牧師メッセージ

12月27日(日)降誕節第1主日 全家族歳末礼拝 説教「さあ、行こう。」

更新日: 2021.01.05

降誕節第1主日(2020.12.27)礼拝説教     伝道師 山内慎平
イザヤ書60章1~6節、マタイによる福音書2章1~12節

牧会祈祷
天地の造り主である神さま
 今日、私たちはこの一年で最後となる、降誕節第1主日の礼拝に集っています。あなただけが与えることのおできになる希望を、それぞれの場で守られている礼拝を通して、心を一つにして呼び求めます。
 この一年、私たちは多くのことを行いました。また同時に、多くの行えなかったことがありました。それは、私の弱さだったかもしれません。愛に乏しかったからかもしれません。頑なであったからかもしれません。あなたを忘れる、離れる歩みもあったことを覚えます。あなたの赦しを求めます。
 神さま、わたしたちはあなたの救いを、癒しを求めます。今も猛威を振るう新型コロナウイルス、争い、差別、不正のある現実にあなたの光が輝き、これらの力を無力なものとしてください。過ちを犯した人々、悩みの中にいる人々、絶望の中にある人々、病の内にある人々、孤独な人々、私たち、また、世界のすべての人をお救いください。
 わたしたちはあなたの示してくださる御業に対し、より多くの希望を、あなたと私たちの隣人に対し、多くの愛を必要としています。あなただけが私たちの求める愛と希望を満たすことのできるお方です。私たちの願いを聞いてくださり、しかも私たちの思いを超えて、その祈りを、願いを聞き届けてくださるあなたに感謝いたします。
この祈りを、一人一人の祈りに合わせて、主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。

説  教            「さあ、行こう。」
 今年は新型コロナウイルス感染症によって、多くの人が苦しみ、悩んだ年でした。今もまだ、その状況はあまり変わらず、感染症が猛威を振るっています。世界中で、この事態の一刻も早い収束が願われています。いつになるかは分かりませんが、早く収束してほしいと願う人が多くいると思います。
 マタイによる福音書は冒頭1章1-16節で、イエス様をメシア、救い主であると説明するために長い系図を用いています。系図から、イエス様がダビデの家系から生まれると信じられていた救い主メシアであると説明します。アブラハムから始まる系図はなかなかイエス様までたどり着かないほどの長さです。ユダヤの人々が待ち望んでいた救い主がこれほど何世代にもわたって待ち望まれてきたことを考えると、ユダヤの人々が本当に長い間、この救い主を待っていたのだと思わされます。
今、新型コロナウイルス感染症の収束を願っている私たちには、長い間救い主を待ち望んでいたユダヤ人たちの気持ちが分かるような気がします。
 今日読まれた旧約聖書イザヤ書60章の冒頭は、神様の救いがやってくる様子を描いています。神様の選ばれた民、イスラエルの人々、ユダヤ人の状況はまさに闇でした。ふるさとは失われ、帰る場所もなく、ちりじりバラバラになって生き、不安の絶えない日々を送っていました。そのユダヤ人の上に主の栄光、神様の光が輝くと言われています。不安や恐れの闇の中にいようとも、神様が人々を見捨てることなく明るい方へと助け出す約束の言葉です。「あなたを照らす光は昇る」(イザヤ60:1)との約束がイエス様の誕生によって現実のものになろうとしています。

 メシア、救い主であるイエス様が生まれるという喜びのニュースは、ユダヤ人にとって大きな喜びだったはずです。しかし、今日読まれたマタイによる福音書の物語では、ユダヤの人たちのメシア誕生の知らせに対する反応は良くありませんでした。
 今日の物語のはじめ、占星術の学者たちがエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」(2:2)と人々に尋ねます。このユダヤ人の王こそがイエス様ですが、まだそのことを誰も知りません。当時のユダヤの王ヘロデは占星術の学者たちの質問に対し、祭司長や律法学者を集めて、ユダヤ人の王である、救い主メシアはどこに生まれるのか聞きます。結果として、祭司長たちはユダヤ人の王イエス様がベツレヘムで生まれることを言い当てます。祭司長たちは「預言者がこう書いています」(2:5)と言います。預言者がこう書いているというのは、聖書のことです。聖書に示されてきた救い主が生まれようとしていることを、その場にいる全員、占星術の学者たち、ヘロデ、祭司長たちは知ります。ベツレヘムに、長い間ユダヤ人が求めていたメシアが生まれようとしています。
 しかし、このニュースを聞いても、皆でイエス様を拝みに行くことはありませんでした。ヘロデの言葉が印象的です。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(2:8)。ヘロデは今すぐに拝みに行こうとはしません。もちろん、取り巻きの祭司長や律法学者も行きませんでした。ユダヤ人が待ち望んでいたあのメシアが生まれることに対して、ヘロデと祭司長、律法学者も無関心のように思います。

