牧師メッセージ

「小さなものとともに」

更新日: 2015.01.29

2014年 降誕祭主日礼拝

イザヤ書11章1‐10節 コリントの信徒への手紙一1章26‐31節

牧 師  野田和人

はじめに、痛みをもって告白します。なぜ150人もの子どもたちと大人が、理不尽にもその命を奪われなければならないのか。なぜ数十人の住民が殺され、その何倍もの女性と子どもたちが連れ去られなければならないのか。私には理解できません。私たちの身の回りにももちろん理不尽なことは数多くありますが、今回パキスタンのペシャワル、ナイジェリアのボルノ村で起こった事件には、そのあまりの痛ましさに心が押しつぶされそうになります。武器という力を背後に持つ私たち人間の傲慢さが、創造主なる神にこれほどあからさまに敵対することを目の当たりにして、また武器頼みから離れられない私たちの社会もこうした暴力性、神に対する敵対性を内包していることを痛感して、暗澹たる思いにならざるを得ません。マララ・ユスフザイさんは語りました。「なぜ戦車を造ることは簡単なのに、学校を建てることは難しいのか」と。私たちが何を誇りとして生きているのかが問われているのだと思います。

12月8日に、近畿2府1県の超教派で構成されるキリスト教連合会の交流会が神戸であり、フィールドワークとして中山手通にあるイスラム教の寺院-ムスリムモスクを訪れました。10数人の牧師や司祭を前にして、モスクの指導者の方がイスラム教入門のようなお話をされたのですが、大切なことは二つでした。それは同じ神さまの下にあるキリスト教でも全く同じです。まず、神は唯一であること、アラビア語で“ラ イラー イッラー アッラー”-あの黒い旗にも記されている言葉です。そしてもう一つは、その神のみが創造者であるということです。地上にあるものすべては被造物であるということ、創造者によって造りだされたものであるということです。だから私たちは、使徒パウロも言うように「誇るなら主を誇る」(Ⅰコリント1:31)しかないのです。

「無から有を呼び起される神の前で一体何を誇ろうというのか。知恵か、力か。神の知恵は十字架につけられたキリストによって明らかにされたではないか。あなたがたの罪はこのキリストによって贖われ、あなたがたは新たな創造に与ったではないか。この救いを前にして人間が何かを誇る余地など全くないではないか。誇る者はこのキリストを誇れ、この主を誇れ」ということです。

紀元前922年にイスラエル王国が分裂したあと、南ユダ王国に現れた最初の預言者イザヤもこの誇るべき主についての預言を残しました。紀元前8世紀後半、B.C.700年代初めの頃です。彼は当時ダビデ王の家系にある南ユダ王国のアハズ王の支配に深い失望と挫折感を抱いていました。しかし彼の理想とする王もエッサイの株、すなわちダビデの家系から生み出されることを確信していました。そのメシア-油注がれし者は、物理的な力によるのではない、主の霊に満たされ、真の知恵を身に着け、正義と真実とをもって、弱い者、貧しい者のために正しい裁きを行うと言われています。イザヤ以後も、このようなメシア-若枝は、エレミヤをはじめとする預言者たちによってその到来が期待され続けました。そしてこのイザヤの預言から700年を経た初代教会は、十字架につけられたナザレのイエスを、このメシア-キリストであると信じたのでした。

イエスの洗礼時には「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(マルコ1:10)と聖書に記されています。またイエスの生涯は、当時のユダヤ社会において疎外され、蔑まれていた罪人や徴税人、病人たちの友となって、彼らを深く憐れまれた生涯でした。「弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護する」(イザヤ11:4)歩みでした。預言は成就しました。

では、このメシアによって導かれる世界とはどのようなものなのでしょうか。それが「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」(イザヤ11:6)という言葉で始まる、イザヤが理想とした平和の情景が美しい言葉で言い表されているところです。確かに現実は権力者が、物理的な力を持った者が貧しい者を虐げ、狼は小羊を餌食にし、毒蛇は幼子の手を噛んで死に至らしめている。しかしこの現実は本来の姿ではない。私たちが当たり前だと思っている弱肉強食の世界は、初めの創造の時に照らせば決して本来の姿ではないことをイザヤは告げています。そこでは「牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう」(イザヤ11:7)。こうした、私たちの世界の本来の姿-平和を回復するためにこそ、メシアは私たちの争いのただ中に来られるということです。

ここで語られていることは、ただ単に、猛獣が飼い馴らされて危険が取り除かれた状態で共にいるということではありません。そうではなく、もっと積極的に、猛獣の性質が根底から、根こそぎ変わることを語っています。例えば、肉食が草食になることです。ここでイメージされている平和は、力の弱い者が強くなることによって保たれる均衡ではなく、力の強い者がその力を失うことによって実現するような平和のことではないでしょうか。そのような平和は、イザヤの時代のアッシリアの平和や、イエスの時代のローマの平和(Pax Romana)、そして現代のアメリカの平和(Pax Americana)とは対極にあるものと言えるでしょう。真の支配とは、力を振るうことによってではなく、力を失うことを通してなされていく、そのようでしか真の平和は回復されない、そのことをその到来によって示すものがイザヤにとってのメシアであり、その身をもって真の平和の回復を私たちに示してくださった主イエス・キリストなのだと思うのです。主が寝かされた飼い葉桶はその象徴です。

では、平和は本当に回復されたのでしょうか。弱肉強食は続いています。そして私たちはその中で力を失うことを恐れています。けれどもこのクリスマスの時、私たちはそのような私たちのために、十字架の死に至るまで従順に、弱く貧しい人々とともに、小さくされた者たちとともに歩まれた救い主が来られたことを思い起こすことができます。その主と出会って、私たちの生が根底から変えられるような仕方で、肉食が草食に変わるような仕方で、力を失うことを通して、私たちにも主にある平和が到来したのです。このことを知ることが「主を知る知識で満たされる」(イザヤ11:9)ということです。

「その日が来れば」(イザヤ11:10)と語ったイザヤの預言は、その700年後に成就しました。私たちも、私たちにとっての「すでに来た」、そして「来たるべき」その日、「主を知る知識が全地に満ちる」その日に向けて、小さな主を誇りとして、忍耐と希望を失うことなく進みたいと心から願います。クリスマス、おめでとうございます。

 

「主の善き力にこよなく守られ、来たるべき時を心安らかに待とう。神は夕に朝にわれらが傍らに在り、どの新しい日々にも必ず共にいまし給う」

神さま、無数の犠牲者の上に、あなたの平安を与えてください。砕かれし魂をもって、私たちの主イエス・キリストを私たちの心の内に宿し、その主に包まれて、闇に輝く光に導かれて小さくされた私自身と出会い、小さなものとともに主の平和を生きる器としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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