「命の道」
更新日: 2015.06.10
2015年2月20日(金),24日(火)栄光金曜集会,垂水集会
マルコによる福音書8章27節~9章1節
牧 師 野田和人
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」この言葉はペトロの心を刺し貫きました。同時に私たちの心も刺し貫きます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
旧約聖書ヨブ記の最初に登場するサタンは主に答えました。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」「利益もないのに、人は神を敬うでしょうか。」どうでしょうか。私たちは利益もないのに、神を敬うことができるのでしょうか。ヨブはこの後サタンから、そして当の主から激しいチャレンジを受けるわけですが、今日ご一緒にお読みしたマルコによる福音書の8章でも、このサタンのチャレンジを受けるイエスさまの弟子の一人、ペトロの様子が描かれています。彼がサタンに打ち負かされ、サタンそのものとなってしまった、イエスさまに「サタン、引き下がれ」と激しく叱責される場面です。けれどもこのペトロが、イエスさまにサタンと呼ばれた男が、後に私たちキリストの教会に連なる者たちの代表者となっていったのです。このことを覚えつつ、今日の御言葉に聴きましょう。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロとともに私たちすべてが、今この時、この問いを真剣に問われています。
フィリポ・カイサリアは、ヘロデ大王の息子フィリポが当時のローマ皇帝アウグストゥスに敬意を表してその町をカイサリアと名付けたところから、フィリポ・カイサリアと呼ばれるようになった町です。ヘルモン山の麓、ヨルダン川の源流に近く、イスラエルの北の端という地理的な条件から、そこでは皇帝礼拝をはじめとして様々な異教の神々が祀られていました。現在のゴラン高原に当たりますが、ここから南に向けての眺望はガリラヤを越えてエルサレムにまで広がり、イエスさまのガリラヤ伝道を振り返り、この後のエルサレムへの道行を暗示するものとなっています。その地で、弟子たちは初めて真正面からこのイエスさまの問いを受けたのでした。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
その前に弟子たちは、イエスさまの最初の質問に促されて、人々がイエスさまのことをどう思っているのかについて答えますが、それは人々がそれまでに経験してきたことから知られるような、その時代の理想的な人物像、彼らがそうあってほしいと願っていたリーダーの姿を超え出るものではありませんでした。その意味では、イエスさまは極めて高い評価を受けておられました。そこでイエスさまは、人々はそうかも知れないが、あなたがたはどう思うのかと、公の場ではないところで彼らに質問をぶつけたのでした。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロが弟子たちを代表して答えます。「あなたは、メシア-キリストです。」彼がメシアをどのように理解していたのかは別にして、正しい答えでした。メシアとは元々「油注がれた者」という意味ですが、イエスさまの時代においては、抑圧され、蔑ろにされた民族を解放する人物、政治的色彩の濃い勝利者を表すものと考えられていました。ただそれはイエスさまご自身のイメージされるメシア像ではなかったと思います。メシアとは、マタイによる福音書のイエス誕生の記事によれば「自分の民を罪から救う」(1:21)者でした。ペトロら弟子たちがメシアについてどのように考えていたにせよ、イエスさまは無用な誤解を避けるために、ご自分のことを誰にも話さないように弟子たちに口止めをされます。ところが最初に誤解をしたのが弟子たちの代表、私たちの代表でもあるペトロであったということを聖書は伝えるのです。
ペトロは確かにイエスさまをメシアであると告白しましたが、その内容はやはり民衆の理想、こうあってほしいと願うリーダー像に近かったのではないでしょうか。したがって、メシアがなぜ苦しみを受け、宗教的指導者たちから排斥されて殺されるのか、全く理解できませんでした。イエスさまはここでご自身がメシアであるということについて、ご自身のメシア像について、ご自分に定められた道を語ることで説明されます。それは神さまの約束に基づいた、当然そうなるべきものでした。すなわち「メシアは必ず多くの苦しみを受けなければならない。そして長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、殺されなければならない。そして三日の後復活させられることがすでに神の意志によって定められている」というものでした。
しかしこのメシア像は民衆がイメージしていた、そしておそらくペトロらもそのように考えていた、抑圧され、蔑ろにされた民族を解放する勝利者としてのメシアとは全くかけ離れたものでした。ユダヤ教の指導者層からさえ理解されずに十字架につけられ、惨めに殺されていく自称メシアは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(Ⅰコリント1:23)でしかありませんでした。ペトロもこのメシア像を受け入れることができませんでした。そこでイエスさまをわきへお連れして、引き寄せて、諌め始めたのでした。弟子というよりもまるで保護者のようです。「油注がれた者だからこそ、神に聖別された者だからこそ、苦しみや迫害、死を避けることができるのではないのですか。」-サタンがペトロに迫ってきます。キリストをキリストでないものにしようとする企てでした。