 結局、イエス様を拝みに行ったのは占星術の学者たちだけでした。この学者たちは東の方から来ました。東の方とはペルシャ、今のイランあたりであり、学者たちは異邦人であり、ユダヤ人ではありませんでした。ユダヤ人の王であり、ユダヤ人が待ち望んでいた救い主を、ユダヤ人ではない東の方からやってきた学者たちがわざわざ拝みにきたのは不思議に思います。
 学者たちのベツレヘムまでの旅の様子は何も描かれていないので、想像するしかできませんが、当時の旅が今ほど楽ではなかったことは想像がつきます。
 今日のマタイによる福音書の箇所の後で、ヘロデがベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにするという記事があります。そして、この殺害命令を出すのに、ヘロデは学者たちに確かめていた時期を基にしました。ここから、占星術の学者たちが目印である星を最初に発見してから、イエス様のもとに来るまで2年を要したことが想像されます。ユダヤ人の王であり、外国出身の学者たちには関係のないように思われるイエス様を、学者たちは非常に熱心に探したのではないかと思います。学者たちは何かを期待していたのでしょうか。

 学者たちはユダヤ人の王を、一国の王だと思っていたのでしょう。学者たちは王が生まれるのにふさわしい場所として王宮のあった首都エルサレムを目指しました。しかし、王として生まれるイエス様は、エルサレムから離れた田舎町ベツレヘムで生まれました。
 また、ヘロデは生まれてくるユダヤ人の王を、政治的な権力を持った王として、自分の地位を脅かす脅威として考えました。しかし、イエス様はヘロデの脅威にならないほど無力な存在として描かれます。ヘロデがイエス様を殺害するために2歳以下の男の子を皆殺しにした際、イエス様は母マリア、父ヨセフによってエジプトへ避難します。夢を通して神様がヨセフに命じたのは、家族でヘロデの元から逃げ出すことでした。生まれたばかりのユダヤ人の王イエス様は逃げるしかありませんでした。
 イエス様を王と呼ぶには、どこか不安になるようなことばかりです。この人が預言者によって聖書に書かれ、占星術の学者たちが熱心に探したユダヤ人の王なのでしょうか。しかし、祭司長たちが、メシアがどこに生まれるのかを答えた言葉の中に、「決していちばん小さいものではない」(2:6)とありました。祭司長たちを通して語られる聖書の言葉、神様の言葉は、生まれてくるユダヤ人の王であるイエス様が小さい無力な存在ではないと言います。

 ユダヤ人の王であるイエス様はヘロデが警戒したような一国の王のような存在ではありませんでした。そのイエス様の弱さ、無力さはこの後に待ち受けている苦難と十字架の上での死を思い出させます。ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、十字架にかけられて私たちの罪のために死んでくださいました。私たちの罪を背負い、私たちを罪から解放してくださいました。この救いをもたらした方は確かに決して小さなものではありません。まさに救い主です。
 そして、占星術の学者たちは私たちを罪から、闇から解放してくださる王なるイエス様に会いました。それは、学者たちをイエス様のところまで導いてきた神様との出会いでもあります。ユダヤ人は、自分たちが待ち望んでいる救いに、自分たち以外の人々、異邦人は含まれていない、救われるはずのない存在だと信じていました。しかし、この今日の占星術の学者たちの物語において、その救いはユダヤ人以外の人々、すべての人々に示されました。
 占星術の学者たちは目指してきた星がついに目的のイエス様のおられる場所に止まったのを見て、喜びにあふれました。それは自分たちの苦労が報われたからかもしれません。しかし、何よりも「ユダヤ人の王としてお生まれになった」(2:2)イエス様に会えたこと、そして、その幼子イエス様を通して私たちとともにおられる神様と会えたことで喜びにあふれたのだと思います。

 私たちもできることなら占星術の学者のように神様を求めたいと思います。学者たちはイエス様に会い、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。それらの高価なものを、惜しげもなくイエス様に献げました。私たちも礼拝を通して、学者たちのように様々なものを献げています。献金がそうでしょう。時間もそうです。本当なら仕事や家のこと、勉強、自分のしたいことができたかもしれない時間を礼拝で献げています。
占星術の学者たちは、イエス様を拝んだ後、自分の国へ帰って行きますが、高価なものをイエスさまに贈ってしまって大丈夫だったのでしょうか。旅には費用もかかります。持っておいた方が何かと便利な気もします。しかし、学者たちには黄金などにも勝るものがイエス様を通して贈られました。それは、イエス様を贈ってくださった神様とともに生きる道でした。私たちが「神様」と呼びかけることのできる神様とのつながりが、その確信が与えられました。
 王としてお生まれになられたイエス様を迎え入れることで、私たちは大切だと思っていたもの、執着していたことから解放されます。それが私を幸せにしていた、それが私を苦しめていた、不安にさせていた。私たちを支配していたそのような力から解放され、神様に捉えられている生き方へと私たちは招かれていきます。
 私の生活、命の中心に神様を迎え入れる生き方が、学者たちが帰国の際に通っていった別の道なのだと思います。その神様と共に歩む道へ進みたいのです。また、その道で神さまを探し求めている人と出会ったなら、道案内だけですませず、示されているイエス様を共に拝むものでありたいと願います。

私たちを導く神さま
 嘆き、悲しみ、疑いの暗闇がこの世界を、私たちを取り囲んでいます。その闇が私たちの心を縛りつけています。しかし、あなたは東方の学者たちを救い主のもとへと導いてくださり、彼らをあなたと共に生きる者に変えてくださいました。どうか、わたしたちもすべての人に示されました別の道、私のすべてをお委ね出来るあなたに信頼して生きる道へと向かわせてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

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