵は神さまにとっても、人間にとっても喜びでした。神さまの創造の働きを知ること、感じることは私たちに喜びをもたらします。神さまによって造られた私たち人間は、その存在すべてが神さまを源にしています。だからこそ、体だけが劣った、必要のない物であり、魂だけが大切な物というような区別はありません。魂も体も含めた、存在すべてがかけがえのないものです。苦しみや憎しみで、神さまとのつながりを忘れることがあるかもしれません。その時、神さまを見出している人は造り主であられる神さまの知恵をその人に示し、傲慢や悪を憎む正しい道を教えることができます。そして、共に神さまの造られたこの世界、現実に生きていることを喜ぶ生活へと進んでいくことができるのだと思います。私たちを造られた方の恵みに、私たちを活かしてくださる命の源である神さまの知恵に従いながら、歩んで行きたいと思います。

 ご在天の主なる神さま
 あなたがすべてのものを造られ、すべてのものを顧みていてくださいますことを感謝いたします。私たちの人生には、困難や苦しみがあります。しかし、知恵の呼びかけに応え、あなたを見出し、命の源であるあなたとつながり、生きていくことができますように。創造の恵みに気づいていない人々と共に、その恵みを喜ぶ生活を送ることができますよう、私たちを導いてください。アーメン。

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