牧師メッセージ

11月22日(日)降誕前第5主日礼拝説教 「たすけて、王さま。」

更新日: 2020.11.26

降誕前第5主日(2020.11.22)礼拝説教     伝道師 山内慎平
ミカ書2章12~13節、マタイによる福音書25章31~46節

 私たち導く主なる神様
 あなたに与えられました新しい朝、降誕前第5主日を迎え、礼拝へと招かれました。共にこの会堂で礼拝を守るお一人お一人、また、ライブ配信などを通じ、それぞれの場でこの礼拝の時を覚えて、祈りを合わせていますお一人お一人の上に変わらないあなたからの祝福が豊かにありますように。安心して互いに顔を合わせて会うことすら難しいこの時に、あなたが場所を超えてわたしたちを1つに結び合わせ、祈りを共にできますように。
 今日は謝恩日のことを覚えます。隠退教師とそのご家族、逝去された教師とそのご遺族の方々お一人お一人の生活を支えるよう、わたしたちがおささげしますものをあなたがどうか用いてください。
 また、収穫感謝日を覚えて祈ります。人は汗を流して種を蒔き、作物を育て、実りを待ちます。今年も実りをもたらしてくださったあなたの恵みに感謝いたします。多くても少なくても与えられました収穫を、必要としていますすべての人と争うことなく、喜びをもって互いに分かち合うことができますように。これからも、豊かな実りを与えられますあなたにすべてを委ねます。
 苦しみの中にある人のことを覚えます。病気のために痛み、苦しんでいる方々、その方たちの治療、回復の上にあなたのお守りがありますように。悲しむ人や孤独な人のそばにあなたが共にいてください。私たちを見放さず、見捨てないあなたの思いに応え、困難の中にいる人々を支えておりますお一人お一人の働きをあなたが励まし、力を与えて下さいますように。

 この祈りを、一人一人の祈りに合わせて、主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

説  教 「たすけて、王さま。」
 今日、読まれましたマタイによる福音書の箇所は最後の裁きの場面を描いたものでした。最後の裁きの時、私たちは救われるか、滅びるかという判決を神さまによって下されることになります。神さまによって罰せられる人々は「呪われた者ども」と呼ばれ、「永遠の火」に焼かれるという厳しい光景が描かれていました。この厳しい裁きの光景を知ると、最後の裁きがとても恐ろしいものに思えてしまいます。
 今日、読まれましたミカ書の御言葉は、私たちが困難の中に、絶望の中にあろうと神さまがそこから解放してくださる、救いの約束を語っていました。しかし、この救いの約束を語る直前の箇所では、神さまが厳しい裁き、災いを下すことが語られています。今日の御言葉は、厳しい裁きの言葉の後に語られた救いの約束の言葉です。
最後の裁きは恐ろしいものですが、神さまはただ人を救いか滅びかに裁くだけではなく、必ず私たちを滅びから、絶望から救い出すように呼び掛けてもいると思わされます。どんな困難、絶望の中にあっても神さまが示されている救いの道が用意されていることは、大きな安心だと思います。

 ミカ書の始めには、裁きについての厳しい言葉が語られます。預言者はサマリアとユダに暮らす人々へ神さまの語られた言葉を聞くように求め、「主はその住まいを出て、降り」(1:3)と、神さまが人々のところへ来られることが語られています。預言者は、神さまが来られるのはイスラエルの人々の罪のためであり、その罪を裁くために来られることを告げます。
 この預言者の裁きの預言を聞いた人々はなぜそのような裁きが自分たちに下るのか疑問に思い、自分は神さまに対して罪は犯していないと思った人々もいたはずです。そのような人々に対して、預言者はより具体的になぜかという理由の1つを2章で語ります。預言者は、裕福な人々が自分よりも力のない他者から畑や家といった土地を取り上げてまで、自分の財産を増やそうとするその貪欲さを神さまは裁くことを告げます。2章1節では「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ 悪事を謀る者は。」とあり、他の者の土地を得ようとしている裕福な人々が夜眠ることもせず、自分の財産を増やすために、悪事を企んでいる姿、裕福な人々の貪欲さが描かれています。
 その裕福な人々に対して、神さまも「わたしもこの輩に災いをたくらむと。」(2:3)と語られます。神さまは他者の土地を得ようと企む人々に災いを企てていることが、預言者によって伝えられます。災いにより、他者の土地を欲しがっていた人々の欲しがっていた土地は他の人の所有となります。神さまは、彼らが奪った土地を彼らから取り去るという、罰について語ります。この預言者が語った貪欲な人々への裁きの言葉を聞いた人々が素直に預言を受け入れたかと言えば、そうではありませんでした。

