牧師メッセージ

7月18日(日)聖霊降臨節第9主日礼拝説教 「私たちには敵はいない。」

更新日: 2021.07.21

2021年聖霊降臨節第9主日(2021.7.18)礼拝説教     牧師 野田和人

創世記21章9~21節、ローマの信徒への手紙9章14~28節

 

牧会祈祷
 「自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼んで」(ローマ9:25)くださる主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の聖霊降臨節第9主日の朝、御言葉をもって私たちに語りかけ、「異邦人の救い」の礼拝へと招いてくださった幸いを心より感謝いたします。
 新型コロナウイルス感染症をはじめ、世界の至る所で起きている災害や事件、争いなどによって、私たちは私たち自身が引き起こしてもいる大きな困難に直面していますが、あなたの創造の御業、救いの御業を通して、どのような時にもあなたが私たちに働きかけてくださっていることを信じて、私たちはこれら困難に立ち向かっていくことができます。
 今離れた所で礼拝を守っている友、世界の至る所で、礼拝を守ることのできない友にもあなたが目を留めてくださって、私たちすべてを守り、力づけてください。

 使徒パウロは語りました。「…わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ている。そしてわたしに賜わった神の恵みはむだにならなかった…」(Ⅰコリント15:9-10/口語訳)と。

 私たちは2021年度に入ってこの4月から、私たちの信仰の友、また神戸栄光教会に関係しておられた8人の友を次々と御許へとお送りしました。そして今月も敬愛する方々をあなたの下へと受け入れていただきました。お一人おひとりの葬送式を執り行わせていただく中で、それぞれに与えられたこの地上の人生において、「ああ、確かにお一人おひとりに与えられた神さまの恵みは、それぞれが経験された労苦も含めて、決して無駄にはならなかったのだ」ということを実感させられ、感謝でした。

 私たち今を生きる者も、私たちに与えられた神さまの恵みは全く無駄にならず、その恵みの中で、自らの苦労も決して無駄にはならないことを信じて、一人ひとりの大切な日々の営みを、あなたの告げ知らせてくださる福音に導かれて続けていくことができますよう、お導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

説  教         「私たちには敵はいない。」
 今日最初にお読みした旧約聖書の創世記21章(9-21節)の、ハガルとイシュマエル、サラとイサク、お母さんとその息子ですが、そのハガルとイシュマエル、サラとイサク、そして神さまとアブラハムの物語について、使徒パウロは新約聖書のガラテヤの信徒への手紙4章(21-31節)で次のように記しました。お聞きください。
 「…アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれた。女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれた。…兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのだ」と。

 この箇所だけを聞きますと、何かすごく自らを誇っているように聞こえますね。実際パウロはこうした自らを誇るような言い方をよくするわけですが、彼がここで言いたかったことは自らを誇ることとは逆のことです。すなわち、知らないうちに、約束によって生まれた子と肉によって生まれた子の立場が逆転しているということでした。
 約束によって生まれたはずのあなたがたが、今は肉によって生まれた子となっている。「だから二度と奴隷の軛につながれてはならない」(ガラテヤ5:1)とパウロはこの箇所を結んだのでした。

 今お読みしたガラテヤの信徒への手紙のパウロの言葉を少し別の見方で見ますと、次のようになるでしょうか。
 「アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれた長子-長男のことですが-長子としてのイシュマエルは、生来の権利をすべて保有している『資格のある』子供だったが、肉によって生まれたゆえに、その歩みはパンのみによって生きる歩み、人の心を容易に押しつぶしてしまうような歩みだった。一方、アブラハムとその妻サラとの間に、イシュマエルから14年後に生まれたイサクは、霊によって生まれた約束の子として、不思議としか言いようのない、賜物として与えられた子供だった」。

