牧師メッセージ

6月20日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝説教 「貧しさも豊かさ」

更新日: 2021.06.22

聖霊降臨節第5主日(2021.6.20)礼拝説教  伝道師 山内慎平
申命記26章1節~11節、コリントの信徒への手紙二8章1節~15節

牧会祈祷
恵みと憐れみに富まれます神さま
 聖霊降臨節第5主日の朝、私たちは、あなたが与えてくださる恵みを信じ求めて集まってまいりました。あなたは私たちの思いを超えて繰り返し、恵みの賜物を備えてくださいます。その賜物を感謝いたします。未だに感染症による影響によって、心がなえがちになり、体が疲れを覚えています。その中にあっても、あなたによって私たちが生かされている体験を、その喜びをそれぞれの場で、離れていても分かち合うことができますように。
 聖霊の助けによってイエス・キリストに固く結ばれ、与えられた永遠の命の希望に生かされて日々を過ごすことができますように。その日々の中で、あなたに感謝し、あなたの栄光と御名を賛美することができますように。困難の中にある時も、悲しみの中にある時も、キリストに結ばれている恵みを思い出し、すべてを委ねて生きていく者とさせてください。
様々な困難を抱える人々のことを思います。病の中にある人、悩み呻いている人、不自由さを感じている人、休息を求めている人、悪意や偏見に苦しみ、安らげない人を御心に留め、憐れんでください。その人たちの心があなたから遠くあったとしても、あなたは、その人たちといつも共にいる方であることを示してください。そのために、互いに仕え合う私たちをあなたの恵みを証しする器として、用いてください。
 この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

説  教            「貧しさも豊かさ」
 貧困をなくすにはどうすればよいのか。思いつく中で最もシンプルなのは、富豪と呼ばれるような人が困っている人にお金をあげたらいいのではないかというものだと思います。おそらく、それができれば、貧困は手っ取り早く解決するかもしれません。しかし、貧しい人の物的な必要性を満たすことで、貧困が解決されるわけではないことを、私たちは知っています。仕事が見つからない、健康上の問題、様々な問題があります。現実には、多くのものを持っている人が不足している人の必要を満たすだけでは解決できない貧しさがあります。
 今日の新約聖書コリントの信徒への手紙二において、著者パウロは豊かさだけでなく、貧しさも共に分かち合うことを訴えています。パウロは、多くのものを持っている人も、持たざる人も関係なく、共に貧しさの中で苦しんでいる人々と共に生きることを求めます。その求めは、多くのものを持って豊かだから貧しい人を支えないといけないという義務のようなものではありません。その求めは、他者と豊かさを比べ、相対的に見て自分はそれほど豊かではないから、貧しい人を支えなくてもいいと拒否できるものでもありません。今日、パウロによってすべての人が貧しさすらも分かち合い、共に生きるいのちを示されています。私たちはこのいのちに生きることが出来るのでしょうか。

 コリントの信徒への手紙二8、9章は、パウロがコリントの信徒に対して献金を勧める内容となっています。その献金は、エルサレムの教会の援助のためのものでした。パウロはコリントの信徒に献金を勧めるにあたって、初めにマケドニア州の教会が何をしたかを語りました。マケドニア州には、フィリピやテサロニケの教会がありました。それらの教会は「苦しみによる激しい試練を受けていた」(8:2)とあります。具体的にどのような困難の中にこれらの教会が置かれていたのかは想像するしかありませんが、マケドニアの教会は厳しい試練の中にありました。また、マケドニアの教会は「極度の貧しさ」(8:2)の中にありました。しかし、その貧しさと同時に、教会では「満ち満ちた喜び」(8:2)もあふれ出したとあります。貧しさの中にあって、それでも、マケドニアの教会は喜びを失っていませんでした。さらに、驚くべきことに喜びと貧しさはあふれ出て、「人に惜しまず施す豊かさ」(8:2)となりました。常識的に考えると、理解し難いことが、パウロによって報告されています。
 そして、マケドニアの教会の人々は困難と貧しさの中にありながら、エルサレムの教会を支援するための献金のことを聞き、その献金に参加させてほしいと願い出ました。マケドニアの教会の人々はその献金に参加すると、彼らは持っている分だけでなく、それ以上に献げました。パウロが期待した以上に、マケドニアの教会の人々が献金に励んだことが語られています。パウロは、マケドニアの教会の人々のこの熱心な献金を「まず主に……自分自身を献げた」(8:5)と言います。彼らのいのちも持ち物もすべて神様のものでした。このエルサレムの教会への熱心な献金は、神様に神様のものを献げていただけでした。パウロは、イエス様からの愛に対する、お返しとして彼らが献金していたことを語ります。その献金は「神の御心にそって」(8:5)行われました。自らの持ち物を主に献げることは、神様の御心に適ったことでした。