ペトロはまだこの後に起こる出来事を知りませんから無理もないと言えばそうですが、それではすべてを知っている私たちはどうでしょうか。やっぱり強力な「油注がれた者」がほしいと思わないでしょうか。サタンの誘惑から逃れられるでしょうか。最近の、抑止力さえ効かない紛争状況や、その解決の糸口がつかめず、紛争を煽るような政治的指導者らの傲慢ぶりにもたいへん危惧を抱きますが、その時、私たちはやっぱり強力な「油注がれた者」が必要だという考えを持たないでしょうか。もしそうであるなら、それは私たちをここでのペトロや民衆と同じ位置に置くことになるのです。私たちはどうすればよいのでしょうか。
この時、イエスさまは弟子たちをご覧になりながらペトロを激しく叱責されました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」-「神に支配されずに、人間に支配されてしまっている。」私たちは神さまの支配の下で生きたいと切に願っていますが、そのために自分を整えることができていないのです。ペトロも同じではなかったでしょうか。
イエスさまはペトロが答えた「あなたは、メシアです。」という言葉の本当の意味を明らかにされます。「人の子は、あなたたちのために、あなたたちを罪から救い出すためにあなたたちと同じ姿で現れ、そのために苦しみを受け、十字架において殺され、三日の後に復活させられる」ということです。「あなたはこれを信じるか。あなたは、あなたの全存在を賭けてこれを信じるか」と問われています。
どうでしょうか。私は、日々の生活の中で、イエス・キリストがこの私のために、私の罪を購うために十字架の上でご自分の命を投げ出されたのだということが、本当には分かっていないのではないかと思うのです。このことのために自分の内にわずかなスペースしか空けていない。だからどうしても自分のメシア像を抱いてしまう。キリストのものとされながら、「主よ、主よ」とただ呼び求めるだけで、その主に従うということがどういうことなのか分からない。
今日の箇所の34節に「自分を捨て、自分の十字架を背負って」とありますが、ここで「捨てる」とは「否定すること」、ペトロがキリストを拒んだ時に言った「知らない」と同じことです。これを自分自身に向けて言うのです。すなわち「キリストだけを知って、もはや自分を知らない」と。その上で「十字架を負う」のです。したがってこの十字架は、私たちが日常生活の中で自然に感じるような苦難や困窮、不安といったものを指しているのではなくて、ただイエス・キリストに結びつくことによって生じる苦しみ、キリスト者であるということによってもたらされる苦しみを意味しています。
ただ先立ち行くキリストのみを見て、恐れずに十字架の主に従う。十字架の主に固く結びついて、その主の苦しみを共にするということ、キリストと共に苦しむということです。それは次の三節で示されているような自己中心や貪欲、欺瞞に生きる私の中の古い人間に死をもたらすことでもあると思います。けれども私たちの内の一体誰が自分自身にそのような死を望むことができるでしょうか。誰にも出来ないのではないでしょうか。けれども誰にも出来ないからこそ、この地点で、私のために苦しみを受け、捨てられた主イエス・キリストが私に語りかけてくださって、私の死となり、そしてまた私の生となってくださるのだと思います。主はこのような備えを私たち一人一人にすでに成してくださっている。ところがこのことが私たちには本当には分かっていないのです。
ここで私がいつも思い起こすのは、以前お話ししたことがあると思いますが、修士論文の準備のためにブラジルのサンパウロに滞在していた時、テレビのドキュメンタリーで見たストリートチルドレンの言葉です。彼らが彼らを目の敵にする者たちから逃げ惑う中で、実は両者とも貧困と抑圧によって虐げられた階層から出てきた者同士なのですが、そこで命を削りながら逃げるストリートチルドレンから発せられた言葉は次のような言葉でした。「だけどぼくの命はキリストの命と同じ価値がある。キリストはぼくたちを救うために、命を投げ出したんだ」。
ギリギリのところで命を削っているのは彼らストリートチルドレンだけではなく、想像力さえ働かせれば、私たちのまわりでもこのような声が聞こえてくるはずですが、彼らの「だけどぼくの命はキリストの命と同じ価値がある。キリストはぼくたちを救うために、命を投げ出したんだ」という率直な言葉を耳にするたびに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」との主イエスの真剣な問いかけが私の胸に響いてきます。この問いに対する答えが、私たちの日々の生活の一部分ではなく、私たちの日々の生活のすべてを満たすことができるようにと、特に今始まったばかりのこの受難節において、私たちは祈りを深めていくことが求められているのではないでしょうか。
ペトロの手紙一においてペトロは次のように語りました。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。」(3:18)このように変えられたペトロに対してと同じように、私たちに対しても主イエスは慈愛に満ちた祈りでもって私たちを支えてくださっています。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31,32)この主の祈りに応えていきましょう。
神さま、神に背いたこの時代にあなたが遣わしてくださった御子、主イエス・キリストの福音の証言を私たちが恥じることのないように、避けることのないように忍耐強く私たちを導いてくださるあなたに感謝します。あなたの導きに応えて、主がその命を投げ出して私たちに示してくださった和解と平和を私たちが生きることができますよう、私たち一人一人を強めてください。そこから決して離れることのないようにしてください。私たちの希望の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。