牧師メッセージ

「善をもって悪に勝ちなさい」

更新日: 2015.08.19

2015年8月2日(日)平和聖日主日礼拝

出エジプト記22章20~26節 ローマの信徒への手紙12章9~21節

牧 師  野田和人

今日、あとからお読みいただいたローマ書の箇所は、初めの9節にある「愛」という言葉をキーワードに、「愛」について記されているところですが、使徒パウロはここで抽象的な愛について語ろうとしているのではなく、実践的な愛の勧めを具体的に展開しようとしています。そこで今日はこのうちの14節、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」との御言葉と、それを掘り下げて展開している17節以下に、特に「復讐」という言葉に注目して、しばらくの間皆さんと一緒に見ていきたいと思います。

私たちはこの世に生きている限りは、いやな目に遭ったり不当な扱いを受けたり、自分のことでなくとも、自分の愛する者のことで大きな苦しみを受けたりすることがあります。そのような仕打ちに対して、時には恐ろしいほどの怒りがこみ上げてきて、このままにはしておけない、何とか出来ないか、対象がはっきりしていれば何とかやり返したいと、仕返しを強く願う気持ちが頭をもたげてきます。そしてこの願望は、受けた恨みを晴らそうとする行動は、人間の自然な本性の表れとして、例えば仇討やフィクションとしての必殺仕事人のように正当なこととして考えられてきました。絶対に許すことはできない-そのために、受けた仕打ちに相当する、あるいはそれ以上の実力行使を求めます。私たちの心の闇はそのように本当に深いのです。
けれども、もしこれが正当であるというのなら、それぞれの立場の者が正当であると考えるようなこうした仕返し、復讐の連鎖は全く断ち切ることのできないものとなります。なぜなら敵の悪に報いるために私の用いる方法が、報復の掟の原則に照らしてたとえどれほど正当化されているように見えたとしても、それはやはり今度は私によって引き起こされる悪にすぎないからです。同じレベルで繰り返される悪に対して、報復が止むことはないでしょう。悪をもって悪に対応することは、悪が私に打ち勝った、私が悪に打ち負かされたことになるのです。
私たち人間の復讐は、それをたとえ正義だとか聖戦という言葉で言い表したとしても、それが私たち人間から出たものである限り、その悪の連鎖の袋小路から私たちが抜け出すことはできません。それは使徒パウロの時代から二千年を経た現代世界を見渡しても、些細な出来事から重大な事柄に至るまで、私たちの生きている世界の至る所ではっきりと見て取ることのできるものです。あの敗戦から70年を経た今日、私たちは何を学んできたのかと思います。

それではどうすればよいのでしょうか。
私たちはまず気づく必要があります。私たちは生かされてここにいるのだということを。私は憐れみを受けた、私たちは憐れみを受けて今ここに生かされているのだということを。
今日最初にお読みいただいた旧約聖書の出エジプト記の箇所の小見出しには、「人道的律法」とありますが、これは、私たちの造り主であられる神ご自身が律法を与えられるのみならず、寄留者、寡婦や孤児、貧しい者へ関心を向けられるという神さまの決意の表れです。そして「あなたがたはエジプトの国で寄留者であったからである」との言葉が示しているように、寄留者であり、寡婦や孤児であり、貧しい者であった私たち自身を、主がまず配慮してくださったことが先にある、このことを私たちに伝える律法であるといってよいでしょう。
私たちは、私たちを虐げるかつてのエジプトのモデルではなく、この神のモデルにこそ従うべきではないのかということです。この憐れみにこそ目を向けるべきではないでしょうか。

私は、私一人の罪の道を、悪の道を歩んでいた時、神さまよりもその悪を愛していた時、それにもかかわらず神さまは私を愛してくださっている、大切にしてくださっているという声を聞いたのです。その時、主イエスが私を見つけ出し、支えてくださった。彼は私を慰め、私のすべての罪を赦し、私の悪を数え上げることをなさらなかった。私の悪は数え上げられなかったのです。そのようにして私たちは憐れみを受けたのです。そしてそのようにして、神さまはご自分の敵に、すなわち私に、私たちに打ち勝たれたのでした。
私たちはこのことに決して鈍感であってはならないと思います。主イエスは、ご自分のことをよく思わない敵のまっただ中の十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られました。十二弟子らによって選ばれたステファノも、彼を迫害する敵の投げつける石を受けながら、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と祈ったのです。
このような憐れみのうちにいるあなたたちならば、たとえ耐えられないような苦しみの中にあっても、自らが悪を引き起こして争いの源となってはならない。そうではなく、かえって平和の源となるようにとパウロは勧めているのです。

