「わが目の瞳に触れし者」
更新日: 2016.06.05
2015年12月24日 クリスマス・イヴ賛美礼拝
ゼカリヤ書2章10~17節,3章7~8節)
牧 師 野田和人
今年の聖夜賛美礼拝のテーマ聖句がそこから取られている旧約聖書のゼカリヤ書には、B.C.520年から518年までのわずか2年間に語られた預言が記されています。前半部の6章までで第一から第八までの幻が登場しますが、その幻によって、イスラエルの民がその70年前に捕囚・捕虜となって連れ去られた地、エルサレムから1,600km東方のバビロンからエルサレムへの帰還が成ることを預言しています。
ただこのゼカリヤの時代は、ペルシア王キュロスによってバビロニアがすでに滅ぼされていたことで、ゼカリヤの預言に先立つ20年前からすでにエルサレムへの帰還は始まっており、破壊され尽くしたエルサレム神殿の復興も近く、イスラエル再建へと力が注がれていた時でした。今日のプログラムの裏表紙の「~ゼカリヤ書の背景~」にある通りです。
しかしなお、「バビロンの娘となって(バビロンに)住み着いた者」がいました。捕囚・捕虜とは言え、50年に及ぶ大都市バビロンでの生活に慣れ、そこに留まる方が良いと考えた者たちも数多くいたのです。その彼らに向かって、「北の国(バビロン)から逃れよ」、「シオン(エルサレム)よ、逃げ去れ」とゼカリヤは主の言葉を取り次いだのでした。
ここで「逃れよ」、「逃げ去れ」とは、ただ単に逃げること、逃げ出すことを言っているのではありません。この言葉を命じられたのは主なる神ですから、「逃れよ」とは神の許へと立ち返ること以外の何ものでもありません。「確かに居心地は良いかも知れない。しかしそこはお前たちの居るところではない。お前たちはお前たちに触れた者のところに留まってはならない。お前たちに触れることは、わたしの目の瞳に触れたのと同じことなのだから」と、ご自分の民をあくまでも守り抜こうとされる神の意志、決意がここで告げられています。
旧約聖書の申命記(32:10)に「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」とあります。私たち人間の体の部分で、目以上に注意深く守られている部分はありません。目の防御は本能的で、一瞬のまばたきで達成されます。そのように、神がその民を守られるのは、まさに神の本性の一部であるということです。
けれどもこの契約の民は、そのように守られることを自らの力で勝ち取ったのではありませんでした。勝ち取るどころか全く逆でした。彼らは、実際はその神の無償の愛を蔑ろにしてその愛に背き、その神の戒めに従うことのなかったゆえに捕囚の民となり、敵の手によって打ち捨てられ、歴史から姿を消すことになったのでした。
新約聖書において使徒パウロは語ります。「罪が支払う報酬は死だ」と。この神の民は、一度ならず、繰り返し繰り返しその死を身に受けて当然でした。けれども神は、一度ならず、繰り返し繰り返し命じられるのです。「逃れよ、逃げ去れ、わが許へ帰れ」と。なぜなら、「お前たちに触れることは、わたしの目の瞳に触れるのと同じことなのだから」と。新約聖書のヨハネの黙示録の言葉(21:3~4)が響きます。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」
神さまはなぜご自分の民をこれほどまでに大切にされるのでしょうか。申命記(7:8)に「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、奴隷の家から救い出された」とあります。神がなぜご自分の民をこれほどまでに大切にされるのか。それはただただ神さまの御旨が、神さまのご計画が実現するためにということではないでしょうか。私たちが神の許へと立ち返るということです。そしてこのことが、新約聖書の民にとっては、神の愛の襲来としてのイエス-「若枝であるわが僕」の降誕の出来事だったのです。
なぜ彼らなのか、なぜあなたなのか、なぜ私なのか、私たちなのか、それは謎です。誰にもわかりません。ただはっきりしていることは、神さまの御旨は、神さまのご計画は、神ご自身のみによって完結するものではないということです。それは、彼らを通して、あなたを通して、私を通して、私たちを通して実現されるのです。野の羊飼いたちも、神の救いと平和は自分たちから始まるのだということを、飼い葉桶の幼子イエスに見たのでした。
そして誰も、また何ものもその実現を妨げることはできないのです。神さまは、たとい繰り返し繰り返し背きつつも、なお神の許へと立ち返ろうとする者を、ご自分の瞳のように必ず守ってくださるのですから。そのために神は来られて、私のただ中に住まわれるのです。キリストの降誕とそれに続く出来事は、これを証言するものとして私たちの前に開かれています。私たちもそこから、困難の中にも励ましと希望を得て、新たな主の年2016年の歩みを刻みたいと心から願います。
神さま、遠く離れていた私のところへ走り寄って私のただ中に住んでくださるあなたによって、私たちの心と体はあなたの平和へと開かれます。あなたが開き、守ってくださる平和の道を、すべての人々と共に進ませてください。主の御名によって祈ります。アーメン。