神戸栄光教会創立130年記念/クリスマス・イヴ賛美礼拝2016 メッセージ「荒れ野に道を備え」
更新日: 2017.01.28
2016年12月24日(土)
神戸栄光教会創立130年記念/クリスマス・イヴ賛美礼拝2016(ヘンデル作曲“メサイア”第一部演奏)
メッセージ「荒れ野に道を備え」 牧師 野田 和人
第二イザヤと呼ばれる預言者は、わたしたちの生活の中でのたいへん基本的な事柄からその使信を始めました。神さまの不在と臨在についてです。わたしたちは、この後のメサイアでも歌われるイザヤ書40章の冒頭の場面を通して、不在であった神さまが戻って来られるのを見ます。「見よ、あなたたちの神」、“Behold your God.”それは、最も暗い悲劇を最も深い祝福へと変える知らせでした。
預言者は、捕らわれの地バビロンで捕らわれの民とともにいました。町の堅牢な城壁の傍らで、はるかエルサレムを望みつつ。その間に横たわるいくつもの山を越え、いくつもの谷をくぐる険しく厳しい荒れ地の道のりを、エルサレムの主だった住民たちは絶望と恥辱を抱いて辿りました。それから50年、神さまがすべてを打ち壊され、無に帰された後に運ばれていった捕らわれの地で、預言者は神さまが天使たちに託された慰めの言葉を確かに聞いたのでした。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」-メサイアの始まりです。
神さまはその民を打ち壊されましたが、今、「慰めよ、わたしの民を」と語られます。民は罪の報いを受けましたが、そこで打ち捨てられたままでは終わりませんでした。預言者は、この「わたしの民」と呼ばれる神さまの声を、聞き逃しはしませんでした。にもかかわらず、それでも「わたしの民」と呼びかけてくださる幸いを、預言者は聞き逃しませんでした。神さまは「わたしたちの神」のままであられました。そして、回復の道が示されます。
それはわたしたちが、わたしたちに取り付いて離れない、わたしたちの傲慢や利己主義と敢然と手を切って、神さまへと立ち帰ることを通して示される、荒れ野に通る一本の平らで広い、真っすぐな道でした。預言者はこの回復の道が、にもかかわらず、それでも「わたしたちの神」のままであられた主なる神を通して与えられることを、目の当たりにしたのです。だから、「見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。」なのです。
主の力ある統治は、わたしたちの誇る「力」によってではなく、メサイア第一部第18楽章でも歌われるように、「羊飼いとして群れを養い、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」という仕方で示されます。そして、羊飼いであるこの導き手こそが、にもかかわらず、それでも「わたしの民よ」と呼びかけてくださるわたしたちの神が、わたしたちに遣わしてくださった幼子イエスであるということ、ここに新約時代の、そして現代のクリスマスの喜びがあります。
主は、荒れ野に通る一本の平らで広い、真っすぐな道を、すなわち平和の道を、イスラエルの残りの者やわたしたち、すなわち時代を貫いて全世界の民を、ふところに抱いて進んでいかれます。わたしたちも今、この幻を目の当たりにしています。わたしたちも今、このヴィジョンの中にいるのです。
祈りましょう。
わたしたちの悲しみと憤りを治めてくださる神さま、
主の年2016年の聖夜、
わたしたち世界の民の間に御子がもたらしてくださる受容と和解の志を、
わたしたちに新たに立てさせてください。
インマヌエルの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。