牧師メッセージ

「神さまの約束」

更新日: 2015.10.25

2015年9月27日(日)聖霊降臨節第19主日礼拝

アモス書6章1-7節 ヤコブの手紙2章1-9節

伝道師 汐碇直美

今日の礼拝主題は「世の富」となっています。昔、よく歌っていた「大いなる方に」というワーシップソングの歌詞の中に、次のような言葉がありました。「今、弱い者よ、叫べ、勇士だと。勝利の主が共におられる。今、貧しい者よ、叫べ、富んでいると。恵みの主が共におられる。」キリスト教文化の中で生まれ育ってこなかった私にとって、この言葉はとても不思議な響きを持っていました。私はそれまで幸か不幸か、「貧しいということ」「富んでいる」ということの意味をさほど真剣に考えることがなかったように思います。それはそのようなことを考えずに済む環境に置かれていた、ということでもあると思います。けれども私はこの曲と出会ったことをきっかけに、本当の意味で豊かであり、富んでいるとはどういうことなのか、ということを考えさせられるようになりました。

今日の聖書のみ言葉を聞かれて、皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。人々を分け隔てしてはならないと説くヤコブの鋭い言葉を聞きながら、私は改めて、とてもどきりと、あるいはひやりとさせられるみ言葉だと感じていました。ヤコブの手紙は新約聖書の中でも読む機会がなかなかない書簡かと思いますが、この書簡は1世紀末か2世紀の初めごろ、パウロよりも後の時代に書かれたものだと考えられています。しかし著者が誰なのか、この手紙を受け取った人々は誰だったのかなど、詳しいことはほとんど分かっていません。ヤコブの手紙1章1節には「離散している十二部族の人たちに」と記されていますが、実際には異邦人たちの間に散らされている全てのキリスト者たちがこの書簡を読んでいたと思われます。

このようにヤコブ書が書かれた背景というのはあまり明確にはなっていないわけですが、ともかくこの書簡において、教会の中でキリスト者たちが、人々を分け隔てするあからさまな態度を取っていた、ということが問題とされていたようです。礼拝にやって来た未信者と思しき人々の内、お金持ちの人たちは入口に近い、その当時上座とされていた席に案内されるのに対し、明らかに貧しい生活をしていると思われる人々は立っているか、座っている人々の椅子の足元にもたれかかることしか許されていなかったというのです。それがあまりに当然となっていて、誰も疑問に思うことはなかったのでしょうか。その当時の教会に集まっていた人々の多くはおそらく貧しい人々であり、そこを訪れる裕福な人々は、社会的身分も高い人たちだと思われます。もしかしたら彼ら有力者たちが教会を保護してくれることも期待していたのかもしれません。いずれにせよ、教会の人々は彼らが裕福であるという外見を見ていて、その人自身を見ていたわけではありませんでした。それはもちろん、同じように礼拝を訪れたにも関わらず、座席を勧められることもなく立ったまま放置されている貧しい人たちに対しても同様だったのです。貧しくみすぼらしいその外見だけを見て、その人自身を見ようとしなかった、そのような当時のキリスト者の姿が見えてきます。

この手紙の著者はしかし、ただ貧しい人々を擁護しようとして、このように強く責める調子の手紙を記したわけではありませんでした。ヤコブはこう語っています。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者たちに約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」ここにははっきりと、世の中から見捨てられていた貧しい人たちをこそ、神さまが選び、神の国を受け継ぐ者としてくださったということが宣言されています。貧しい人たちが、神の国という他の何にも変えられない宝を受け継ぐ者とされ、本当の意味で豊かな者、富んでいる者とされたということ、これが神さまの約束です。これはもちろん経済的な意味での貧しさのみならず、財産や自分の能力等、頼るもの、拠るべきものを神さま以外に何も持たない、そのような貧しさをもやはり指しているのだと思われます。だからこそ神さまはその人々の信仰を増し加え、その何も持たない人々にみ国を継ぐ約束をされたのです。