 パウロはマケドニアの教会の例を紹介し、すぐさま、コリントの信徒にも熱心に献金に加わるように訴えています。パウロがマケドニアの教会の例を紹介したのは、コリントの教会と比べるためではありませんでした。パウロはコリントの信徒に献金を勧めるにあたって始めに、コリントの信徒は「すべての点で豊か」(8:7)だと語ります。パウロは、コリントの信徒は様々な賜物を持っているが、さらに惜しまないという賜物を持ってくれるよう、「慈善の業においても豊かな者」(8:7)になることを願っています。そして、パウロは、コリントの信徒がマケドニアの教会のように自由な意思で献金活動に加わることをも願っています。「わたしは命令としてこう言っているのではありません」(8:8)と、パウロは言っています。パウロは、自身の使徒としての権威やプレッシャーによって、コリントの信徒に献金に参加してもらおうとは考えていません。パウロは自発的に愛の純粋な表現として献金が献げられることを願っています。
 また、パウロは献金を献げることに対して、反対する人がいることを予想して、献げものの規則を語っています。その規則は、人々が持てるものに応じて献げることです。人それぞれ献げることには限界があります。この限界に対して、パウロは自分が持ちうるもので献げることを勧めます。十分の一献金のようなものはあくまで基準に過ぎず、すべての人に対して定められている規定は献げることにおいて存在しないことを、パウロは語っています。
 パウロの献金の勧めに対する反対意見として、「エルサレムの教会は楽になるかもしれないが、今度は自分たちが苦しい生活をしないといけなくなるのではないか」というものがあったのかもしれません。パウロは、豊かさと貧しさはバランスが取れると言います。相手の貧しさを補うと、自分が貧しくなった際、今度はその相手が貧しさを補い、互いに補い合うことが教会同士で望まれています。献金によって、その関係性が生まれるからこそ、パウロは惜しまず献金することを勧めます。
 マケドニアの教会が熱心に献金するよう導き、コリントの信徒を、勧められている献金へと導くものは何なのでしょうか。それはキリストの恵みです。

 今日の箇所の始め、パウロは「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」(8:1)と、言っていました。パウロは決してマケドニアの教会が献金において成し遂げたことをアピールしたいのではありません。パウロは、神様がマケドニアの教会のためにしてくださったことを強調するために、マケドニアの教会の紹介をしました。
 それでは、この神の恵みとは何か。パウロは9節でこう語りました。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。このことについては、先週の聖書個所でもあったフィリピ2:6-11のキリスト賛歌が響いてきます。イエス様は、人間としてお生まれになる前は神の身分でありました。そのため、あらゆる面で豊かだったはずです。しかし、人間として地上に来られたことにより、イエス様はすべてを失いました。イエス様は僕の身分になり、十字架の死に至るまで従順でした。そして、十字架の死と復活によってもたらされた人間の救いが、私たちを豊かにしました。イエス様は、救いによって人々を豊かにするために、ご自身の神の身分としての豊かさを棄て、貧しくなられました。このイエス様の姿こそ、キリスト者が互いに思いやって生きるように導く模範です。まさに、困難と貧しさの中にあったマケドニアの教会が熱心に献金するように導いたのは、このイエス様の恵みでした。パウロにとって肝心だったのは、金銭的な問題の解決ではありませんでした。何よりも、神様の恵みによって生まれる奉仕の喜びと愛の力でした。パウロは、コリントの信徒にも献金を勧める際、イエス様の恵みに応えて、献げられることを期待しています。
 パウロはこの献金を勧める手紙の中で、何度も神学的言葉、「恵み(カリス)」、「交わり(コイノーニア)」、「奉仕(ディアコノス)」を使用しています。これらの用語を用いることでパウロは、貧しい人への献金などの奉仕を、神様への奉仕としていることが考えられます。パウロの献金の勧めは、実際に貧しくて困っている人々がいることを強調するだけでなく、それはイエス様の恵みに基づいています。パウロは道徳的に、また、同情だけして、献金の必要性を訴えているわけではないのです。

 イエス様が貧しくなられたことで、私たちに与えられた豊かさとは何でしょうか。それは、金銭や力のようなものではありません。私たちに与えられた豊かさは、私たちの交わりの中に見ることができます。それは、教会の中での神の家族としての絆、永遠の命に見出すことができます。今日の箇所最後の15節に、マナを集めたイスラエル人の話が引用されていました。それぞれの人がどれだけマナを集めようと、誰も不足することはありませんでした。必要以上に集めた人は、余ったものが腐ってしまったので余ることはありませんでした。同じように、神様の恵みによって、教会は互いに補い合うことで、豊かさと貧しさは等しくされます。神様からその恵みがそれぞれの教会に分け与えられています。そして、その分け与えられた恵みを、教会は自分たちのためだけではなく、他の教会であれ、社会、地域、他の場所へも分け与えていくことが求められているのだと思います。それこそが、ご自身は貧しくなられて、救いによって私たちを豊かにしてくださったイエス様の愛に応えることなのではないでしょうか。
 私たちの周りには経済的な貧しさ、心の貧しさといった様々な貧しさがあります。私たちはそれらの貧しさに、自分の能力や時間、持ち物を用いることができます。しかし、貧しさを共に担うことの恐れによって、貧しさから目を背けることもあります。自身も何らかの貧しさの中にあれば、なおさらのことです。しかし、私たちにはパウロが示した、イエス様の恵みがあります。私たちはたとえ貧しくても、互いに補い合う実践において、この恵みの下で豊かさを分かち合って生きていく方へと歩みだせます。

 神様 私たちは貧しさ、苦しさが取り除かれるまで、喜びを感じることができません。しかし、あなたは独り子イエス・キリストの恵みを通し、キリストが人間の弱さ、罪をすべて引き受け、貧しくなり、十字架の死に至り、そこから復活させられることによって、私たちを豊かにしてくださいました。感謝いたします。貧しさに落ち込んでいる時も、主の豊かさを信じ、広い心を持つことができますように。私たちの貧しさの友となられたキリストの愛を覚えて、豊かさも貧しさも分かち合う道を歩ませてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

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