牧師メッセージ

12月25日(日)クリスマス早天礼拝説教「まことの光」

更新日: 2021.01.05

クリスマス早天礼拝(2020.12.25)礼拝説教     伝道師 山内慎平
「まことの光」    ヨハネによる福音書1章1~14節

 アドヴェントの期間4週間を経て、遂に私たちは待ち望んだクリスマスを迎えました。今日読まれた聖書箇所は、ヨハネによる福音書で語られるクリスマスの物語です。言、命、光という言葉で御子イエス・キリストが表現されています。言としてのイエス様が肉体をもって産まれたという、クリスマスの物語が語られています。
 ヨハネによる福音書は、「初めに言があった」(1:1)から始まります。この「初めに」は、創世記の冒頭を思い起こさせます。創世記1章1節は、「初めに、神は天地を創造された」で始まります。この世界の創造の時から、言は神様と共にありました。世界の創造に先駆けて言であるイエス様が存在していたことが語られています。そして、この世界の創造は言であるイエス様を通して示される神様の働きです。
 1章3節では、「万物は言によって成った」と語られています。自然も人間も、この世界のあらゆるものが、言であるイエス様によって作り出されたと言われています。そして、イエス様の内に働かれる神様によって、全てのものが作られました。また、「言の内に命があった」(1:4)とあります。ここでは、神様によって創造されたすべてのものが、神様である言に由来する命を与えられていることが語られています。創世記でも語られていますように、神様は作られたものを良しとされ、祝福しました。すべてのものは神様の祝福のもとに作られました。だからこそ、神様に由来し、祝福のもとに与えられた命は、「人間を照らす光」(1:4)であると言われます。言によって与えられた命はとても尊いものであることが分かります。神様と作られたものの間には強いつながりがあります。
 しかし、この神様に由来する命、神様との関係を罪が壊してしまいました。それにより、神様から離れてしまうこと、神さまを見失うことが暗闇です。光を理解しない暗闇です。

 世界の創造は神様の祝福のもとで行われました。しかし、その後の神様と人間の関係は、アダムとイヴの楽園追放に始まって、人間の傲慢、神様への背きなどによって、何度も失われていきました。人間のもとに入り込んできた罪という闇が、神様と人間の関係を壊してきました。そして、今もその闇は私たちを蝕んでいます。

 ヨハネによる福音書1章10節以下には、光とそれに対抗する闇の対立が描かれています。10節に「世は言によってなったが、世は言を認めなかった」とあります。「世」とは、神様に創造されたあらゆるものです。具体的には、人間を指していると思われます。その人間がイエス様である言、そしてそのうちに働かれる神様を受け入れなかったことが語られています。また、11節には「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。自分の民、神様の選ばれた人々でさえ、過去に、その歴史の中で、神様を信じきれず、背いたことを思い起こさせる言葉が書かれています。
 他の福音書のクリスマス物語にも、神様を受け入れない態度を見ることができます。マタイによる福音書のクリスマス物語には、救い主イエス様を受け入れられないヘロデ王による、2歳以下の男の子の皆殺しがあります。このヘロデ王の態度は、おそらく神様を受け入れない態度の中でも、最も残酷で厳しいものです。罪に縛られ、闇の中を歩いている人間は、時にこれほどの恐ろしいことをするのかと不安になります。
 しかし、気をつけねばならないのは、私たちでさえ、神様を受け入れずにいてしまうことがあるということです。そこに信仰があるのか、ないのかは関係ありません。闇がすべての人を蝕もうとしています。その闇の侵入は、些細なところからかもしれません。心配事や、行き詰まりのようなものでさえ、私たち人間を罪の方へ誘います。私たちは何か問題があると、「どうしたら解決するだろうか」、「私はどうなるのだろうか」など様々な思いを抱きます。そして、その思いの中心には大抵自分がいたりします。「私が」となったりします。「私がなんとかしなきゃ」といった思いに駆られます。ですが、この思いこそ、私たちを神様から引き離してしまうのだと思います。自分の力や様々な力に頼り、神様を忘れてしまうことになりかねません。その時の私たちは暗闇の中にいるのだと思います。しかし、私たちには、クリスマスに示された救い主がいてくださいます。