キリスト者の模範とすべきは、目に映ることではなく心を見てくださる神さまです。しかしここに描かれているキリスト者たちは、富んでいる人たちのことも貧しい人たちのことも、どちらもその外側しか見ることができなかったようです。その人たち自身を見ることはできなかった。それによって分け隔て、つまりえこひいきをしてしまったのです。人の顔色をうかがい見てえこひいきをすること、そのようなことを神さまは決して喜ばれません。ヤコブは富んでいる人と貧しい人とを分け隔てした教会の人々に対し、「あなたがたは、貧しい人を辱めた。」と語っています。そして「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へと引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。」と、彼らがごまをすっている相手である裕福で権力を持っている人々は、彼らを時には容赦なく裁判所へと引き立て、あるいは神を冒涜するような人々であることを注意喚起しようとしています。けれどもここでヤコブは、富んでいる人たちを批判し、彼らのようであってはならないと言いながら、実は貧しい人を辱めた教会の人々こそが、神さまを冒涜しているのだと、そのように批判しているのです。

ここで弁護されている「貧しい人」にイエスさまを重ねて読むことができます。ナザレのイエスは家畜小屋の中で生まれてすぐに飼葉桶の中に寝かせられ、貧しい人、友なき人、罪人として差別され、社会の周縁に追いやられていた人々と出会い、彼らの友となって共に歩まれました。しかし世の人々はイエスさまを受け入れませんでした。イエスさまは人々から見捨てられ、辱められて、最後にはただ一人十字架に架けられました。けれども実はこの方こそが神の独り子イエス・キリストであり、私たちの罪を贖ってくださった方だったのです。分け隔てして貧しい人々を受け入れないということは、貧しさのただ中に身を置かれた主イエスをもう一度拒否するということであり、その主イエスを愛された神さまを拒否するということ、冒涜するということに他ならないのです。礼拝の中でどれだけ神さまを賛美し、神さまを信じますと言ったとしても、結局は神さまを否んでしまっている、そのような大きく矛盾した信仰者の姿がここに浮かび上がっています。そしてそれは、神さまの道を真剣に求めて礼拝へとやって来る求道者たちにとって大きな躓きとなることは想像に難くありません。

教会の歴史を見てみても、例えば教会の中では女性はかぶり物をかぶって発言をしてはいけないと当たり前のように信じられていた時代がありませした。奴隷制度がまだ生きていた時代には、主人と奴隷という身分があることに疑問を持たれないままに教会生活、信仰生活が営まれていました。人種差別の問題もそうです。このように見てみると、ヤコブの手紙において描かれている教会の問題と同様のことが、現代において教会生活を送っている私たちの間でもやはり時として問題となっていることがあるのではないか、決して他人事とは言えないのではないか、そのように感じさせられます。貧しい人々をあえて選んでみ国を受け継ぐ者とされた、この神さまの約束を台無しにし、福音を裏切っている、そのようなことが私たち自身には起こってはいないかと、自問自答してみる必要性を感じざるをえません。教会には全ての人が招かれている、と私たちは礼拝の中で繰り返し語り、また確認します。その言葉はいつの時代にも変わらない真実です。けれども、本当に私たちの群れはそのみ言葉を表しているでしょうか。知らず知らずの内に礼拝から、教会から排除してしまっている人たちがいるのではないか、はっきり排除しているわけではなくとも、なんとなく「いづらい」「いてはいけない」と思わせている人たちはいないだろうか。たとえば子どもたち。小さな赤ちゃん。心身に障がいを負っている人たち。孤独と絶望感にさいなまれている人。他者の暴力にさらされ、怯えている人。様々なつらい、人にはなかなか話すことのできない過去を抱えている人。挙げればきりがありませんが、神さまが招こうとしておられ、そして神さまの救いを、神さまの愛を心から必要としている人たちを私たちは本当に受け入れることができているのか、厳しくも、とても大切なことを問われているように感じます。