 預言者の説教は、裕福な者や権力者にとっては不都合に聞こえたのでしょう。裕福な人々は預言者の非難を認めず、預言者に「たわごとを言うな」(2:6)と言い、預言を語ることを辞めさせようとしました。そして、預言者の語る言葉に反対します。「ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」(2:7)と、自分たちの信仰に基づいて預言者に問います。預言者に非難された人々は、ヤコブの家、つまりイスラエルの人々の上には、神さまがアブラハムに約束された祝福、「わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。……地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」(創世記12;2−3)があるではないかと問います。また、忍耐強く寛容な神さまが突然に我慢出来なくなったからといってイスラエルの民である自分たちを裁くだろうかとも問います。預言者が告げた裁きの言葉は、語られた人々には到底受け入れられないものでした。
 裁きの預言を告げられた人々は自分たちの信じている神さまとの約束を示すことで、預言者の語っていることはその神さまの約束とは矛盾している、聞く価値のないものであり、預言者の方こそ神さまに背くものだと、非難しました。人々の頑なさに対して、預言者はもう一度その態度を非難します。預言者は、預言を拒否する人々が自分に都合の良いことだけを語る者を預言者としていると言います。このような神さまの裁きの言葉を聞き入れない人々の態度に対し、預言者は「わたしの言葉は正しく歩む者に益とならないだろうか」(2:7)と言います。わたしの言葉、神さまの言葉は厳しくとも勇気を持って、それを聞くものには正しく、喜びを見出すものであると語ります。預言を受け入れられない人々は知らず知らずのうちに神さまから逃げ出そうとしています。確かに、厳しい災いの言葉を語られたら、素直に受け入れることは難しいかもしれません。

 今日読まれた新約聖書マタイによる福音書25章31節以下も神さまの裁きについて語られている箇所です。すべての人々が裁かれ、永遠の罰を受けるか、救われるか判決を下される様子が描かれています。永遠の罰を受けることになる人々は、イエスさまからそのような判決が下された理由をこう言われます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、……牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」(マタイ25:42−43)。イエスさまからその理由を聞かされた人々は驚きます。まさか、イエスさまが飢え、渇いていたとは思いもしませんでした。彼らは、もしイエスさまだと分かっていたら必ずお世話をしたでしょうにと後悔します。
 この人々の後悔の姿は、ミカ書で裁きの預言を告げられた人々の姿にも似ています。預言を拒否した人たちは、自分たちにとって都合の良い言葉だけを聞き、恵みを与えてくださる神さまがまさか私たちを裁くことはないと、自分たちに都合の良いように神さまを信じようとしていました。イエスさまに呪いの言葉を言われた人々は、最後にこのように言われます。「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(マタイ25:45)。イエスさまから呪われた者と言われる人々は、自分の周りにいた飢えている人や渇いている人といった、最も小さい者がイエスさまの兄弟であろうとは思いもしなかったのではないでしょうか。
 裁きの時に救われるのは、この最も小さいものに親切にしてくれた人たちだと語られています。これでは、ただ行いによって人は救われるのかとも思えますが、そうではありません。忘れてならないことは、イエスさまによって神さまの愛が変わらずに私たちの上に注がれていることです。私たちはその愛に応え、最も小さい者と言われる人々に仕えることが求められています。イエスさまは単純に裁きの時、滅びか救いがあることだけを示さず、滅びから救われる道も用意されていることを示します。裁きと聞くと、自分は裁かれるのかどうなのか恐ろしくなります。しかし、裁きには私たちを滅びから救い出そうとしている神さまの思いが表れています。

 今日読まれたミカ書の箇所は、先ほどお話しした預言者による災いの預言の後に語られる救いの預言の箇所です。神さまは災いを下すだけでは終わらないことが示されています。神さまは羊飼いのように、離れ離れになった人々を集め、勝利した王さまのように、閉じ込められていた人々を解放される姿が語られています。バビロン捕囚によって散り散りになり、苦しみ、困難の中にあったイスラエルの人々には、この神さまの救いの約束は大きな希望だったはずです。神さまが各地へ散らされたイスラエルの人々を、羊を猛獣から守る囲いの中に集めるように集められることは、絶望の中にいたイスラエルの人々に希望を与えたと思います。また、神さまが王さまとしてイスラエルの人々の解放のために先頭に立ち、その進行を妨げるものはありません。希望への確信が与えられる王としての神さまのイメージで救いが語られています。裁き、災いを下される神さまは、それだけではなくその滅びから私たちを救い出そうと呼びかけてもいます。
 ハイデルベルク信仰問答に、「生きている者と死んだ者とを裁かれるためにキリストが再び地上に来られることは、あなたをどのように慰めるのですか」という質問があります。神さまによる最後の時の裁きにどのような慰めがあるのかと言えば、「わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出し すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です」と答えられています。十字架での贖いによって、私たちに救いをもたらしてくださったあのイエスさまが裁きの時に再びやって来られることは慰めです。神さまの裁きは救いか破滅か、そればかりを考えていると恐ろしいものになってしまいます。確かに、裁きは厳しいものですが、そこに神さまは私たちを滅びから、苦しみから救い出す道を示していてくださいます。その道が示されているからこそ、裁きは私たちにとって慰めにも、喜びにもなります。

 ご在天の主なる神様
 主イエスの十字架の死による愛によって、示された救いへの希望が与えられていることに感謝いたします。困難、絶望の中にあってもあなたが滅びから私たちを救い出そうとしている呼びかけを恐れることなく聞き、そのことを慰め、喜びとしていくことができますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

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