牧師メッセージ

4月25日(日)復活節第4主日礼拝説教 「ここにいたなら。」

更新日: 2021.04.27

復活節第4主日(2021.4.25)礼拝説教     伝道師 山内慎平
ネヘミヤ記2章1節~18節、ヨハネによる福音書11章17節~27節

牧会祈祷
命の源である神さま
 主の日の朝、あなたが私たちの一週間を守り抜いてくださったこと、感謝いたします。私たちの心と体は常に多くの危険にさらされています。特に、今この時も、私たちは命の危険に脅えています。その中にあっても、あなたが守ってくださいました。今、私たちは自分の命だけでなく、共に生きる者の命をも守るために、主の日に会堂に集まることが出来ずにいます。この場で、家で、それぞれの場所で礼拝の時が守られています。どうか、聖霊によって私たちを一つにしてください。それぞれの祈りが献げられる場所をあなたの愛が働く場所としてください。
 私たちの思いを超えるすべてのこと、助けを必要としている一切のことをあなたに祈り求めます。あなたなしでは何事も成し遂げられない私たちを、あなたの恵みのうちに、今もそして永遠に覚え、憐れんでください。
 私たちは日々の生活の中で、数多くの問題に出会います。人間関係による問題、健康による問題、与えられている仕事、達成しなければならない課題による問題。多くの問題に、私たちの心は奪われます。私たちがそれらに疲れ切ってしまうとき、あなたが共に私たちの重荷を担っていてくださり、あなたの平安へと私たちを招いてくださっていることを思い出させてください。
 私たちの中にあるすべての苦しみを癒してください。心や体を病んでいる人、孤独な人、貧しさの中にある人、愛するものを失った人をあなたが支え、励ましてください。また、死の時を迎えようとしている人々が、恐れることなく、平安の内にみもとに行くことができますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

説  教          「ここにいたなら。」
 1ヶ月前、買い物の帰りに、マスクが壊れてしまうアクシデントに見舞われました。替えのマスクもなく、マスクを購入できるお店も見当たらず、新しいマスクの確保は出来そうにありませんでした。幸い、家まで遠くはない距離だったため、壊れたマスクを手で抑え、鼻と口を覆いながら帰りました。完璧にマスクをしているとは言えない状況です。周囲の目も怖く、家に帰るまでの道は気が気ではありません。しかし、信号を待っていた時、見知らぬ人が「よかったら」とマスクを差し出してくれました。マスクが壊れて不安だった私は、もちろん喜んでそのマスクをいただきました。ただただ感謝の気持ちしかありません。マスクを差し出された時、私はとても安心しました。
 今日の新約聖書の箇所に登場したマルタの、イエス様によって与えられた安心は、このように思いもせず、突然にもたらされたのではないかと思います。マルタの悲しみはとても大きなものでしたが、「ここにあなたがいてくださったなら」という訴えに答えてくださるイエス様が来てくださったことは、マルタにとって大きな安心だったと思います。
 
 今日のヨハネによる福音書の箇所では、ベタニアの町にイエス様が来られます。イエス様が町に来られたことを聞き、4日前に兄弟であったラザロを失い、悲しみに暮れていたマルタとマリアの姉妹は、イエス様をそれぞれ異なる仕方で迎えます。マリアは静かに家の中に座っていました。一方、マルタはイエス様到着の知らせを聞き、イエス様を迎えに行きます。イエス様を迎えに行ったマルタはイエス様に「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(11:21)と、ラザロの死の場面にイエス様がいなかったことに対する失望感、またイエス様がその場に間に合わなかったことへの怒りが込められているであろう言葉を投げかけます。
 しかし、失望や怒りとともにこの言葉には、マルタのイエス様に対する期待も含まれているのではないかと思います。マルタはもしイエス様が早く来てくださっていたなら、奇跡を起こし、ラザロを死から救っていたかもしれないと期待していたのだと思います。奇跡を期待していたからこそ、マルタは余計にイエス様に対して失望や怒りの気持ちをぶつけたのかもしれません。マルタは、イエス様が奇跡を行う人だと理解していたのだと思います。だからこそ、マルタは「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(11:22)と言い、イエス様に信頼を抱いていたのだと思います。この方は何か違うと、信じていたのではないでしょうか。
 マルタの言葉に対して、イエス様は「あなたの兄弟は復活する」(11:23)と答えました。ラザロの死を悲しんでいるマルタにとって、思いもよらない慰めの言葉かもしれません。しかし、マルタはこのイエス様の言葉に対して、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(11:24)と言いました。マルタは当時のユダヤ人社会では受け入れられていた、終わりの時の死者の復活について語っています。当時の一般的な復活の理解をマルタは持っていたため、「あなたの兄弟は復活する」というイエス様の言葉は、マルタにしてみればありきたりな慰めの言葉程度にしか聞こえなかったかもしれません。

