牧師メッセージ

2月21日(日)受難節第1主日礼拝説教 「神の子の信頼」

更新日: 2021.03.03

受難節第1主日(2021.2.21)礼拝説教     伝道師 山内慎平
申命記30章15節~20節、マタイによる福音書4章1~11節

牧会祈祷
命の創り主、愛と慈しみの神さま
 御子イエス・キリストの十字架への道をたどる受難節を迎えることができましたこと、また、礼拝をとおしてあなたの声を聞くことが許されていますことを感謝いたします。
 私たちは主イエスの十字架をただ遠くから眺めているだけでした。自分のことであれば些細な痛み、思い煩いであってもそのことに心が囚われてしまい、耐えることができません。「彼らを赦してください」と十字架の上で祈る主の声を、心に響かせませんでした。十字架へと向かわれる主イエスの苦しみが、私が受けるはずだった苦しみであることを感じることが少なくなっていました。
 主よ、私たちを憐れんでください。御子の苦しみと死によって、私たちの罪をご自身で引き受けられた主イエスの十字架によって生かされている喜びで私たちの心を満たしてください。
 主よ、あなたを呼び求めます。世界の中には争いがあります。私たち一人一人の中には憎しみがあります。あなたがそれらすべてを取り除き、私たちの間に主の平和がもたらされますように。力の源である聖霊をお与えください。聖霊により、私自身を、互いを、そしてあなたを少しでも良く理解し合えるようにさせてください。
 今、苦しみの中にある人、疲れ果てている人、孤独な人、それぞれの務めに励んでいる人をあなたが顧み、励ましてください。わたしたちをくだき、日々の交わりの中であなたの大きな愛を感じ取ることができますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

説  教            「神の子の信頼」
 2月17日(水)に灰の水曜日を迎え、受難節・レントの期節が始まりました。イースターまでのこの40日間に、教会では生活の中で断食の実践がされていました。その実践は十字架の死に向かったイエス・キリストの苦しみを覚え、自分に何ができるのかを考える時でした。もちろん今もその実践を行い、レントの期間に何かを禁止する、節制することが大切にされています。私も何度か挑戦しましたが、どれもレントの期間が終わるより早く終わってしまっています。今日の新約聖書のイエスさまのように誘惑に勝つことがどれだけ厳しく、難しいことなのかを思い知らされます。
 今日の新約聖書の場面は荒れ野でイエスさまが40日間断食して空腹になったとき、悪魔が近づいてきてイエスさまを三回誘惑する場面でした。イエスさまが悪魔に誘惑されたのは洗礼を受けて聖霊をいただき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:17)という言葉を受けた後のことです。悪魔は神の霊を受けた神の子であるイエスさまを試しました。悪魔がイエスさまを試す時の言葉が印象的です。悪魔は3回の誘惑の内、2回「神の子なら」とイエスさまに呼びかけます。悪魔は神の子なら奇跡を起こす能力があるはずだと、イエスさまを試します。
 この「神の子なら」という呼びかけは、イエスさまが十字架にかけられる場面にも出てきます。十字架にかけられたイエスさまを目にし、通りがかった人々はイエスさまに「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27:40)と言いました。人々も神の子であるイエスさまを試します。
 悪魔や人々の言うように神の霊をいただいた神の子は何か不思議な力が、奇跡を起こす力があるのでしょうか。神の子になることはどのようになることなのでしょうか。

 初めに悪魔は、長い間断食をし、空腹であるイエスさまに魅力的な誘惑をします。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(4:3)。悪魔は特別な力で自分の腹を満たしたらどうだとイエスさまを試します。この誘惑にイエスさまは乗らず、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4:4)と答えます。この言葉は旧約聖書の申命記8章3節からの引用です。ここでイエスさまは悪魔のささやきではなく、神様の言葉に聞き従っています。
 イエスさまが引用された「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」の申命記の箇所には、イスラエルの人々がエジプトを脱出した後、荒野で神様がマナをお与えになって人々を養われた物語が記されています。この引用された言葉で言われているパンは、イスラエルの人々がエジプトでファラオの下で奴隷となって得ることのできたパンです。一方、神の口から出る言葉はマナです。この引用された言葉は、エジプトでファラオの奴隷となってパンを与えられて生きるか、神様の言葉に従ってマナを与えられ神様に養われて生きるのかを私たちに問います。イエスさまは悪魔の言うことを拒否され、神様の口から出る言葉によって養われ生きる道を選びます。
 神様の言葉によって生きるのだという姿勢を悪魔に示したイエスさまに、悪魔はその姿勢を逆手にとって再び誘惑をします。悪魔はイエスさまを神殿の上に立たせ、飛び降りたらどうだと言います。そして、詩編91編11ー12節の言葉を引用して、飛び降りたとしても、天使が現れてあなたを支え、命を失うことはないと言います。そして、それによって自分が神の子であることをアピール出来るではないかと試します。悪魔は聖書の言葉、み言葉を頼りにしているのなら聖書の言葉通りにしたらどうかと言います。
 この悪魔の挑発にもイエスさまは聖書の言葉をもって「あなたの神である主を試してはならない」(4:7)と答えます。悪魔の、飛び降りてみたらどうだという要求は、神様を証するために行われることではありません。それは、神の子の奇跡的な力を見せて名誉を得させるために行われることです。その行為は名誉を得るために自分の要求に神様を従わせようとします。しかし、イエスさまは神様を自分に従わせるのではなく、神様に信頼することを求めます。神さまが求めておられることに従うことこそが、神様を信頼する姿勢です。
 最後の誘惑で悪魔はイエスさまを高い山に連れて行き「世のすべての国々とその繁栄ぶり」(4:8)を見せ、この国々と繁栄をあなたにあげようと言います。この悪魔の試みにイエスさまは申命記の言葉(6:13-14)を引用し、キッパリと「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」(4:10)と答えます。イエスさまは最後まで、神さまに従う姿勢を悪魔に示します。
 3度の悪魔からの誘惑に対してイエスさまが示した姿は、悪魔が期待していた奇跡的な力を持つ、何でも自分でしてしまう神の子の姿ではありませんでした。イエスさまが示された神の子の姿は、誰よりも聖書の言葉に耳を傾け、あらゆることを神さまからのみ与えられるように期待するものでした。その神の子であっても悪魔の誘惑を受けました。神さまの側ではなく、悪魔の側につくようそそのかされました。