 皆さんは新約聖書のルカによる福音書15章後半に記されている「『放蕩息子』のたとえ」をよくご存知ですよね。何十回も聞いている方もおられると思いますし、全く知らない方もおられるかとも思います。
 とにかく今のお話で言えば、約束の子であるはずのイスラエルの立場は、「『放蕩息子』のたとえ」になると逆転して、長子である兄の立場になるということです。
 すべての権利を与えられていた長子である兄は、父親を喜ばせ、ルールを守り、従って多くのものを受ける資格がありましたが、そうであるがゆえにやはりパンのみで生きようとしました。すべてを失って帰ってきた弟は、彼のその後の生を賜物として受け取ることになりました。

 今までご一緒に見てきた創世記のイシュマエルとイサク、ガラテヤの信徒への手紙のパウロの解釈、そして「『放蕩息子』のたとえ」が私たちに示していることは、神さまの自由な選びは、いわゆる長子の特権によって何ら制限されるものではない、何ら限界づけられるものではないということです。
 長子-長男の特権の絶大さについては、現代の日本においてもまだ残っている所があるかと思いますが、当時のイスラエル社会においては比べものにならないほど絶大なものであったと考えられます。しかし神さまの自由な選びは、そうした長子の特権によっては何の制限も受けないということです。

 ところが、創世記のイシュマエルとイサクの物語の後半部分が私たちに伝えている注目すべき事柄は、その長子の特権ゆえに躓かざるを得なかった者たちにも働く、神さまの特別な配慮についてでした。
 「神がハガルの目を開かれた」(創世記21:19)とあります。長子の特権ゆえに躓き、助けなき者、乏しくされた者へも向かっていく神さまの義、神さまの正しさ、誠実さといってもいいかと思います。ここに注目したいと思うのです。

 パウロは、彼自身の手による最後の手紙となったローマの信徒への手紙の9章から11章にかけて、この神の義-神の正しさ、誠実さと関連した長子イスラエルの躓きについて記しました。
 先週の礼拝でパウロの第3回宣教旅行についてお話ししました。ローマの信徒への手紙は、その旅行中、ギリシアのコリントで、この旅行後、結局は叶わなかったスペイン伝道へ赴く途中に立ち寄るつもりだったローマのキリスト者たちに向けて(したた)められたものです。紀元55,6年のことでした。

 パウロはここで、神さまから選ばれ、救いの約束を受けているはずのイスラエルの民の多くがキリストの福音を拒んでいること、異邦人の多くがその福音を受け入れ、救われているにもかかわらず、イスラエルは神さまの前から失われていることに心の大きな痛みを覚えています。
 今日お読みした直前の8章の最後の段落で示された「神の愛」に包まれていながら、それを受け入れず、かえってキリストの迫害へと走ったユダヤ人同胞に対する深い悲しみを訴えています。

 迫害は恐れの裏返しですが、その「愛と恐れ」について、私たちの教会のパンフレットの巻頭聖句、ヨハネの手紙一4章16節の「神は愛です」に続いて次のような言葉があります。結婚式でもお話しすることがありますが、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」。
 神学者であり牧師でもあったカール・バルトが、この御言葉をテーマにしてスイスのバーゼル刑務所で『回心』と題するたいへん有名な説教を行いました。その結論部分は、「『回心』とは、一般的に思われているような方向転換や新しい出発というよりも、自分が完全な愛の中にいること(ここで「完全な」というのは「無償の」、「ただの」ということですが)、そのような完全な愛の中に自分がいることを発見すること、それが『回心』である」というものでした。
 その時恐れは締め出される、というよりも恐れる必要も恐れる根拠もなくなるということですよね。私も刑務所でお話ししたりしますが、バーゼル刑務所の収容者の方々にこのお話は伝わったでしょうか。

 イスラエルの多くは、この完全な愛の中に、無償の、ただの愛の中に自分たちが入れられていることを発見することなく、回心することなく、パンのみで生きようとして恐れに捕らえられていました。躓いていました。
 ここで出て来る考え方が、キリストの福音を拒み、キリストの迫害へと走った自分たちのことは棚に上げておいて、自分たちがこの神によって受け入れられないのは、これは神の方に不義があるからではないのか、神の方が悪い、神は不義なのではないかというものでした。

