牧師メッセージ

1月17日(日)降誕節第4主日礼拝 説教「語らせてください。」

更新日: 2021.01.19

降誕節第4主日(2021.1.17)礼拝説教     伝道師 山内慎平

エゼキエル書2章1節~3章4節、マタイによる福音書4章18~25節

牧会祈祷

命の与え主である神さま
 あなたが私たちの中心にいてくださることを感謝いたします。あなたが私たちの心と思いを照らしてください。この会堂で、家庭で、施設で、病院で、それぞれの場所で守られますこの礼拝において、あなたが共にいてくださることが私たちを慰めてくださいます。
 私たちは苦しみ、怒りの中であなたがどこにおられるのかと戸惑います。阪神・淡路大震災から26年目となりました。元に戻ったものもあれば、未だに戻らないもの、取り残されたものもあります。また、毎年私たちを多くの自然災害が襲います。その度に私たちは多くを失います。愛する人、安らげる家、思い出。心が挫け、希望を見失うことがあります。現在、新型コロナウイルスによる混乱によって痛み、苦しみが世界に蔓延しています。絶望の中にあって、あなたが共にいてくださることを切に求めます。弱り疲れている一人一人をあなたが支えてください。
 この世界にある暴力が取り除かれ、あなたの愛と平和がもたらされることを祈ります。私たちが人々を暴力へと駆り立てる憎しみ、偏見、不正義を乗り越えられますように。あなたの知恵によって、平和の道へと導いてください。私たちを、互いに顔と顔を向かい合わせて共に生きるものとしてください。そして、私たちがあなたの方へ顔を向け、あなたの愛と平和をもたらすために共に働くことができますように。
 あなたが、病気の人、悲しんでいる人、孤独な人、慌ただしさの中にある人を慰め守ってくださいますよう願います。あなたの平安と慈しみがありますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

説  教            「語らせてください。」
 阪神・淡路大震災から26年を迎えました。私はこの震災の時は生まれたばかりで関西にはいませんでした。この地震のことは、写真や映像を見て、体験を聞かない限りほとんど何も分かりません。もし、「この震災のときは生まれたばかりだから何も知らないか」と聞かれたら、「はい」と言うしかできません。そして、「その時、その場で体験していない私には関係のないことです」と言うこともできます。しかし、私は現実にその災害で傷ついた人と共に生きています。
 「わたしについて来なさい」とおっしゃるイエスさまに従った私は、その傷ついた人にも神様のことを話すことが求められています。もちろんそれは、私だけではなくイエスさまに従った一人一人が求められていることでもあります。しかし、自分自身も多くの人や物を失い疲れ切っている、失望の中にいるのに、「それでもみ言葉を話さなければならないのですか」と神様に訴えたくなることもあります。私はその痛みを、苦しみを実際に経験していません。「それでもあなたの希望を語らないといけませんか」と不安になることがあります。
 今日読まれたエゼキエル書においても、エゼキエルは困難な状況の中で神様の言葉を語ることを求められています。

 エゼキエルは神様から預言者に任命されました。この役目は非常に難しいもので、エゼキエルが神さまの言葉を語らねばならない人々はその言葉を聞こうとはしないと、神さまは語ります。さらに神さまは、その人々が預言者であるエゼキエルに危害を加えるだろうとも語ります。
 また、エゼキエルは預言者として任命される際に、神様からそれを食べるようにと言われた巻物を差し出されました。その巻物には、表と裏にびっしり「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(エゼ2:10)が書かれていました。三つの言葉はともに深い悲しみを表し、これからエゼキエルに困難が待ち受けていることを予感させます。エゼキエルもとても困難な状況、混乱の中で神様の言葉を語らねばなりません。
 神さまはエゼキエルを「人の子」(エゼ2:3)と呼び掛けます。人の子は神さまに作られた存在としての人間の弱さ、脆さを意味します。神さまがエゼキエルを人の子と呼ぶことは、人間エゼキエルの弱さを知っていることの表れのようにも思います。神さまはエゼキエルの弱さも承知しているからこそ、何度も「恐れてはならない」(エゼ2:6)と励まします。そして、エゼキエルに霊の力を与え、使命を行えるように力づけます。
 エゼキエルの、神様の言葉を語るという使命には、神様が共にいて力を与えてくださいます。神様はエゼキエルが置かれる苦しい状況をしっかりと把握しておられました。

 先ほど読まれた新約聖書のマタイによる福音書は、イエスさまに呼び出された4人の漁師たちが最初の弟子になる場面でした。漁師たちも日常生活の中で突然に、イエスさまに呼びかけられます。イエスさまは漁師たちに向かって「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)と言います。この呼びかけに漁師たちは仕事道具である網を捨てて、イエスさまに従います。漁師たちはどこに行くのかも、何も知らないまま、「すぐに」(マタ4:20)従いました。
 この漁師たちはイエスさまの呼びかけによって、それまで生活の中心にあったであろう漁師の仕事を手放し、イエスさまとともに生きることを選びます。弟子となった漁師たちの生活、生き方は大きく変わりました。
 弟子たちはイエスさまを通して、人々から見捨てられ、罪人だと差別された徴税人や病を患う人、貧しい人に神さまの愛を実践しました。もしかすると、そのような人々との関わりを通じて、弟子たちはいつになったらこの世界の痛みや苦しみが取り除かれるのだろうかと思い悩み、痛みや苦しみがなくなることを願っていたのかもしれません。