平和の源-それは「赦すこと」にあります。この「赦し」に私たちが悪の連鎖から、人間の復讐の袋小路から抜け出す鍵があります。「復讐はわたしのすること」と神さまは言われますが、神の復讐は、イエス・キリストにおいて、その十字架の死とそこからの復活においてすでになされたということです。神さまはその御子において、私たちのすべての罪を告発し罰せられました。神さまがそのようにして御子を通して、ご自分で、私たちのどうしようもない破れ-破綻を背負われたことこそが神の復讐であり、神さまはそのことによってご自分の敵を、すなわち私たちを赦してくださったのです。ここに憐れみがあります。この憐れみに打たれて、私たちは悔い改めて新たに生かされることができるのです。そうであるならば、私たちは私たちの敵に対しても、悪に対しても同じように接する他はないのです。それが私たち人間の復讐を空しくする「神の復讐」であり、パウロがここで語っている「善」なのだと思います。

悪に打ち負かされてはならない、むしろ善によって、赦しによって、悪を打ち負かしなさい。-不可能でしょうか。主イエス・キリストは、私たち一人一人にそのようにしてくださいました。ご自分の身を献げ尽くして、私たちと神さまとの間の和解の道を開いてくださり、私たち自身の間にある、また私の内にある敵意という隔ての壁を取り壊してくださいました。私たちには、このイエスに導かれて、「善をもって悪に打ち勝った」数多くの先達たちの、そして多くの同時代人の足跡が見えています。その跡を辿ることは、私たちにも可能だと思います。

1948年から1990年まで、43年間続いた南アフリカ共和国のアパルトヘイト-人種隔離政策が撤廃されたあと、1994年に「真実と和解委員会」が設立されました。そしてこの委員会を通して、人々は苦痛、悲しみ、怒りを表明する機会を持つことができました。夫や子どもを手にかけた相手と向き合い、愛する家族がどのように亡くなっていったのか、拷問や死の恐怖がどのようなものだったのかを、「真実と和解委員会」でのやり取りを通して知ることができたのです。これは被害者にとっても、また罪の意識にさいなまれる加害者にとっても、身を切られるような体験でした。しかしそれは憎しみと憤り、自責の念でいっぱいの自己を浄化する作業でもありました。真実を知って、夫や子どもを手にかけた相手を赦し、悔いる相手と和解し、互いに受け入れ合うことのできる未来へ向けて道を切り拓くことができたのです。人類はこのような道を歩むこともできることを彼らは証明しました。

ネルソン・マンデラ元大統領と共にこの活動の中心となったデズモンド・ツツ大主教の言葉に聴きましょう。
「そうです。私たちは恐怖と苦悩によって荒れ果てていました。しかし私たちはこの地の驚くべき人々に圧倒されてもきたのです。苦しめられ、『真実と和解委員会』に証言したほとんどの人々は、私たちを、そして世界を驚かせました。その精神の気高さと寛容さで、彼らは自分たちを苦しめた人々を赦す用意ができていたのです。彼らはこの新しい南アフリカという奇跡を可能にした人々なのです。世界中が注目し、驚嘆しています。彼らの赦しの申し出が明らかになり、そしてそのことによって他の人々が促されて赦しを乞うようになりますようにと、私たちは祈ります。その時こそ、この奇跡が完成するのです。」
これは今から19年前の言葉です。私たちも、この奇跡を完成させることができることを信じて、主にある平和を固く保つ信仰を示しつつ、日々の課題と取り組んでいきたいと思います。祈りましょう。

「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」
神さま、今日も変わることなく、新しい朝、新しい光、空気、新しい命を与えてくださり、感謝します。私たちはどのような時にも、また私たちがどのような者であっても、あなたによって赦されて恵みのうちに今ここに生かされていることを覚えさせてください。そして私たちがその恵みに向けて生きることができますよう、私たちに知恵と勇気を与えて導いてください。
困難の中にある小さくされた者に目を留め、必要な励ましと慰めとを与え、主にある希望を持って生かされる道を備えてください。
私たちの命の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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