 今日の聖書箇所の最後14節には、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。言である神様が肉となって、人間の肉体をもってこの世に来られたことが語られています。イエス様が、いずれは必ず滅びる、失われる肉体となって私たちのところへ来られました。旧約聖書において天幕の中に宿られ、雲の中から現れた神様が、このクリスマス、私たちの現実に、私たちと同じ人間の姿で、制約のある姿で来られたことが告知されています。
 神様が肉体をもって来られたことは、神様が私たちを取り巻く闇、罪に満ちている世界に、私たちとともにいることを決められた方であることを知らされます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)とヨハネによる福音書で語られる通りです。
 そして、肉体をもって生まれた神様は、私たちを罪から解放してくださいました。私達と同じ肉体をもってイエス様はこの地上で、時には疲れ、平手で打たれ、十字架を背負い、墓に葬られ、疑うものには脇腹に手を入れられるように体を差し出されました。イエス様の誕生は、この救いの具体的な始まりであり、この神様の救いは恵みと真理に満ちています。

 クリスマスに私たちは、言であり、命であり、光であるイエス様を示されました。そしてこのクリスマスの出来事は遠い昔2000年ほど前のことでは終わりません。5節に「光は暗闇の中で輝いている。」とありました。輝いているという動詞は現在形が使われています。それは、この光が私たちの今、この時にも輝いているということです。その光は過ぎ去ったものではありません。今も、困難や恐れ、思い悩みなどの闇の中を不安げに歩いている私たちを照らしています。だからこそ、私たちは思い悩んでも、自分や神様以外の他のものに助けを求める必要はありません。どこか遠い所、山奥なのかどこかわからないところに神様はおられるのではなく、子であるイエス様を通して、「見て」、「聞いて」、「触れる」ことのできる存在として、とても近くで関わることができるようになりました。

 今も輝いている光は、すべての人を照らしています。神様を信じる人にだけ注がれているわけでもなく、神様なんていないと思っている人には注がれていないといった違いは一切ありません。9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」とあります。光である神様は常にすべての人を照らしています。その光である神様は、私たちに具体的な形で御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。人間の姿をとって、遣わしてくださいました。そして、聖書に示されるように、その御子は罪の贖いを果たし、私たちを罪から解放してくださりました。その救いをもたらす光である神様は闇に覆われることなく、暗闇の中でも輝いています。すべての人を照らしているこの神様の光、栄光を見るために私たちは常に注意しておかねばなりません。
 私たちが自分自身に頼り、神様に助けを求めなければこの光に気づくことはありません。このクリスマスの日、神様が救いを示してくださったこと、その神様こそが助けを求めるべき方だと私たちが受け入れることで、その光を見出せるのだと思います。12節に「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とありました。神の子となるということは、イエス様を通して働かれる神さまに、よく見て手で触れられるほど近づく、特別な関係に入れられていくことです。もう神様は、どこか遠くにいる方ではなくなります。
 神様を受け入れ、神の子になることは、イエス様に倣って、日々の生活の中でこの体を神様の言が行われる場として提供することです。かつての罪に囚われていた、まことの光を見出せなかった自分が、神様を受け入れ、神様とともに生きる永遠の命をいただく者となります。
 クリスマスに言、命、光である神様が肉体をもって私たちのもとに来てくださったことは、私たちを新しい命に生きる人間に作り替える出来事なのだと思います。闇の中、罪に囚われて生きている私たちを解放する、明るい永遠の光がこの地上に示されました。その光は聖書の時代だけでなく、今もすべての人を照らし、永遠に輝いています。クリスマスのたびに私たちは、この光である神様の恵みを受け取り、新しくされます。

私たちを導かれる神さま
 この世界と私たちのために、御子イエスキリストを送ってくださいましたこと、感謝いたします。私たちを照らすまことの光であるあなたからの恵みが、すべての人々に与えられますように。深い感謝の思いでクリスマスを祝い、私たちを新しく生まれ変わらせてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン。

page top