牧師メッセージ

7月25日(日)聖霊降臨節第10主日礼拝説教 「神との平和」

更新日: 2021.07.28

聖霊降臨節第10主日(2021.7.25)礼拝説教  伝道師 山内慎平
ホセア書6章1節~6節、コリントの信徒への手紙二5章14節~6章2節

命の源である神さま
 あなたのもとには光があり、あなたのもとには義しさがあります。しかし、私たちの現実には、悲しみや痛み、貧しさがあり、死の恐れに勝つことができないままです。この現実の中で、私たちはあなたに招かれ、集まってまいりました。自分の弱さ、愛の貧しさを覚えます。私たちの罪を赦された主のあわれみを求めます。
 イエス・キリストの愛を受け止めることができますように。私たちを捕らえて離さないあなたからの恵みが変わらないことを確信させてください。その恵みに支えられ、私たちを襲う苦難に耐え続けていくことが出来ますように。今、祈りを合わせようとしています。それぞれの場所にいて、同じ一つの信仰に立つ一人一人と共に主の恵みを祈り求め、呼び求めます。あなたが、それぞれの内にある願い、訴えの祈りに耳を傾け、一人一人にふさわしい御言葉を聞かせてくださいますように。
 悲しみの中にある者に慰めを、支えを必要としている人に励ましを、愛を失い心が冷たくなってしまった人には、もう一度愛を燃え立たせることが出来る力を、聖霊と御言葉によって与えてください。
 心や体に病を抱えている人を覚えます。今も、懸命に回復に向けて治療に専念している人たちのいのちをあなたが支えてください。また、災害によって苦しむ人々、特に、水害によって今も困難の中にいる人々のことを覚えます。多くのものを失い、嘆きの内にいる人のそばに、あなたが共にいてください。その人たちが再び立ち上がることが出来るよう、あなたの復活の力をお与えください。そして、愛する人を失い、悲しみの中にいる人々を慰めてくださいますように。
 この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

説  教            「神との平和」
 私たちは自分を変えたいと願うことがあると思います。どこまで変わりたいのか、それぞれに程度は異なりますが、その変化に向けて努力をしたりします。そして、人から「変わったね」と言われると嬉しくなります。
 本日の新約聖書の箇所で手紙の著者パウロは「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(5:17)と語ります。この言葉で、パウロは「あなたは変わったね。新しくなった」と言っています。それでは、キリストと結ばれて信仰を持って、私たちは何か劇的に変わったのでしょうか。私は洗礼を受けた時、パウロの語る変化を感じることが出来ませんでした。しかし、パウロは変化を実感できていない人にも「あなたは新しくなった」と語ります。パウロが言うように、私たちは「新しいもの」なのでしょうか。「古いもの」は過ぎ去ったのでしょうか。「新しく創造」されたことで何かが変わったのでしょうか。

 過ぎ去った「古いもの」とは何でしょうか。それは、肉に従って生きることです。言い換えれば、人間的な視点や、この世の価値観に従って生きるということです。コリントの教会の信徒へ向けてこの手紙を書いたパウロの以前の生き方も、肉に従ったものでした。かつてのパウロは、人々やイエス様を人間的な視点から見ていました。パウロが、ユダヤ教徒としての信仰の熱心さからキリスト者に敵意を持ち迫害していたことは、自分の基準で人々やイエス様を見ていたからこその行いでした。そのため、かつてのパウロのように肉に従って生きる、自分のために生きることには偏見や思い込みが入り込んできます。
 私たちであっても、肉に従って人を見る危険はあります。目の前にいる相手は、自分と親しいのか、親しくないのか。自分の役に立つ相手なのか。敵なのか味方なのか。自分より上か下か。私たちは様々な価値観、視点で相手を見ることができます。それでは、私たちは何によって人を見ればいいのでしょうか。
 パウロは人やイエス様を肉に従って見ることも、知ることもしないと言っています。回心したパウロは、肉ではなく、神様の霊に従う生き方へと変えられました。かつてパウロが抱いていた価値観、視点が、神様の霊に支配されることによって変わり、新しいものとなりました。神様はパウロのように、霊に従って知られることを求めています。
 今日読まれましたホセア書にも、同じように霊に従って神様を知ることが書かれています。「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない」(ホセ6:6)とありました。この言葉は、神様がイスラエルの人々にご自身との関わりについて問いただしているものです。ホセア書においてイスラエルの人々は、神様への背きにより戦争に巻き込まれ、生活が困難な状況にありました。しかし、「さあ、我々は主のもとに帰ろう」(ホセ6:1)から始まる、イスラエルの人々の言葉には、神様への背きに対する悔い改めはなく、物質的な必要が満たされる豊かな生活への回復を求めるものしかありませんでした。そのような豊かさを求めてイスラエルの人々が神様へ献げものをすることを、神様は喜ばないと言っています。愛と神様を知ることが、イスラエルの人々に求められています。神様は、パウロが語ったように、豊かさを求めるような、肉に従う求めではない仕方で知られることを求めています。

