牧師メッセージ

3月21日(日)受難節第5主日礼拝説教 「偉くなれ。」

更新日: 2021.03.24

受難節第5主日(2021.3.21)礼拝説教     伝道師 山内慎平
創世記25章29節~34節、マタイによる福音書20章20~28節

命を創り、贖い、支える神さま
 あなたが一人一人を顧み、この礼拝へと呼び集めてくださいましたことに感謝いたします。私たちはあなたによって祈る者とされました。また、1人で祈れない時には、共に祈る友を与えられました。しかし、私たちは病やさまざまな妨げによって1人で祈ることしかできないように思われる時もあります。この場で、またそれぞれの場で祈る一人一人をあなたが一つとしてください。

 主イエスは仕えるためにこの世へと来られました。あなた自身が道であり、命です。私たちがそのあなたに従っていくことだけをあなたは求めておられます。しかし、弱い私たちはあなたの恵みを前にすると圧倒され、立ち尽くしてしまうものでもあります。私たちに和解をもたらすあなたの業に謙虚さだけでなく、希望を持って仕えることができますように。
 
 今、差別や暴力によって抑圧されている中で、平和を求めている人たちのことを覚えます。あなたを信じていることを言い表していても、いなくても、命と平和を求めるために行動している人々をあなたが守り導いてください。この世界の苦しんでいるところ、引き裂かれているところで必要とされている和解をあなたがもたらしてください。

 病気のため、衰えのためにこの場に集えない人たちがいます。その一人一人の上にもあなたの希望が示されますように。生きているうえで抱えるさまざまな悩み、葛藤、口にすることもできず自分の中にしまい込まれている痛みを、み心にとめてください。呻き、嘆きの中でひたすら祈られている祈りを聞き、痛みを和らげてください。あなたの力が増し加わりますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

説  教            「偉くなれ。」
 「十字架を背負う」という慣用句は多くの人が知っていると思います。罪の意識や悲しみを自分の身に引き受ける意味の言葉です。例えば、ダイエット中なのに大量に食事をすると、それはその人にとっての十字架になります。仕事や勉強などで自分にのしかかってくる責任、プレッシャーも十字架です。あらゆることが十字架になります。その十字架は大小さまざまで、小さな苦しみから大きな苦しみまであります。そして、できることならこれらの十字架は背負いたくないものだと思います。
 今、教会の暦はレントの期間です。この時、私たちには一番 大きな十字架が示されています。それは主の担った十字架です。私たちは、イエスさまが十字架の上で命を落とされた苦しみをレントの時に改めて思い起こします。そのイエスさまの十字架は、私たちが背負うであろう十字架のどれよりも大きなものでした。
 今日、読まれましたマタイによる福音書20:22でイエスさまは「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と弟子たちに問いかけていました。「杯」はこれからイエスさまが経験する苦しみ、十字架の死をさします。イエスさまはご自身がこれから味わう苦しみを弟子たちも共に経験できるかと聞いています。このイエスさまの問いは私たちに対する問いでもあります。イエスさまに従う道には必ずそれぞれに飲むべき杯が用意されています。ですから、 イエスさまに従うことによって、貧しさや苦しみが全くなく生きることが可能になるわけではありません。もちろん、イエスさまはパンを増やし、病を癒やした奇跡を起こせたのですから、私たちにそのような生き方を与えることは可能であるかもしれません。しかし、イエスさまは苦しむ人々の苦しみをご自分から担われる生き方をされました。
 私たちはこのイエスさまから問いかけられた杯を飲むことはできるのでしょうか。わたしは主の十字架を前にして、「はい、できます。」とはっきり答えることができるか自信がありません。

 今日のこのマタイによる福音書の物語は、イエスさまの三度目の死の予告の後に続くものです。イエスさまは弟子たちに自分が十字架の上で死ぬことを話しました 。そのため、弟子たちはイエスさまの死を理解していたことが考えられます。しかし現実には ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネの母親がイエスさまに願い出る際、「王座にお着きになるとき」(20:21)と言っています。この言葉は、イエスさまが王として世を支配することを指す言葉です。ゼベダイの息子たちの母親は、イエスさまがご自身の王国である神の国を建て上げることを考えていたようです。
 この母親の願いにはイエスさまに対する誤解があったと言えるでしょう。母親はイエスさまにイエスさまの王国が完成したとき、自分の二人の息子をイエスさまの右と左の名誉ある席に座らせて欲しいと願います。大切な息子たちを思っての母親の願いだったとは思います。
 この願いに対してイエスさまは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(20:22)と問いかけます。
 イエスさまはここで「あなたがた」と話しかけています。母親がイエスさまに願い出たので本来は「あなた」でもいいところを「あなたがた」と言っています。それは、母親だけでなく、その息子のヤコブとヨハネも含めてイエスさまは尋ねられているのではないかと思います。母親の思いをヤコブとヨハネも共有し、できることならイエスさまの側にいるという名誉を欲していたことをイエスさまは見抜いていたのかもしれません。また、そのような名誉や権力を求める姿は他の弟子たちにもあったことが24節で分かります。他の十人の弟子たちは「この二人の兄弟のことで腹を立てた」(20:24)とあります。十人の弟子たちでさえ、名誉に関心があったことが分かります。自分こそがイエスさまの側にいられる特別な存在、栄誉のある立場に着くのだと言う期待がありました。