この後ご一緒に歌います賛美歌563番「ここに私はいます」も、そのような大切な気づきを与えてくれる賛美歌です。私は関西学院大学神学部に入学して初めてこの賛美歌を知ったのですが、最初に歌った時はとても大きな衝撃を受けました。「ここに私はいます、ホームレスの眠る街。ここに私はいます、凍える子の涙にも。あなたは?」ここで歌われている「私」、そして「あなた」とは誰なのだろう、と最初は疑問に思いました。色々な解釈をすることができる歌詞なのだと思いますが、今の私にとってはやはり、家を失った人や、凍えて涙をこぼしている子どもたちのただ中におられるイエスさまから問われている歌だと、そのように感じています。そして同時に、私たちが礼拝をささげている今この時にも、家と希望を失った人々、戦火の中で傷を負ったり、食べ物がないために亡くなっていっている大切な命があること、そのような現実の社会・世界の中で私たちは信仰生活を送っているのだということをまざまざと思い起こさせられるのです。

ヤコブの問いかけは非常に鋭く、厳しいものです。けれどもそれはやはり、彼らにもう一度神さまの約束に、神さまの福音に立ち返ってほしいと願う、その思いの強さゆえであるのです。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」ヤコブが彼らに思い出してほしいと切に願っている神さまの約束は、福音そのものであります。つまり、全ての人を招く神さまの愛を信じると口では言いながら、生き方をもってそれを証しすることができず、かえって人々の信頼を裏切ってしまう、そのような罪によって引き裂かれ、どうしようもなく分裂している他ならぬ私自身のために、そのような私たちの罪を赦すために、イエスさまが十字架に架かり、3日後に復活してくださったということです。この神さまの約束ともう一度出会い直す時、私たち自身が神さま以外には頼るべきものを何ひとつ持たない、貧しい者である、ということをはっきりと知らされるのです。そのことを徹底して思い知らされて初めて、この貧しい者にみ国を受け継ぐ約束をしてくださった、神さまの無償の、一方的な愛が、どれほどに尊く、高価な恵みであるのかということを私たちは悟ることができるのです。

牧会カウンセリングの授業で、牧会者の役目は人々を神さまの元へと連れていくことだと言われました。私たちが真の意味で神さまと出会う場所は、主イエスが私自身の罪のために十字架に架かられたところ、真っ暗で一筋の光も入らないどん底です。けれどもそこはイエスさまと私以外の誰も立ち入ることはできません。そこにはたった一人で立つしかないのです。その場所に向かうために、共に祈り励ましつつ途中までの道のりを同行すること、それが私たち牧会者に与えられた役目です。途中まで共に暗い道を下りていき、光の当たらない一番暗い場所で一人きりになり十字架の主イエスと出会うことができたなら、その人は新しい命を与えられて暗闇から解放され、私たちはまた共に救いを喜ぶことができるのです。先生が指摘しておられたのは、私たちはそのどん底まで行きつかない内に、神さまに出会い、悔い改めをした、救いを得たと勘違いしてしまっていることが多いのではないか、ということでした。本当の意味で孤独になって、その最も暗い谷の底でイエスさまに出会うなら、私たちは他の何にも変えることのできない救い、そして永遠の命という宝を、富を、神さまからいただくことになるのです。それが神さまの約束です。この約束を今度こそ、私たち自身の日々の生活、生き方、私たちの全生涯を通して証ししていきたいと心から願います。

最後に谷川俊太郎さんの「十二月」という詩をお読みして終わりたいと思います。

   おかねでかえないものを わたしにください
   てでさわれないものを わたしにください
   めにみえないものを わたしにください
   かみさま もしもあなたがいらっしゃるなら
   ほんとのきもちを わたしにください

   どんなにそれが くるしくても
   わたしがみんなと いきていけるように

神さま
他の誰も立ち入ることのできない、最も暗い場所であなたに出会い、あなたと向き合う勇気をください。あなたが私の心の奥深くを見つめておられるように、私たちも目に見えるものではなく、心によって人を、物事を、社会を見つめることができますように。
他に頼るべきものを持たない貧しい人たちに、あなたはみ国を受け継ぐ者とするという約束を与えてくださいました。その希望に生かされて、あなたが与えてくださった神の家族と共に、隣り人と共に、新しい一週間も歩んでいくことができますよう、私たちをお導きください。
私たちの尊い宝である主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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