 私たちもすべての人が悪魔の誘惑を受けています。洗礼を受け、聖霊をいただいた神の子であるイエスさまも悪魔の誘惑を受けたように、洗礼を受けて神の子の一員となったキリスト者一人一人も悪魔の誘惑にあっています。
 それは試みに直面した時、試みに勝つ力を神様が本当に与えてくださっているのかという疑いへと私たちを引っ張っていく誘惑です。私たちが日々の生活の中で行う仕事や勉学は競争ばかりが強調されてしまうと、自分の隣にいる人は友人や助けくれる人ではなく、競争相手になってしまいます。また、私たちが相手を敵だと思い込む試みもあります。目の前にいる人は何らかの形で私に危害を及ぼすのではないかと、その思い込みや偏見がいじめや差別へと人を誘うこともあります。そういった試みは私たちを神さまから引き離すだけではなく、互いを引き離すことにもなります。互いに疎外しあっていると、助けてくれる人も頼るものも何もなくなり孤独に取り残されることもあります。こういった試み、困難に直面した時、私たちは神さまの助けなんて本当にあるのだろうかと疑ってしまう誘惑に襲われるのだと思います。

 神の子であっても日々試みに、困難に直面し、神様を疑ったり、神様から離れてしまったりします。それが私たちの弱さです。神さまの約束を忘れてしまいます。イエスさまは山上の説教で「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。……何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(6:31、33)と約束されました。「ただ主に仕えよ」ということを妨げる何か別のものに心が捉えられることがあっても、神さまは私たちが生活の中で、生きる上で必要としていることは全て知っておられることは大きな安心であると思います。

 私たちもイエスさまが出会ったのと同じ試みを日々受けていますが、その中にあって神さまの約束を忘れずにいたいと思います。イエスさまが神の子であるように、洗礼を受けたキリスト者もまた神の子です。そして、試みに会った時、自分は神さまの子どもであることを大切にしたいと思います。神さまにとって、私たちは立派で、完成された大人ではなく、子ども、それも幼い子どもです。
 全て自分のおかげでうまくいっているといった独りよがりな考えでは、弱さも含めた本来の自分を見失うかもしれません。そして、病気や社会の状況、人間関係や様々な理由で、自分は大丈夫、うまくいっていると思っていたはずの自信を失うと、途方に暮れることがあるかもしれません。絶望することがあるかもしれません。
 そんな弱さを抱える人、自分は完成された大人だと思っている人、どのような人も、疲れた者、重荷を負う者に安らぎを与える神さまの礼拝へと招かれています。それも、大人ではなく幼い子どものようなものとして招かれています。神さまの子どもになる、幼い子どものようになると聞くと自分が弱い存在になる感じもします。しかし、悪魔の誘惑に会ったイエスさまが示されたように、神の子は強さを持っていました。それはみ言葉に耳を傾け、全てを神様に委ねる姿勢からきていました。神の子であるイエスさまはその姿勢によって、はっきりと「退け、サタン。」と言い、悪魔を退けました。
 私たちはこの神の子どもとしての姿勢を忘れないようにしたいと思います。試み、うまくいかない時、困難の中で、小さな子が親を呼ぶような素直な気持ちで神様を呼び求めるものになりたいのです。神様に信頼し、聖書の言葉に耳を傾け、全てを神様にお預けすることは簡単なことではありません。しかし、空腹の中にあっても誘惑に打ち勝たれた神の子イエスさまのように、私たちも神の子どもとしてその誘惑を退けることができるように祈りながら、この受難節の時を進んでいけることを願います。

神さま
 私たちは多くの誘惑に、試みにあいます。その試みの前に私たちは弱く、時にあなたから離れてしまいます。弱い私たちをあなたが聖霊の力によって強めてください。主イエスが悪魔の試みを退けたように、私たちも試みを乗り越え、あなたを礼拝することができますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

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