牧師メッセージ

8月22日(日)聖霊降臨節第14主日礼拝説教 「芽をだせ、芽をだせ」

更新日: 2021.08.26

聖霊降臨節第14主日(2021.8.22)礼拝説教  伝道師 山内慎平
ハバクク書3章17節~19節、ローマの信徒への手紙8章18節~25節

救いの源である神様
 私たちは、この場に集い礼拝を献げることが再び出来ずにいます。私たちは、聖霊が注がれることを望みます。それぞれの場所にいて祈りを合わせます私たちを、あなたが一つとしてください。
 私たちが不安な時も、私たちを絶望まで追い込まないでください。私たちが倒れた時も、私たちを倒れたままにしないでください。私たちが落ち込む時も、私たちの心を頑なにしないでください。御言葉によって、私たちの心を打ち砕き、あなたが近くにいることを、その愛を感じさせてください。
 私たちを悩ませるたくさんの過ちや誤解があります。過ちによって、恐れ、悲しんでいる人々にあなたの慰めがありますように。深く傷ついているところにあなたの癒しがありますように。
 私たちは、体や心に病を抱えながら、治療に励み懸命に生きている人、貧しい人、災害などによって危険にさらされ、安全な場所を求めている人、暴力によって自由を奪われている人のことを覚えます。また、助けを求める人たちに力の限り助けを与えようと、それぞれの務めに励む人のことを覚えます。また、この時に礼拝を共に守っていますキリストの体であるすべての教会・伝道所のことを覚えます。そのすべてを、あなたの光が照らし、輝かせてくれますように。あなたによって光り輝く私たちの救いが与えられることを祈り求めます。
 私たちが祈りに覚える1人1人のことを、あなたが御心に留めてください。私たちの献げる祈りを、賛美を、聖霊が強めてくださり、あなたが聞き届けてくださいますように。あなたの平安の内に私たちを立たせてください。

 この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

説  教         「芽をだせ、芽をだせ」
 高校生の時に見た、詩の一行が強烈でした。「絶望は虚妄だ 希望がそうであるように」というものです。その詩の解説・感想もあり、そこには「絶望も希望もどちらも同じ虚ろなものでたかが知れています。そのようなものに足をとられず淡々と生きなさい、というメッセージが込められています」と言うようなことが書いてありました。詩とその感想を読んで、私は初めに、絶望を嘘、偽りだと思えるようになれば生きやすいだろうなと思いました。しかし、希望も嘘だ、虚しいと思って生きていけるほど自分は強くないとも思いました。私は出来ることなら、自分を支えてくれる希望をもって生きたいです。
 今日、最初に読まれたハバクク書3章17節に、人間の生活を支える動植物、イチジクやぶどう、豚や牛を苦労して育てても手に入れることが出来ない様子が語られていました。私たちの人生も、苦労の連続、うまくいかないことがあると思います。また、病気や災害などによって、本当に深く苦しむことがあります。そのようなどん底に沈み込んだ時、私たちはもしかすると希望すら嘘だ、何の力もないと思うかもしれません。自分には苦しみ、悲しみしかないと思うかもしれません。しかし、パウロはどのような時にあっても、私たちには希望があると慰めの言葉を語っています。

 今日の新約聖書には、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(8:18)とあります。「現在の苦しみ」とは何なのでしょうか。22節には「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」とあります。現在の苦しみは、すべての被造物が経験する苦しみであることが考えられます。体や心の不調からくる苦しみ、孤独感や疎外感からくる苦しみといった多くの苦しみがあります。
 また、「現在の苦しみ」は「キリストと共に苦しむ」(8:17)苦しみも考えられます。信仰者であるからこそ経験する苦しみもあるはずです。信仰によって迫害を受けること、信仰を他者に理解してもらえず苦しむことがあると思います。
 しかし、パウロは「現在の苦しみは、取るに足りない」と驚くべきことを言っています。パウロは「将来わたしたちに現されるはずの栄光」に比べると、私たちの経験するあらゆる苦しみは問題にならないと言っています。そして、現在の苦しみを終わらせる栄光とは、終末のことです。終わりの日にイエス様が再び来られることによって、私たちの苦しみが終わります。