 信仰のない人が人間的な基準で見ても、イエス様はおそらく人格者としてある程度認められるのではないかと思います。しかし、パウロは回心によって、イエス様をただ優れた人だと知る以上のことを知りました。「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」(5;14)とあるように、パウロはイエス様が全く特別な方であることを知りました。復活のキリストを知ることによって、パウロは霊に従う生き方へと導かれました。
 パウロと同じように、私たちにもこの霊に従う道が示されています。神様は、イエス様を通して、肉に従い、自分のために生きようとし、罪の中で生きている私たちと和解されました。それは、イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちに霊に従う生き方が示されたということでもあります。神様との和解によって、私たちは神様との新しい交わりへと入っていきます。
 神様は、私たちとの和解のために、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(5:21)。イエス様は十字架の死において、希望のない死、人々の軽蔑を引き受けられました。イエス様は、私たちの罪、心の冷たさや怒り、悲しみや苦しみのすべてを引き受けられ、私たちには新しいものとされる道を示されました。神様との和解によって、私たちは罪を赦された者となりました。
 イエス様を通してもたらされる神様の和解は、信仰を持つ私たちだけに限定されたものではありません。神様は「この世」とも和解されました。そのため、神様との和解において、信仰のあるなしは問題とされず、和解の交わりから外されてしまうような人もいません。この世と神様の和解には、この世界に生きるすべての人が含まれます。イエス様の十字架の死と復活を、私たちが信じたり、疑ったり、理解したり、無視したりする前に、もうすでにこの神様との和解が、私たちのために行われました。私たちが新しくされる道は、すべての人にとって隠されることなく、明らかにされています。
 また、神様との和解は、「すべて神から出ること」(5:18)です。私たちの努力によって得るものではないことが言われています。和解は、神様の主導でもたらされます。そして、「キリストと結ばれる人」にその救いはもたらされます。「キリストと結ばれた」という言葉は、原語に近く訳すと「キリストにある」となります。それでは、私たちはどのようにして「キリストにある者」、「キリストの中にある者」となれるのでしょうか。実は、すでにイエス様が私たちのための救い主として遣わされたことによって、私たちは皆キリストの中に置かれています。そのことが真実であると分かった時、私たちは新しくされるのではないでしょうか。もうすでに、自分は神様の和解の中に、救いの中にいることを知ることが霊に従って生きることなのだと思います。

 私たちと和解させるためにキリストをお遣わしになった神様は「和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(5:18)と、あります。私たちが、神様に代わって人々に神様との和解を語ることが求められています。私たちはキリストに結ばれ、十字架の死によってすべての人がイエス様と共に死に、復活によって新しく生まれました。そのことはもうすでに起こった出来事です。しかし、私たちはその出来事をどのようにして知ることが出来るのでしょうか。信仰を持っている人は、十字架の死と復活の出来事を知っています。どうして知っているのかと言えば、福音、聖書の言葉を聞いたからです。私たちと神様を和解させた十字架の出来事を聞くことで、私たちは信仰へと導かれました。福音を聞くこともまた、神様が弟子たちに与えた福音を宣べ伝える務めによるものです。神様が私たちに人間を神様と和解させるという役割を与えてくださり、その働きに加えられることは恵みであると思います。私たちは何も知らなくても、すでにイエス様の十字架の死によって罪が赦されています。しかし、このことを知らされなければ信じることはできません。信じることが出来なければ、私たちは自分の罪に悩み続けることになるでしょう。そのような人たちに、この世とすら和解してくださった神様を知らせる役目を、私たちは与えられています。
 パウロは不思議なことを語っています。それは「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(5:20)という言葉です。この手紙はコリントの教会に宛てられた手紙であり、十字架の死と復活について知っている人たちに、パウロは和解を受けるように語っています。信仰を持っていない人だけが和解を求めたら良いわけではないのです。パウロはコリントの教会の人々に神様の救いについて何度も思い起こすことを求めています。それは、福音を暗記するようなものではありません。パウロが求めているのは、日々の現実の中で、わたしは救われているのだということを実感することです。イエス様の十字架の死と復活を知り、新しくされた者は日々の現実の中で神様の救いを感じることができます。
 神様から与えられた和解の務めは、決して楽なものではありません。肉に従い、自分のために生きるのを止め、神様に仕えて生きることとなります。パウロも和解の務めにおいて、多くの苦難を経験しました。今日の聖書個所の直後の6章4節以下には、パウロが耐え忍んできたことがいくつか挙げられています。貧しさや、行き詰まり、命に関わりかねない危機を経験していても、パウロは常に喜んでいます。神様に反発することもありませんでした。パウロは神様に支えられていること、救われていることを常に思い起こしていたのだと思います。パウロはイエス様を通して、復活の命が自分に充満していることを知っていました。この確信があったからこそ、パウロは和解の務めに励むことが出来ました。
 私たちの中に、また周囲に、世界において、憎しみや怒り、抑圧といった私たちの罪の力を経験します。現実に存在する闇の力は、私たちを悩ませ、苦しませます。喜びや自由がないように思われ、私たちの生きる力が失われていきます。しかし、すべての人に神様の救いの出来事が示されています。希望がないようなところにも希望が存在しています。その救いを知り、神様を受け入れることによって、私たちは神様と和解させられ、新しい交わりへと入れられます。神様と和解するとき、私たちは自分の現実が新しくなったことを感じ取ります。

永遠なる神様
 あなたの新しい創造に感謝いたします。あなたは、私たちが自分自身で生きていた時、あなたの愛によって私たちを見出してくださいました。あなたは、私たちが無関心であった者、憎んでいた者であっても、私たちの友とされました。あなたがもたらしてくださった和解を相手の中にも見るように、私たちの目を開いてください。今、和解を必要としている人々、迫害されている者、差別されている者に私たちが和解の務めを誠実に為していくことができますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によって、お献げいたします。アーメン。

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