牧師メッセージ

総員修養会礼拝説教 「あなたはわたしを知っておられる」

更新日: 2017.02.26

神戸栄光教会2016年度総員修養会礼拝説教/2016年11月20日(日)
  「あなたはわたしを知っておられる」
詩編139編1~12節,ローマの信徒への手紙11章33~36節  牧師 野田和人

 「あなたの人生の中で最も重要なことは何ですか」と問われて、皆さんはどう答えられるでしょうか。
 家族、健康、……、様々な答えが思い浮かびます。では、一人のキリスト者として、またそのキリスト者が集められた教会として、「あなたの人生の中で最も重要なことは何ですか」と問われて、皆さんは、私たちはどう答えるでしょうか。
 
 この9月と10月に計4回行った今年の教養講座では、(日本キリスト教団 弘前教会他で牧師として仕えられた)竹内郁夫先生が著された『平和のための祈り―私たちの日々の祈り「主の祈り」に聴く―』をテキストにしてお話を進めました。その準備の中で私が参考にしたのが、スイス出身の神学者であり牧師でもあったヴァルター・リュティの『主の祈り 講解説教』(2013年:新教出版社)でした。リュティはその晩年、彼が80歳となった1981年(私がブラジルへ旅立った年ですが)、38人のスイスの著名人が「私の人生の中で最も重要なこと」というテーマの下に寄稿した自伝的エッセイの中で、「あなたの人生の中で最も重要なことは何か」という問いに対して、詩編139編の中にその答えを見出し、詩編90編1節にある「避け所」という一言でそれを要約しました。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ(避け所)」。
 彼は30歳の時、ドイツ国境のバーゼルの町にある新しく誕生した教会から招聘を受け、その引っ越し準備のさ中、彼が15歳の時に受けた堅信礼の証書に記された御言葉を見つけました。そこには次のように記されていました。「私たちには力はなく、私たちは何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません」(歴代誌下20:12)。15歳の時には教会の牧師が自分の無能をあげつらったのだと思い込んで屋根裏に放り込んでいた証書の御言葉を、30歳となった人生の節目にあらためて見た時、初めてその意味が分かったと伝えています。それは、自分自身から目を放し、神に目を向けることだったと。
 今日、後からお読みいただいたローマの信徒への手紙11章33節と35節で、使徒パウロはイザヤ書40章13節やヨブ記41章3節の反語を引用しながら、「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。―だれもいない」、「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。―だれもいない」と、私たちが神の定め、その道を究め尽くすことの不可能なことを訴えていますが、それは、詩編の詩人にとっては「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる」(詩編139:4)ということにも通じるものだと思います。
 今日ご一緒に交読し、また最初にお読みいただいた詩編139編第一部の二つの段落は、それぞれ「神の全知=すべてのことに通じる知恵」と、「神が遍くおられる=神の遍在」について述べられたもので、私たちの生を完全に取り巻いておられる主なる神への信頼の祈りとしてここに置かれています。リュティはここに自分の人生の中で最も大切なことを見出しました。
 
 「避け所」としての神です。
 
 「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」(139:7)、「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らしだす」(139:11)。これらの言葉は、詩人が、一体どうしたら神の支配を免れることができるのか、どのようにしてもその支配から逃れることが出来ないことを嘆いて詠んだものではもちろんありません。そうではなくて、これらの言葉は、苦悩の中にある、困難の中にある詩人が、神は自分を見捨てられたのではないか、神は自分をもはや見ておられないのではないかとの不安に陥った時、何度も頭をもたげてくるその不安、疑いと闘うために詩人が自問する、自らの心に問う、その問いとしてあるものです。神は自分を見捨てられたのかもしれないと思えるほどの苦しみと不安の中で、詩人は問うのです。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう」―「ああ、あなたは確かに、どのような時にもいつも私を捕まえていてくださる。私と共にいてくださる。あなたは私を究め、私を知っておられる。私の避け所」と。
 この「避け所」が、リュティがその最も困難な時代に行った講解説教と結びついています。彼は第二次世界大戦終結の直前から直後(1945年~46年)にかけて、15年間務めたバーゼルの教会を辞任する前に「ネヘミヤ記」と「主の祈り」の講解説教に取り組みました。ネヘミヤ記にはバビロン捕囚後のエルサレム再建の記事が記されています。

 リュティは、第二次世界大戦後、建物だけでなく、ヨーロッパの人たちを支えていた精神的・信仰的支柱が崩壊し、瓦礫と化した廃墟の中で、まずネヘミヤ記を通してもう一度神さまの御言葉を伝えることによって「御国を来らせたまえ」との信仰を新たにし、ヨーロッパの再生に向かおうとしました。彼がネヘミヤ記に続いて「主の祈り」の講解説教に取り組んだのは、この「主の祈り」にこそ、戦後の廃墟の中で人々が見失っていた主なる神の救いの意志=主の平和がはっきりと示されていたからだと思います。竹内郁夫先生が「主の祈り」を「平和のための祈り」と呼ばれたのも、同じような思いからではないでしょうか。
 
