「罪の赦しと体の癒し」
更新日: 2015.06.06
2015年5月26日(火)兵庫共励会春期研修会礼拝
マルコによる福音書2章1~12節
牧 師 野田和人
「イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まった」。この「家」は、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とイエスさまに言われてすぐに網を捨てて従った二人の兄弟、シモン・ペトロとアンデレの住む家であったと思われます。イエスさまはそこでシモンの姑の熱病を癒しておられました。人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスさまのもとに連れて来て、イエスさまはそこで大勢の人たちを癒され、一旦カファルナウムから離れて他の町や村で宣教し、悪霊を追い出しておられました。そして数日後、カファルナウムに戻って来られると、そのことがすぐさま町中に知れ渡り、立錐の余地もないほどの大勢の人に囲まれて、そこで御言葉を語っておられました。そこへ突然中風の者が運び込まれて癒しが起こった。これが今日の物語です。“Son of God”という映画の中では、私たちがこの箇所を読んで感じる臨場感が見事に再現されて、状況がよく伝わってきました。
当時のパレスチナの家の多くは部屋が一つで、その上の屋根は、梁と木の枝などを編んだものを粘土で覆ってできた平屋根でした。修理の必要もあって、家の外側に屋根へ通じる階段のあるものが多かったようです。中風の者は四人の男に担がれて来ましたが、イエスさまの周りの人のあまりの多さに、イエスさまに近寄ることもできません。そこで彼らは屋根に登り、粘土をはがして穴を押し開け、真下の、身動きも出来ないほどの人でいっぱいの、けれども御言葉を語られるイエスさまの声だけが響いている部屋の中に、イエスさまの目の前に寝床ごと病人をつり降ろしたのでした。ずいぶんと乱暴な、非常識ともいえる行動です。居合わせた人々の、イエスさまの、そして当の病人の驚きが目に見えるようです。
不躾ともいえる行動ですが、イエスさまが今この家に来ておられることを耳にした四人は、何としても今困難な状況にある自分たちの仲間の一人をイエスさまのもとに連れてくる、そのことしか頭にありませんでした。体裁、礼儀などかまうことなく、彼らは一人の友と共にある自分たちの困難を、困窮をありのままイエスさまの目の前に突き出したのでした。ただひたすらそのままを主イエスに委ねたのでした。彼らが伝え聞いていたイエスさまの権威に信頼して。イエスさまがご覧になった「その人たちの信仰」とは、このようなものではなかったでしょうか。
そこには会話はありませんでした。けれどもイエスさまは彼らのギリギリの思いを聞き入れられて応えられました。「子よ、あなたの罪は赦される」と。この言葉は「あなたの罪はまさに今、赦された」という宣言として聞くことができます。しかし病人とその仲間たちも含めて、周りでこの言葉を聞いた者たちの間には、そこには律法学者たちもいましたが、「えー!」と声を上げるほどの驚きが、衝撃が走ったに違いありません。
「えー、罪が赦されるだって。何を言っているのだ。そんなことよりも病気を治すのではないのか」-周りの者が期待していたような癒しがすぐに起こったわけではなかったのでした。「まさに今、あなたの罪は赦された」-「そんなばかな!神を冒瀆するのにも程がある」-ユダヤ教の教えに詳しい律法学者たちが抱いた憤りは当然だと思います。
しかしそこでイエスさまが問いかけられます。「『あなたの罪は赦される』と言うのと『起きて床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。私たちも問われています。「わたしは『罪が赦された』と言ったが、あなたたちは『この病気が治れ』と言った方がいいと思っているようだし、わたしがまずそうすることを望んでいるようだ。しかしどちらがまことに易しいと思うのか」と。皆さんはどう思われますか。
ただ言葉にするだけならば、目に見える出来事にはならない、あるいは確かめることの不可能な「罪の赦し」について言う方がたやすく、それに比べると、中風の男が立ち上がって歩き出せば、それは驚くべき奇跡ということになり、これこそ困難なことであると思うのではないでしょうか。けれどもイエスさまがこの問いを持ち出されたのは、「罪の赦し」ということについて、律法学者たちも含めて、当の病人とその仲間や周りの大勢の人々、そして私たちに新たな注意を、新たな関心を引き起こすためではなかったかと思うのです。
私たちは本当に驚くべきことに対して実は驚いていない、気づいていない、気づこうとしない、頑なになっているということです。そしてそうではないことに対して驚いている。「癒さない」ことに驚いている。イザヤ書43章25節は、主なる神の「赦し」について次のように語ります。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」
私たちは、もし神さまが奇跡を行ってくださるなら、その力を振るってくださるなら幸いであると考えます。けれどもそれは、神ご自身が私たち人間を憐れまれ、私たち人間を救おうとされるところから始まるべきものであって、私たちがただ自分の不幸を嘆き、自らの救いを求めるところから出てくるものではないということです。
あなたの罪はまさに今、神さまによって、私たちを造ってくださった神ご自身のために赦されている。あなたはそのようにして神さまに受け入れられている。このことこそがまさに驚きではないでしょうか。イエスさまが来られたのは、このこと-「私の罪はまさに今、神さまによって、私を造ってくださった神ご自身のために赦されている。私はそのようにして神さまに受け入れられている」ことを、神の子としての権威をもって宣言されるためでした。律法学者たちはこのことをどうしても受け入れることができないのです。けれどもこの権威の業として、この地上で罪の赦しを宣言できる人の子が、体の癒しをも与えられたのでした。この時、このイエスにおいて、信仰と赦しと癒しが結びついて一つのもの-救いとなったのではないでしょうか。
「あなたの罪は今赦された。起きて歩きなさい。」中風の者はイエスさまのこの言葉を受け入れて、起きて歩き出しました。それは、これまで中風の者の困窮を共に担ってきた仲間たちも同じでした。彼らもこの言葉を受け入れて、癒された友と一緒に起きて歩き出しました。
「求めるなら助けは来る。しかし決してきみの知らなかった仕方で」-「求めるなら助けは来る。しかし決してきみの知らなかった仕方で」との言葉が響いてきます。救いは、癒しは、たとえ目に見えるような形ではなくとも驚くべき罪の赦しから来る。赦しにおいて、それを受け入れることによって私たちはすでに癒されている、健やかにされているということではないかと思うのです。この本当に驚くべき事柄を受け入れることにまず私たちの関心のすべてを集中させて、愛する仲間とともに起き上がって、床を担いで、日常へと一歩を踏み出したいと切に願います。
神さま、本当に驚くべきことの背後にはイエスさまの十字架があり、その後の復活と昇天、その恵みのすべてを私たちに伝えてくださる聖霊の働きがあります。聖霊降臨節の初めの週、私たちがこのあなたの愛の業にあらためて目を向け、感謝して受けとめ、その業を私たちの日々の祈り、日々の営みに生かしていくことができますよう、私たち一人ひとりを支え導いてください。私たちの贖いの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。