 マタイによる福音書24章3-14節において、弟子たちはイエスさまに世の終わりの時について尋ねます。世の終わりの時、痛みや苦しみが世界から取り除かれ、神さまの国が建てられることについて質問します。
 イエスさまはその質問に対して、弟子たちに「慌てないように気をつけなさい」(マタ24:6)と言います。イエスさまは、現実に弟子たちが「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」(マタ24:6)を聞くかもしれないこと、人と人とが、国と国とが争うことになり、飢饉や、地震が起こることを語ります。戦争や飢饉、地震は人間の大切にしているあらゆるものを取り去ります。そうすると、自分が信頼していたものへの信頼は揺らぎます。今まで当たり前であったことが決して確かなものではないと思い知らされます。しかし、私たちを動揺させることがあっても、慌てるなとイエスさまは言われます。
 イエスさまはそれらのことは「まだ終わりではない」(マタ24:6)、「これらはすべて産みの苦しみの始まりである」(マタ24:8)と言います。私たちは大切な何かを失ってしまったがために、もう全て終わりだと考えますが、それが終わりではありません。すべての終わりをイエスさまの再び来られる時、神さまの国の到来の中に見出す時、恐れや悲しみの中にあって私たちは神さまの希望の中にとどまることができるのだと思います。
 私たちを襲うどのような悲惨さを前にしても「まだ終わりではない」と語られるイエスさまがいてくださることは、私たちにとって大きな慰めであると思います。私たちが終わりだと思うことの1つに死があります。死はすべての終わりだと思う人もいますが、イエスさまは十字架において死なれ、復活し、死の力にも勝たれました。イエスさまの復活を通して死さえも終わりではなくなりました。先に天へと召された人々も死によって終わりがもたらされてしまったわけではありません。本当の終わり、この世界の痛み、苦しみに終わりをもたらす、救いをもたらすイエスさまがいてくださるからこそ、私たちは争いや災害、不条理によって犠牲になった人々を救ってくださいと祈ることができるのだと思います。
 また、イエスさまは「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタ24:14)と語ります。御国の福音、すべての終わりは神さまの国が来られるときであるという確信を持って、イエスさまの希望にとどまり、むなしくされている人、絶望の中にいる人にその希望を広げていくことが求められています。キリスト者がこの世界の苦しみうめいているところで共に祈る者となるように呼び出されています。

 今日のマタイによる福音書の箇所に戻ります。イエスさまに呼び出された漁師たちは父親と共に漁のための網の手入れをいていました。網は漁で打つ度にあちこち破れてしまうのでしょう。明日の仕事のために漁師たちは網の手入れを行っていました。
 ある人は漁の度に破れてしまう網にわたしたちの姿を重ねます。わたしたちは日々の生活の中で体も心も疲れ、傷つくことがあります。わたしたちは漁の度に破けてしまう網のように弱く、もろいです。この世界で生きていると何度も私たちの心や体は破け、傷つきます。
 イエスさまは漁師たちに呼びかけるとき、必ず漁師たちを御覧になっていました。イエスさまは漁師たちを見つめていました。漁師たちの能力を見定めるわけではなく、漁師たちの日常の仕事に励む、ありのままの姿を見つめ、弟子になるように呼びかけられました。
 イエスさまは、この漁師たちに送った眼差しをわたしたちにも注いでいるのだと思います。私たちの弱さや脆さを抱えたありのままの姿を見つめておられます。そして、イエスさまは私たちのすべての弱さ、罪を十字架の上で受け止められ、私たちを癒してくださいました。そうして、私たちは力を取り戻し、再び自分たちの生活へと出ていくのだと思います。
 絶望の中に私たちがいて、弱くされ、疲れ切った姿でもう終わりだと感じていようとも、それはまだ終わりではないと言い、私たちの苦しみ、呻きを受け止められるイエスさまが共にいます。私たちは絶望、悲惨さの中にいる人々を救いだすイエスさまの希望にとどまりつづけたいと思います。
 そして、御国の到来を目指し、悲しんでいる人、むなしくされている人に神さまの言葉を語っていきたいのです。この世界の争いや災いの犠牲になっている、生きている者も死んでいる者も救ってくださいと祈り求めることが出来る、本当の終わりを示すイエスさまを紹介し、すべての人の間に希望の明かりを広げていきたいのです。どのような状況におかれても「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)と言われたイエスさまに仕えるものでありたいと願います。

私たちを導かれます神さま
 私たちがあなたによってその弱さ、脆さを受け止められ、あなたの救いの業のために用いられていますことを感謝いたします。どのような時にもあなたがともにいてくださることを確信しつつ、その喜びを他者に語り、分かち合い続ける者としてください。悲しみ、絶望の中にあっても、御国を待ち続け、あなたの希望の内にとどまらせてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

page top