牧師メッセージ

「風は思いのままに吹く」

更新日: 2015.06.11

2015年5月24日(日)ペンテコステ/聖霊降臨祭主日礼拝

創世記11章1~9節 使徒言行録2章1~11節

牧 師  野田和人

「風は思いのままに吹く」-この言葉はヨハネによる福音書3章8節からの引用ですが、7節からお読みしますと次のように記されています。「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」ここで「風」と訳されている言葉は「霊」とも訳すことのできる言葉ですから、イエスさまは「思いのままに吹く」地上の風の現象によって「霊から生まれる」ということを象徴的に言い表されたのだと理解することができます。
私たちは地上に吹く風を目で見ることはできませんから、それがどこから来てどこへ行くのかを知りませんが、風が吹いていることは、風に揺らされているまわりの状況や体に風を感じることでわかります。それと同じように、私たち人間の目には見えない形で神の霊の働きは厳然と行われている、霊から生まれたあなたにはそれが感じられるはずだ、わかるはずだ。「霊から生まれた者も皆そのとおりである」というのはこのこと-「私たち人間の目には見えない形で神の霊の働きは厳然と行われており、霊から生まれたあなたにはそれがわかる、それを感じることができる」ということの宣言であると言ってもいいでしょう。
「新たに生まれる」の「新たに」は、“from above”-「天から」と訳すこともできる言葉です。その「天」から、激しい風が吹いてくるような大音響が、ペトロらが祈るために一つになって集まっていた家中に響き渡りました。そこで、彼らは炎のような舌を通して神の霊の働きを実感したのでした。聖霊降臨、聖霊の現臨です。そして彼らは新たに生まれました。霊が語らせるままの言葉をもって。

ナチスのヒトラー暗殺計画に関わったことで捕らえられていた獄中で、ボンヘッファーは今日の聖霊降臨日を迎えて次のように記しています。「僕は聖書に書かれている最初の聖霊降臨日に起こった不思議な出来事に、すなわち『言葉』の奇跡に再び心を奪われています。またバベルの塔によって生じた混乱についても思いをめぐらせています。バベルの塔を建てたことによって、人間はそれぞれ自分ひとりにしか通用しない言葉を語ることになり、人々はもはやお互いを理解することができなくなりました。この混乱は、ただ、それぞれの人が、自分に理解できる言葉によって、しかもまた、お互いに理解し合うことを可能にさせる言葉によって、すなわち神の言葉によってのみ解消され、克服されるべきです。そして教会とは、まさにこの言葉が聞かれ、語られる場所なのだということを考えました。」
神さまは人間が互いの言葉を聞き分けることができないようにして、彼らを全地に散らされ、人間の驕り、高ぶりを打ち砕かれました。しかし人間は、今度は自分とは違う言葉を話す者を、自分とは違った考え方をする、異質な者を排除していくことで、再び驕り、高ぶりを身に付けてきたのではないでしょうか。そのようにして、現在数多くのバベルの塔が建てられているのを私たちは目の当たりにしています。私たちが今日の聖霊降臨日にもう一度目を向けなければならないのは、神がかつてバベルの塔を崩されたのは、そこで分かたれた言葉の一つひとつが再びそれぞれの塔を建ち上げるためではなかったということです。一つに集まって熱心に祈っていたペトロらでさえも、あやうくその方向へと一歩を踏み出していたかもしれません。しかしそこに聖霊が降ったのです。

彼らが霊の語らせるままに話し出した時、一体何が起こったのでしょうか。そうです。彼らは生れ故郷のガリラヤ地方の言葉ではなく、他の国の言葉で話しだしたのでした。そして、それぞれが違う国に生まれ育ってエルサレムへ戻ってきていたユダヤ人たちには、もちろん彼らの話す事柄が分かったのでした。このことは、神さまが聖霊によって与えてくださる神の言葉は、ペトロら弟子たちの思いをはるかに越えて、まず自分に理解できる言葉として、そしてお互いに理解し合える言葉として、私たちを対立と排除ではなく、私たちが主にあって互いに受け入れ合うこと、私たちの間の和解と一致へと導いてくださるものであるということを示しています。
今日は九つの言語でこの箇所(使徒2:1~4)を朗読していただきましたが、皆さんいかがでしたか。“Todos ficaram cheios do Espirito Santo, e passaram a falar em outras linguas, segundo o Espirito lhes concedia que falassem.”これはポルトガル語ですが、どうですか。何か伝わってきましたか。この神の言葉を、私には分からないから聞かない、関心もないというのではなく、私に分かる言葉と同じように私には分からない言葉の一つひとつにも神の霊は同じように働きかけてくださって、それぞれの言葉に聴く者たちを同じ風の中に包んでくださるのだということを、今日の聖霊降臨日に私たちは肝に銘じるべきだと思うのです。それが、歴史から学ぶことなく対立と排除へと進もうとする現代の私たちをも、互いに赦し合い受け入れ合うことへと、主にある和解と一致へと引き戻してくださる聖霊の働きではないでしょうか。
教会はまさにこの言葉が聞かれ、語られる場所なのです。そしてこの言葉を受け取る一人ひとりは、今度はそれぞれが自分の言葉で神のこの偉大な業を証言するために、この教会から一歩を踏み出していくのです。聖霊が、私たちにとってのこの言葉の奇跡を導いてくださいます。

獄中のボンヘッファーに彼の両親から聖霊降臨日の小包が届けられました。彼にとって、口では言い表すことのできないほどの喜びだったようです。なぜなら、極限状況の中で、彼と両親との心の結びつきが目に見えるものとして表されたからです。私たちがこの後に与る洗礼と聖餐はこのことを表しています。聖霊降臨日の贈り物です。

今日は最後に皆さんもよくご存じの、私にとっても懐かしく大好きなボブ・ディランの「風に吹かれて」“Blowin’ In The Wind”を紹介して終わります。

どれだけ歩いていったら大人になれるのだろう
どれだけ海を飛んだら鳩は休めるのだろう
どれだけ砲弾が飛んだら戦いが止むのだろう
友よ、空を吹く風だけが知っている
風だけが知っている
どれだけ空を見たら青空が見えるのだろう
どれだけ聞いたら嘆きが聞こえるのだろう
どれだけ人が死んだら失ったものの大きさに気づくのだろう
友よ、空を吹く風だけが知っている
風だけが知っている

神さま、武力によらず、権力によらず、ただあなたの聖霊によって、私たちを平和へと導いてください。贖いの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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