 マルタが復活について自身の信仰を述べたのに対し、イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11:25)と言いました。今、マルタの目の前にいるこのイエス様こそが復活であり、命であることが語られています。マルタが信じていた終わりの時の復活、その時に与えられる永遠の命はいつ来るかも分からない未来のものではなく、今のものなのです。終わりの時、神様の時が、もうすでに私たちの生きているこの時間に入り込んでいることが告げられています。
 私たちの生きている時間には限りがあります。限りのある時間の中で、最も怖いものは死だと思います。死によって、私たちは自分の生きてきた時間が終わってしまうことを恐れます。しかし、復活であり、命であるイエス様はご受難と復活の出来事によって死を克服する命を示してくださいました。また、イエス様のよみがえりの命は、私たちの限りのある時の中で最後にやってくる死が、私たちの本当の終わりではないことも示しました。そのため、私たちは死んでもそこが本当の終わりではないことを信じることができます。神様の永遠の命によって生きます。すべての人がその命へと招かれています。「復活であり、命である」イエス様は、私たちの限りのある命、時間を超えて、「死んでも生きる」と言われる神様の永遠の命に生きることを約束してくださっています。
 終わりの時に経験する復活、与えられる永遠の命が私たちの今という時に経験できることは驚くべきことであると思います。

 マルタには今、この時に、終末において経験できると信じていた復活と命がイエス様を通して示されました。しかし、マルタはまだその復活と命を信じきれませんでした。今日の箇所の後、ラザロの復活の場面において、マルタはイエス様に「主よ、4日もたっていますから、もうにおいます」(11:39)と言いました。イエス様であっても日がたち、腐りかけているであろうラザロをよみがえらせることはできないのでは、とマルタは思い、このように言ったのかもしれません。マルタは無意識に自分の考えは確かであるという思い込みをしているのだと思います。マルタは、復活であり、命である方であっても、腐りかけている死者をよみがえらせることは不可能である、と自分に言い聞かせてしまっているのではないでしょうか。
 私たちはいつまでも悪いこと、悲しいことが続くわけではないことを心のどこかで思っていたりします。しかし、大きな悲しみや悲惨に見舞われた時、私たちはもうどうすることもできない絶望を感じます。
 
 私たちが不幸の中であえいでいる時であっても、神様は私たちには想像もできない仕方で、その状況に入って来てくださるのだと思います。イエス様がラザロの死を悲しむマルタに向かって、わたしが復活であり、命であると告げ、永遠の命を示したように、神様は私たちには想像もできない仕方で突然に私たちに希望を示されるのだと思います。
 マルタは今日の場面でイエス様に、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」(11:22)と言いました。また、ラザロがよみがえる場面でイエス様は、「わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」(11:42)と言っています。神様と子なるイエス様の間に信頼関係があることが示されています。そして、その信頼関係があるからこそ、子なるイエス様の願いは全て聞かれると、イエス様は言っています。私たちはその神様とイエス様の関係に加わりたい、その関係の中で祈りを聞いてもらいたいため、祈る時に「イエス・キリストの御名を通して」祈ります。神様とイエス様の関係に私たちも加わることで、私たちは奇跡を経験するのだと思います。
 イエス様が神様から地上へと遣わされた方であり、その方が何らかの仕方で、限りのある人生の中を生きる私たちと関わりを持とうとされることを感じることが、聖書で語られる奇跡を経験することなのだと思います。
 今日の聖書箇所の後には、ラザロのよみがえりという驚くべき奇跡が待っています。しかし、マルタの「もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という痛切な訴えに対して、イエス様が「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と答えた、この対話を通してマルタが経験するであろう奇跡は始まっていたのだと思います。ラザロは死んでしまい、死後4日もたっている、もうダメだ、と絶望しているマルタにイエス様は限りのない永遠の命であり、復活であるご自身を示されました。限界しか見えていなかったマルタの現実に、神様の時が入り込み、マルタにも永遠の命が与えられたのが今日の場面だったのだと思います。
 私たちは終わりの見えない苦しみや絶望に襲われます。しかし、それらにも限りがあります。その限りのある中に神様は入られて来ます。神様は、私たちの人生におけるあらゆる限られたものを超える永遠である神様の命を示してくださいます。私たちの生活にも、その永遠の命が吹き込まれ、神様と共にある現実を生きていきたいと願います。

ご在天の神様
 私たちの生きる現実には終わることのない苦しみ、悲しみがあるように思ってしまいます。どうか、嘆き悲しむ私たちに、復活であり、命である主イエスが永遠の命を吹き込まれますように。共にあなたがいてくださるという終わることのない希望を確信できますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

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