 パウロはこうした考え方に対して旧約聖書の出エジプト記(33:19,4:21)を引用して、神さまの自由な選びによる計画を語ります。神さまの自由な選びは神の不義-不誠実ではなく、神さまの憐みの発露なのだと。
 すると、すべてが神さまの自由な意志によるのであるならば私たち人間の出る幕はないのだから、「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」(ローマ9:19)との反論が出て来ます。
 パウロはこの反論に対しては、新共同訳では「人よ」だけですが、「おお、人よ」との一言で答えました。それで十分でした。「おお、人よ」、これは私たちが神さまによって造られているにもかかわらず、その被造物としての責任には目もくれずに神さまから遠く離れ、失われた者であることを私たちに思い知らせる一言でした。

 そしてパウロは器の比喩を通して、確かに被造物はその創造主に対して何の異議も唱えることは出来ないことを明らかにします。しかしかと言って、人間の出る幕がないのではなく、焼き物師である創造主によって、人は器として用いられる必要があるのだということも明らかにします。焼き物師は器を必要とするのだと。神さまは私たち人間を必要としておられるということです。
 ただパウロはここで、長子イスラエルの躓きを「神の怒りの器」という言葉で表現します。それも最後の審判、滅びへと至る神の怒りの器であると。
 この「怒りの器」は不信の、信じることのないイスラエルを指していますが、そのイスラエルを、今、神が大いなる寛容をもって耐え忍び、持ちこたえておられるのだとすれば、それでもあなたは変わらず「私の出る幕はない」と言うことができるのかとパウロは問うのです。
 それだけではなく、神は怒りのみでなく憐れみをも現される。人間は「神の憐れみの器」、そこに神さまの豊かな栄光を蓄える憐れみの器としても備えられているのだとすれば、それでもあなたは変わらず「私の出る幕はない」と言うことができるのかとパウロは問うのです。

 「二度と奴隷の軛につながれてはならない」と語ったパウロの真意はここにあります。怒りと憐れみ、滅びと救いはすでに決定されているのではなく、神さまの自由な選びは不信のイスラエルをも「神の憐れみの器」として備えられているのだということを、パウロはここで何とかして伝えようとしたのでした。
 それが24節の言葉となって表されました。「神はわたしたちを憐れみの器として、(自分自身も含めてかつては神の怒りの器であった)ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」。
 自分たちユダヤ人のみならず、この手紙の宛てられたローマの信徒たちと共に生きる異邦人たちも神の憐れみの器として共に召し出されているということ、ここに神さまの選びの自由と義/誠実さと憐れみが鮮やかに現れ出ています。

 滅びへと備えられた神の怒りの器の中から、栄光へと備えられた憐れみの器が起こされる、怒りの器が憐れみの器へと変えられるのは、私たちの主イエス・キリストを信じる信仰を通して私たちが回心へと導かれることが大前提としてあります。
 キリストが私たち罪人のために示してくださった無償の愛、ただの愛、完全な愛によって私たちの罪の負債が赦され、今度は私たちがその罪の負債の代わりにキリストの愛の負債を負うのです。そして、その無償の愛、ただの愛、完全な愛に私自身が捕らわれていることを発見して、すなわち回心して、キリストの召しに応えて生きる-キリストの愛の負債を私たちはこの世界で払い続けるのです。

 パウロをはじめ私たちの信仰の先達たちが辿ってきたこの道を私たちが進む時、私たちの間にあるあらゆる障壁は消え、私たちには敵はいなくなるのではないでしょうか。
 「『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれる」(ローマ9:26)のですから。
 祈りましょう。

 神さま、私たちをあなたの憐れみの器として用いてください。怒りを溶かす憐れみを通して、私たちすべての者があなたの平和を生きることができますように。世界中の友が住むこの地球を、あなたの平和の器としてください。。
 主の御名によって祈ります。アーメン。

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