牧師メッセージ

「キリストの平和」

更新日: 2016.06.19

2016年3月5日 「キリストの平和」 /「兵庫革新懇」ニュースに寄せて

 昨年の11月、パリ同時多発テロで妻を亡くしたフランス人ジャーナリストの文章が共感を呼びましたが、それは彼の言葉が聖書に基づいたところから発せられたところにもその一因があったと私は思っています。

 「君たちは、神の名において無差別な殺戮をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。」‐「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)

 「君たちに憎しみという贈り物はあげない」というのは、私たちが創造主なる神の意志に従って互いの尊厳を決してゆるがせにしないことの意志表明です。この神が人となられたことに重きを置くのがキリスト教です。「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)「言」は神=イエス、「肉」は人間です。そして、この神が成られたものが私たち人間であったというところに、どのような小さな者、弱い者も同じ一人の人間としてその存在が、その尊厳が蔑ろにされてはならないことの根拠があります。

 『神戸市中央区革新懇 革新の旗を掲げて 30年のあゆみ』にある記念エッセー④の最後で、「ローマの平和(力の平和)」の対極にある「キリストの平和(主の平和)」について、それは「『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』とのイエスの言葉を実践することです」と記しましたが、この聖書の言葉を紹介します。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25:31~40)
 
 私たちが、飢え、渇き、旅をし、裸でおり、病気をし、牢にいる一人ひとりをはっきりと見るところから、私たちの主にある平和は造りあげられていきます。したがって、そこを見ないで進もうとする、相互不信の上に成り立っている今回の一連の「安全保障関連法案(戦争法案)」を初めとするあらゆる試みに、私たちはしっかりと抗っていかなければならないのだと強く感じています。正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する私たちは、戦争と武力の行使は、永久にこれを放棄しているのですから。

 クリスチャンホームに育った私が、26歳から41歳までを過ごしたブラジル・サンパウロから帰国して45歳の時に牧師になる道を選んだきっかけと、またその学びの中であらためて目を向けさせられたのも、人となられた神の、この眼差しでした。飢え、渇き、旅をし、裸でおり、病気をし、牢にいる、最も小さいものの一人を見てその一人に働きかけてくださる、私自身もそのうちの一人であることに気づかせてくださった主の眼差しでした。

 私は49歳の時から8年間、長崎の諫早教会で牧会を務め、2013年4月から神戸栄光教会牧師として仕え、もうすぐ4年目に入ります。今年の9月で創立130年を迎える神戸栄光教会は、ご存じのように1995年1月の大震災によって会堂が倒壊し、2004年に再建されて今日に至っています。震災は教会にとっても大きな試練でしたが、私たちは、再建へと向けた働きの中で、震災以前のかつての私たちの日常も、主によって与えられる慰めと平安、希望に向けて整えられていたことにあらためて気づかされました。

 これからも、聖書の言葉に聴くことを通して与えられる主の慰めと平安、希望を携えて、この神戸の地から主の平和を発信し、主の平和を体現するキリスト教会としての働きを、怠ることなく進めていきたいと願っています。

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