 二人の弟子たちは「杯を飲むことができるか」と言う問いに「できます」(20:23)と答えます。二人はイエスさまへの熱意があったからこそ即答したのでしょう。二人は特別な地位に着きたいがために嘘をついたわけではないと思います。しかし、イエスさまの死の時に、弟子たちはイエスさまと運命を共にすることはできませんでした。
 弟子たちはイエスさまに従う中で、イエスさまがなされることによって自分たちが特別な存在として扱われること、そして新しく建てられる国で重要な地位に着けることを期待していたようです。しかし、イエスさまが示されたものはそのようなものではありませんでした。

 今日の物語の直前でイエスさまは弟子たちに三度目の自身の死の予告をしました。その予告の中に「祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」(20:18)と言う言葉があります。イエスさまが祭司長たちや律法学者に引き渡され、捕まることが予告されています。この予告には、誰がイエスさまを引き渡すのかがはっきりと書かれていません。しかし、イエスさまの受難の時の出来事を思い返すと、イエスさまを引き渡したのは弟子たちと考えることもできるのではないかと思います。裏切ったユダ、イエスさまを見捨てて逃げ出した弟子たちがイエスさまを引き渡したと見ることもできます。イエスさまを信頼し従ってきた弟子でさえ、イエスさまを見捨ててしまうことが起こりうる可能性がありました。
 そして、イエスさまが祭司長や律法学者に引き渡されることによって、イエスさまは十字架上で死ぬことになりました。その死は、メシア、救い主と信じられてきたイエスさまを全く無力な存在に思わせてしまうほどの出来事でした。イエスを信じて従ってきた人々の希望も途絶えてしまったかのように思われました。
 しかし、今日の物語でイエスさまは絶望的とも思えるいずれやってくる十字架の上での死が示す新しい道について弟子たちに語ります 。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(20:26ー27)。
 イエスさまが弟子たちに示したのは、十字架の苦しみを背負って、他者に仕える道でした。イエスさまが歩まれた十字架の死の苦しみに関わり、私たちそれぞれが自分の十字架を背負いながら、神様に仕える道でした。私たちが隣の人たちに仕えあって共に生きることが示されています。
 しかし、他者に仕えることは決して簡単なことではないことを私たちは知っています。友人の相談を聞いて、その相談を受けているうちに自分の方まで苦しくなってしまうことがあります。いじめを受けて苦しんでいる人、不当な扱いを受けて苦しんでいる人を守ろうとして、今度は自分がそのいじめや差別の攻撃対象になることがあります。私たちが他の人たちと共に生きる時に経験する苦しみや孤立、不安こそ十字架です。今日の物語でイエスさまが示された道を生きることは、苦しみや孤立といった十字架を背負うことです。
 イエスさまに従う、仕えるということは、安定した収入や平穏な生活が約束されるということではなく、そこには困難や不安などがあり、私たちが傷つきやすくなることがあります。

 しかし、私たちが背負う十字架は、困難や不安ばかりでそこに希望の全くないものではもちろんありません。イエスさまは十字架の死という絶望的な状況において、新しい希望を示してくださいました。イエスさまを誤解し、見捨ててしまった弟子たちと同じような私たちの弱さを、イエスさまはすべてお分かりになった上で、それでも主に仕えるものとして期待し、私たちを愛されています。
 今日の物語で弟子たちは自分たちが特別な存在になること、名誉を得ることをイエスさまに期待しました。その期待はイエスさまが示される新しい道にはそぐわない期待でした。しかし、イエスさまはその弟子たちの期待を非難することはありませんでした。弟子たちが誤解していたのは 、ただイエスさまの側にいるだけで自分にも名誉や偉さが得られるという思い込みにありました。イエスさまが示される道で名誉を得る、偉くなるためには、十字架の苦しみを自分たちも背負い、他者に仕えなければならないということを弟子たちは理解していませんでした。
 さまざまな欠点や限界を持っている私たちは主の十字架を背負うことで、苦しんでいる人と共に生きる者へと変えられていきます。そして、その人の傷つき、欠けていたところに、十字架の死によって示された神様の命が満たされていきます。私たちは十字架を背負うことから逃げ出したくなることもあります。ですが、私たちが十字架を背負い、他の人々と生きていくことで、一人一人に、また社会に、この世界の苦しみ、欠けている部分に神様の命が生き生きと満たされていきます。
 十字架を背負うことは重荷かもしれません。しかし、主の十字架はすべての終わりと思われていた死にさえも勝利し、新しい命が示されました。その十字架を受け入れ、ほかの人々と共に生きる者へと変えられることは神様の恵みでもあると思います。
 神様が考えられる偉さへと成長できるように、主の十字架の苦しみを思い起こし、他者に仕えるものとなりたいと願います。そして、他の人々と共に生きる中で味わう苦しみ、不安、それぞれが背負う十字架の中に、しっかりと神様の姿を感じ取れる者にされていきたいと願います。

十字架の主イエス・キリストの神様
 あなたが十字架を通して差し出してくださるものをすべて受け止めることができるように、力と恵みを与えてください。自分の弱さがあなたに受け止められていることに信頼しつつ、それぞれの十字架を背負い、他者と共に生きる者としてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

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