牧師メッセージ

4月2日(金)受難日正午礼拝説教 「わたしの問題」

更新日: 2021.04.06

受難日正午礼拝(2021.4.2)礼拝説教 「わたしの問題」 伝道師 山内慎平
マタイによる福音書27章15~31節

 今日のマタイによる福音書の箇所の直前のイエスさまがピラトに尋問を受ける場面、ピラトがイエスさまに「お前がユダヤ人の王なのか」(27:11)と尋問したとき、イエスさまは「それは、あなたが言っていることです」(27:11)と言いました。この言葉がとても印象的に感じます。総督ピラトの質問をイエスさまは完全に否定はしていません。そして、イエスさまの答えは、「あなたはそう言う。しかし、わたしはそのように考えていない」という意味にとらえることもできると思います。
 この受難日、十字架につけられたイエスとは何者だったのでしょうか。イエスさまとは誰かという問いに、多くの人たちが自分なりの答えを出し続けてきました。その答えに対してイエスさまは「あなたはそう言う」と答えられるのではないかと思います。
 私たちは、十字架につけられた痛々しい姿のイエスさまを前にして「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白することができるでしょうか。むしろ、イエスさまに救いを期待していたなら、裏切られたと怒り、「この人が救い主か」とイエスさまを責め立てるかもしれません。

 今日の物語の冒頭では、祭りのたびに総督が民衆の希望する囚人を釈放することが語られています。祭りのたびに、希望する囚人を赦すことが、当時のユダヤの習慣だったそうです。その習慣に従い総督ピラトは民衆たちに選択を迫ります。「どちらを釈放して欲しいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」(27:17)。ピラトは2人のイエスのうち、どちらを釈放するのかを民衆に問いかけます。
 「バラバ・イエス」と呼ばれる人物に関して、マタイによる福音書では「評判の囚人」(27:16)としか説明がありません。マルコによる福音書にも説明があり、そこでは「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒」(マルコ15:7)と言われています。マルコによる福音書の説明から想像すると、このバラバ・イエスは暴動の一員であったと考えられます。もしかするとバラバは社会の不平等、弾圧に抵抗しようとし、暴動を起こした民衆のヒーロー的な存在であったかもしれません。様々な理由があったとは思いますが、民衆はこのバラバ・イエスを選びました。
 「メシアといわれるイエス」は民衆からすると、ずっと異質な存在だったかもしれません。メシア、救い主といわれるイエスに対して、民衆は本当なのかと言った疑問を持っていたかもしれません。また、このイエスさまはピラトからの尋問を受けた際、ただただ沈黙していました。何も抵抗することをしませんでした。ピラトはその沈黙を貫くイエスの姿を「非常に不思議に思った」(27:14)ほどです。民衆はイエスさまより、バラバの方に親しみや情を感じたのかもしれません。民衆がイエスさまに抱いていた感情は、私たちも経験する感情だと思います。自分と異なる存在に出会うと、少なからず最初はその異質な者を軽蔑したり、排除したくなるような気持ちになることはあると思います。民衆からすると、メシアといわれるイエスはどこか自分たちと異なるものだったからこそ、釈放することを拒否したのかもしれません。

 民衆のイエスさまを拒否する姿勢は徹底されています。イエスさまのことをよく思わない祭司長や長老たちの扇動もあったかもしれませんが、民衆はピラトにイエスさまを十字架につけろと、死刑を求めます。その決意は固く、「その血の責任は、我々と子孫にある。」(27:25)と言い切ってしまうほどです。また、民衆と訳されている言葉は、神の民を意味する言葉でした。イエスさまを十字架につけろと求めている民衆は、その場にいるすべての民衆ではなく、神様と強い繋がりを持つ人々だと表現されています。
 民衆からすれば、イエスさまは自分たちが期待していたユダヤ人の王、優れた政治的指導者ではなかったのかもしれません。自分たちを救ってくれると期待していたはずが、裏切られた、騙されたという気持ちがあったかもしれません。民衆は自分たちこそ正しく、責められるべきはイエスさまだと怒っていたからこそ、ここまで徹底してイエスさまを拒否したのではないでしょうか。自分たちこそ期待を裏切られ、騙された被害者であり、イエスさまの死刑は当然だという思いがあったからこそ、死刑を求め、叫び続けたのだと思います。
 
