牧師メッセージ

「彼は起こされた」

更新日: 2015.05.27

2015年4月5日(日)復活祭主日礼拝

イザヤ書54章7~10節 ルカによる福音書24章1~12節

牧 師  野田和人

 主の復活、ハレルヤ! イースターおめでとうございます。
私たちは、2月18日の灰の水曜日から始まった40日間のレントの中、先週の棕梠の主日から始まった受難週早天祈祷会の中で、洗足木曜日聖餐礼拝、そして3日前の聖金曜日/受難日正午礼拝を経て、今日の主イエス・キリストの復活の朝を迎えました。
十字架上の七言と言われているものがあります。ルカによる福音書23章に三つ、ヨハネによる福音書19章に三つ、マタイによる福音書とマルコによる福音書に共通してあるものが一つです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:24)「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46,マルコ15:34)「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)「渇く」(ヨハネ19:28)「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)の七つです。
この七つの言葉が実際にイエスご自身によって語られたかどうかについては、おそらくそうではなかっただろうと思われます。イエスさまは息を引き取られる前にただ大声で何かを叫ばれた。そこにあったのは残酷で非情極まりない、血の滴る十字架という冷厳な現実でした。そこで最期に大声で何かを叫ばれた。その叫びが、後になって、このイエスを私の主、私の神であると告白し、その復活を信じる者たちの間に響いて、ガリラヤでの数々のイエスさまの教えと行いとを思い起こさせる形で、様々な言葉となって彼らの心に訴えかけてきたということではないかと思います。
そこから、時空を超えた現代に生きる私たちにとって、十字架のグロテスクな死を前にしたイエスさまの大声での叫びは、死の闇から輝き出る光の到来を告げるこの復活の朝に一体どのような響きを私たちの心の内にもたらすのでしょうか。私たちにはそこで想像力、イマジネーションが欠かせません。

婦人たちは、金曜の日没から土曜の日没までの安息日をどのように過ごしたのでしょうか。決して安息などと呼べるものではなく、深い悲しみと嘆きの中にあったと思います。安息日が終わっても、夜の外出は危険です。じりじりしながら朝を待ち望んで、ようやく明け方早く、まだ夜の闇の残る道を、イエスさまの遺体に、その死にふさわしい施しをしようと彼女らは香料を携えて墓へと急ぎます。ここには彼女たちの日常があります。香料を塗り、憤りを覚えつつもしばらく墓の前で悲しめば、宿に戻って故郷ガリラヤへの帰り支度を始めるつもりだったのではないでしょうか。
ところが墓に着くなり、その日常性が壊されていきます。彼女たちは「石が墓のわきに転がしてあるのを見つけた。しかし中に入っても主イエスの遺体が見当たらなかった。」とあります。墓は空だったのです。空の墓は、ただそこに遺体がないということを示しているわけですが、ここではもう一つ大切なことを意味しています。それは、墓から出てこられた方はまぎれもなく十字架につけられて葬られたイエスであるという事実です。彼女たちは自分たちの日常性が崩れていく中で途方に暮れるしかありませんでした。茫然自失の状態です。なぜなら、彼女らにとっては当たり前のことですが、死者の中にイエスさまを捜していたからです。それがかなわない。私たちも同じ行動をしたことでしょう。

けれどもここで彼女たちの日常を、経験を打ち破る出来事が起こります。それが二人の天使による証言です。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」この言葉は、現在に至るまで偏見、憎悪、敵意、暴力の連鎖から抜け出すことのできない私たち人間を、そしてまたその連鎖を断ち切ることなく直接的・間接的に深く関わってきた、また関わっている教会をも問いただす言葉として響いてきます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」教会が安息日の土曜日ではなく週の初めの日曜日に礼拝をささげるのは、それが主イエス・キリストの復活の日だからです。私たちの罪は、闇の力は主イエスの復活とともにすべて墓に葬られたはずなのに、なぜまだ死者の中に捜すのか、なぜまだ墓の中に顔を入れようとするのか、と問うのです。

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」原文では「彼はここにはいない。起こされたのだ。」「起こされた-甦らされた」と受け身になっているように、ここには神さまの意志が、神の計画の必然がはっきりと言い表されています。それは「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」という言葉でも明らかです。この神のイニシアティヴを通して、婦人たちはイエスさまの言葉を思い出したのでした。復活の物語においては、イエスご自身の復活される様子が記されているわけではありません。すなわち証拠はありません。けれども空の墓と天使の証言、啓示によってその事実が明らかになっています。婦人たちがイエスさまの言葉を思い出したというのは、彼女たちが「証拠」という日常、「死者の中に捜す」という闇から解放されて、「証言」という啓示、「彼は起こされた、甦らされた」という光の中へと入っていったことを表しているのではないでしょうか。
人は聞かなかったことは思い出せませんが、聞いておりさえすれば、見ておりさえすれば思い出すことができます。想起することができます。彼女たちにとってのイエスさまのガリラヤでの約束は、神の必然は、エルサレムでの主イエスの復活が成った、その成就を通してはじめて、その意味が知らされたのでした。わかったのでした。「ああ、このことだったのか」と。ヨハネによる福音書の洗足の記事のところ、13章7節では、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」とあります。「わが為すこと汝いまは知らず、後に悟るべし」私たちは思い出しさえすれば後に悟ることが許されているのです。

婦人たちはその時、次第に明るくなる道を宿まで帰り、いっさいの出来事をそこにいる者たちすべてに伝えました。私たちも思い出すことができます。イエスさまの息を引き取られる前の十字架上の叫びを。そして「彼は起こされた、甦らされた」というこの復活の朝の出来事を通して、あの叫びは他でもない私たちのためであったと思い起こすことができます。あの叫びは、罪がどのくらい重いのか、愛がどのくらい深いのかを全く知らない私たちの罪を負い、その愛の極みを示された叫びであったと知ることができます。そして私たちが死から生へと、死から命へと入れられるこの復活の朝の出来事は、このことをまだ聞いていない人たちにも、そのいっさいを知らせてまわる喜びと覚悟を私たちにもたらしてくれます。
ご一緒に主の聖餐に与る中で、私たちも主によって死から生への新しい命を与えられている喜びを大いに伝えていくものとなりたいと心から願います。

神さま、あなたは「山が移り、丘が揺らいでも、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはない」と私たちに憐れみをもって告げてくださいます。その約束の成就が、主の十字架と復活を通して成ったことを思い起こし、感謝して聖餐の恵みに与らせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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