 今日の箇所で言われている「現在」は、私たちの生涯も超え、終末の時まで続いています。終わりの日にイエス様が再び来られます。それまでの時が現在です。そして、この現在には苦しみがあるのだと、パウロは言っています。では、なぜ私たちにこの終わりの時まで続く苦しみがあるのでしょうか。
 それは、創世記で語られる神様へのアダムの背きがあるからです。神様へのアダムの背きによって、すべての被造物が罪によって苦しむこととなりました。本来、神様を讃えるために創られた被造物は、アダムの不従順によって、その本来の目的を達成することが出来ず、罪の中を生きています。神様から離れて生きてしまっていることを、パウロは「虚無に服している」(8:20)と言っています。虚無の中を生きているため、神様に創られたもの、被造物はうめき、苦しむしかありません。
 このとても苦しい中で、被造物は「神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(8:19)。被造物は罪の中を、苦しみの中を生きながら、自分が今置かれている状況が変わることを真剣に望んでいます。それでは、この苦しみの状態が変えられるときはいつなのでしょうか。
 現在の苦しみの状態が変えられるのは、「神の子たちの現れる」ときです。そして、神の子たちの現れる時は、終末の時、地上に神の国が建てられる時です。それは、将来わたしたちに現されるはずのあの栄光です。神様の栄光の時に、被造物は変えられます。
 また、神の子はクリスチャンのことも意味していると考えられます。そのため、神の子たちの現れる終末の時にクリスチャンも関わっています。イエス様によって神の子とされ、神様との交わりに入れられた人は神様の栄光の一部になることができます。栄光の一部になるとき、そこに終わることのない永遠の命があります。被造物である私たちは神様の栄光を、自分たちが変えられることを待ち望んでいます。
 そして、被造物が変えられることを待ち望むように、クリスチャンも同じく切にその時を待ち望んでいます。クリスチャンは、洗礼を受け、聖霊によって自分が神の子とされていることを知っています。洗礼によって、クリスチャンの内面は変えられました。しかし、いまだに体は罪の中を生き、誘惑に弱いままです。体も神様に贖われることで、私たちは完全な救いを経験します。体すらも贖われる救いの完成を、クリスチャンは待ち望んでいます。
 クリスチャンも、すべての被造物と変わらず苦しみの中を生きる者です。神様の救いを知りつつも、もしかすると知っているからこそ、現在の自分たちを襲う苦しみの中でうめいています。しかし、苦しみがある現実にあって、それでもパウロは、わたしたちは希望によって救われていると言います。うめき、苦しむばかりの私たちに、パウロは希望が未来のことだけでなく、もうすでに起こったこと、それによって私たちが救われていることを示しています。パウロの語る希望とは何なのでしょうか。

 それは、キリストの十字架です。イエス様の十字架の死が、私たちの罪を赦し、神様との交わりの中で生きる者としてくださいました。そして、イエス様は十字架において苦しまれ、私たちと共に苦しむ方であることを示してくださいました。それによって、私たちが経験するあらゆる苦しみはただの苦しみではなく、キリストと共に苦しむものへと変わりました。そして、キリストの十字架は私たちに苦しみだけがあるのではなく、そこには必ず栄光があることをも示してくださいました。
 十字架によって、私たちは罪が赦されただけではありません。私たちは、神様にふさわしい者とされ、アダムの時から壊れてしまった神様との関係を和解によって回復します。そして、神の子とされ、終わりの時の救いの完成へと導かれます。
 しかし、このイエス様の示された希望は今、この時に見ることは出来ません。体すらも贖う、すべての救いの完成の時は終わりの時、イエス様が再び来られる時に実現する希望であるため、見ることが出来ません。そして、見ることが出来ない希望を信頼するのは難しいことです。パウロもそのことを分かっているのか、私たちに厳しく「見えるものに対する希望は希望ではありません」(8:24)と、見えるものばかり信頼しがちな私たちに警告しています。
 そのような救いの希望への信頼が薄れてしまう私たちに、神様は聖霊を送ってくださいました。この聖霊が、私たちに未来で実現する栄光を受けることを確信させます。私たちは聖霊によって神の子とされました。私たちが、自分の弱さや虚しさばかりを見て生きていくしかない中で、神様はその弱い私たちを受け入れ、神の子としてくださいました。聖霊を受けて、私たちは神様を「父よ」、もっと親しく「お父さん」と呼ぶことの出来る関係に、神の子となりました。聖霊を受けるまでの私は、「父よ」と神様に応じることも出来ないほどの弱さを抱えていましたが、今は聖霊が共にいて、神様を信頼して祈ることが出来ます。そして、私たちはこの先で実現する希望を信頼して、「主イエスよ、来てください」と、必ず受けることになる救いを確信して祈ることが出来るのだと思います。
 聖霊によって、未来の救いへの確信を与えられた私たちは、苦しみのある現実でどのように生きていけば良いのでしょうか。パウロは「目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(8:25)と言っています。クリスチャンとなり、見ることは出来ない希望を望む人は現実で苦しみや痛みがあったとしても、それらから逃れて生きることは出来ず、むしろ痛みや苦しみを請け負います。それが、パウロの言う忍耐して待ち望む人なのだと思います。忍耐する生き方は困難にも思えますが、私たちは自分たちを襲う痛みや苦しみを受け止めることが出来ます。私たちには、キリストの十字架を通して示された神様の愛が注がれています。私たちを終わりの時の救いまで導いてくださるイエス様という希望によって、私たちは逃げ出したくなるような苦しみ、悲惨さにも耐えることが出来ます。
 私たちは、苦しみを単純な苦しみだけとしか思えないことがあります。しかし、苦しみはそれだけで終わりません。苦しみの先に、苦しみを終わらせる神様の栄光の時、救いの完成があります。私たちの忍耐には、共に苦しむイエス様がいてくださいます。
 耐えることは辛いことです。しかし、私たちはその先の未来をしっかりと見ていたいと思います。これまで私たちを苦しめ、不安にさせてきた死や命のこと、時間、力といったあらゆるものが終わりの時には無力となり、救いが完成されます。私たちを神様から引き離すものはなくなります。私たちは何が起きようとも、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と言う、確信を持ってこの現実を生きたいと思います。

主イエス・キリストの神様
 主よ、あなたは私たちと共に苦しんでくださいます。あなたの私たちへの愛に感謝いたします。
 どうか私たちが苦しみや痛み、悲しみの中にあっても、あなたの栄光によって私たちを希望へと導いてください。今、痛み、苦しみを耐え忍んでいる私たちに、苦しみが苦しみだけでは終わらず、その先におられる救い主であるキリスト見ることが出来るよう、聖霊を注いでください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。アーメン。

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