 イエスさまを十字架刑、十字架での死に追いやった民衆は罪に陥りました。しかし、この民衆の犯した罪は私たちも犯すかもしれない罪でもあります。イエスさまを十字架につけた民衆の罪は、自分たちの正しさ、救いを求める熱心さや真剣さから生まれたものでした。正しさや熱心さから、他者を裁こうとする、攻撃しようとすることが私たちにもあるということです。
 それは度が過ぎたり、過剰になった正義感や、自分を基準にしたなら異質と思える他者を排除することかもしれません。ネットやSNS上での非難、特に炎上といった現象も、私たちが他者の犯した不正や過ちを許せない思いが爆発し、他者を責め立てるものです。これらは簡単に許されることではない過ちです。一度、誰かが非難を始めると、今日の民衆ではありませんが大勢の人が責め立てます。
 さらに恐ろしいのは、いわれない誹謗中傷のようなものです。何も問題はないように思えることであっても、人は自分の正しさを基準にしてなのか、単に気にいらないからなのか、人を攻撃してしまいます。自分の正しさから外れる、受け入れられない、完全に自分と異なっていると思われる人を排除してしまうことがあります。
 私たちは人の罪には敏感で、いつでもその人を否定することがあります。私たちが自分の正しさに固執しているとき、私たちは自分自身が陥っている罪には気付くこともありません。私は間違っていないと思い込んでしまっています。

 イエスさまの十字架での死刑を求める民衆の叫びを前にしても、イエスさまは自分がそのような死刑に値する罪は犯していないと反論することはありませんでした。また、イエスさまは周囲からの侮辱に対しても、言い返しはなさいませんでした。
 むしろ、イエスさまは、彼らを赦すように神様に求めました。イエスさまは、死刑を求めている人々が何をしているか知らないのだと憐れみを持って理解してくださいました。神の子イエスさまであれば、父である神様に死刑を求める人たちを裁くよう願うこともできたはずです。しかし、イエスさまは裁きを願うことはありませんでした。イエスさまは、悪や不正以上に真っ先に見るべきものはなく、そのような思いをもって他の人々を見てしまう人間に対して、神様なしの状況でいつまでも人間が生き続けることを嘆きます。その嘆きが、十字架の上でイエスさまが叫ばれた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉の中にあるのだと思います。
 十字架の上で死なれたイエスさまが私たちにもたらしたのは、イエスさまを拒否するような私たち人間に向けられた愛でした。
誰かに対して正しさを求め、真剣になるあまり、「あなたは間違っている」、「あなたは裁かれるべきだ」と相手を拒否し続ける私がいます。神様のいない状況で人は互いに「否」と拒否し合い、互いの過ち、罪を真っ先に見ます。しかし、イエスさまの十字架の死は、「否」と拒否し合う私たちに「然り」、「あなたはそうである」と受け止める神様を示してくださいました。
 私たちが自分の正しさや熱心さのためにそれが度を越していようと他者を裁き、挙句、人を、また、神の子であるイエスさまを死に追いやるほどの闇に支配されようとも、神様はその私たちの闇を、欠けている部分をそのままにはしませんでした。死に至るまで、私たちのことを憐れんでくださったイエスさまを通して、和解の道を示してくださいました。神様は人であろうと神であろうと拒否する人間である私たちを、「あなたはそうである」と受け止め、赦す生き方、神様と共に生きる道へと導きます。それがイエスさまの十字架の死によって明らかにされたのだと思います。
 この受難日、私たちの欠けているところに、闇に覆われた暗いところに主の十字架があります。イエスさまの十字架の死は、人間の罪の結果から引き起こされる悲惨で暗いものに思えるかもしれません。しかし、この十字架は私たちに赦しあう和解の道、互いを、自分自身を「あなたはそうである」と受け止める道を示す光でもあります。十字架にこの光を見出した時、私たちはおのずと「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白するのではないでしょうか。

十字架の主イエス・キリストの神様
 主よ、憐れんでください。私たちの生きる現実には今も、暗闇があり、人々の命を脅かしています。ご受難の時、私たちはあなたの示された十字架を仰ぎ見ます。私たちに和解の道を、あなたの光を示してください。あなたと共に生きる幸いを感謝いたします。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

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