 「主の祈り」は自分のものではない祈りです。それは、私たちがこの祈りを教えてくださった十字架と復活の主イエス・キリストによって与えられたものに基づいて生きるところへと、主による救いと平和を証しするところへと私たちを動かしていく祈りです。
 「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らしだす」と語る詩人の不安と確信に対応するものとして、私たちには「主の祈り」が与えられていると言うことができるでしょう。私たちの心を不安から確信へと動かしていくものとして、私たちの避け所として「主の祈り」があるということです。私たちにこの避け所としての確信をもたらすために、神さまは私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。そして私たちはこの愛に応えようとして、「天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ」と共に祈り始めるのです。
 ここでの「御名」とは、私たちの救いに関する神さまご自身のお働きのことで、私たちが主によって新しく生かされている事実を決しておろそかにしてはならないよう、私たちを戒める祈りと言うことができるでしょう。「御国を来らせたまえ」は、キリストの勝利、主の平和の勝利。「御心を地にもなさせたまえ」は、キリストへの服従=従順を表すものと言ってよいでしょう。
 
 具体的な事柄については竹内郁夫先生のテキストを参考にしていただきたいのですが、総員修養会のテーマである「祈りPartⅡ~生活の中で~」ということでは、今年の教養講座でお話ししたことを少しお伝えしたいと思います。

 まず「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」。マタイによる福音書6章6節に「あなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」とあります。「戸を閉め」ということですが、当時のイスラエルの一般的な住宅には、鍵のかかる部屋は食糧室以外にはありませんでした。したがってここでのイエスさまの勧めは、実際に「物」はたいへん大切であることを私たちに伝えておられると理解することができます。そのような具体的な「場」へと主は祈り手を遣わして、そこで「あなたの父に祈りなさい」と教えられるのです。これは、神さまは私たちの平凡な日常の事柄の中にまで足を踏み入れてきてくださること、そしてそれを主イエス・キリストにおいてなされることを表しているもので、新約聖書の中心にあるものです。その主を信じる者に「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ることが許され、またそう祈るように命じられているということです。こんな風に祈ることもできるのではないでしょうか。
 
 「神さま、私たちにあなたからの賜物である衣食住や、そのほか私たちの生活に必要な物をお与えください。私たちに、あなたからの賜物である仕事、健康、自由、祖国をお与えください。私たちが、どのような時も心配することなく、私たちの隣人を通して、私たちの隣人となってくださった主イエス・キリストを通して、人間として尊厳ある扱いを受けることができるようにしてください。そしてすべてのことに感謝して、私たちを、受け、与える者としてください。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」。
 
 「我らの罪をも赦したまえ」のところでは次のようにお話ししました。「主の祈り」の中でも中心となるこの五番目の祈りと四番目の祈りは「そして」という言葉で繋がっています。この世界の根本的な問題は私たち人間が罪を犯しているというところにあり、そこからの神さまによる罪の赦しこそが私たち人間に助けを与えます。宗教改革は、ただ単にあれこれの物が足りないというのではなく、私たち人間の心に足りないものがあることの再発見と言ってよいでしょう。だから、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」に続いて、―そして―「我らの罪をも赦したまえ」と祈ることは大切なのです。糧と罪との間には特別な結びつきがあるということ、生活の糧を得るための闘いや、生活の糧をめぐる不安が、私たち人間が互いに対して罪を犯す原因にもなるということです。
 確かに私たちの心(魂)よりも胃(お腹)の方が大きな声で語ります。お腹が空けばお腹が鳴るのはすぐに聞こえるからです。けれども私たちは次のイエスさまの言葉を決して忘れてはなりません。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。神さまの口を通して語られる最も重要な言葉が、この「赦し」です。そして神さまはご自身の贖いの供え物としての主イエス・キリストを通して、私たちにすでに罪の赦しを与えてくださったということも大切です。赦しは赦しを与えるためにもあります。私たちは、受け取った赦しを他の人たちにも手渡すことが求められています。教会とは、この祈りを実践する者たちの集まりであるというところに、私たちは絶えず立ち返る必要があるのです。
 
 そして「我らをこころみにあわせず」。「こころみ」を誘惑ではなく試練と捉える場合は、試練に押しつぶされないように、私を壊してしまうような試練から私を助け出してくださいということになるでしょう。ただ「こころみ」を誘惑ととっても、この祈りは、「私たちがあなたの恵みの内に置かれていることに目を向け、満足させてください」との意味を持つと同時に、「悪より救い出したまえ」との祈りと併せて、絶望的な状況にあるすべての人々のための執り成しの祈りとなります。
 
 私たちは、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26:41)とのゲツセマネでの主イエスの言葉を真剣に受け取る者でありたいと思います。「心は燃えても、肉体は弱い」私たちのために十字架に架かられた主イエスを。「主の祈り」が心を静める美しい響きで終わっていないのには意味があるのです。そこにこそ私たちの「避け所」があるからです。
 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の8章2~3節で次のように語りました。「もし人が自分は何か知っていると思うなら、その人は知らなければならないことをまだ知っていません。しかし人が神を愛するなら、その人は神に知られています」。ここで「人が神を愛するなら」は、「人が神を避け所とするなら」と言い替えることができます。そのために、私たちに「主の祈り」が与えられているのです。
 
 最後に、もう一度リュティの言葉に聴きましょう。

「私は神の御前から逃れることができませんでした。けれども私の人生の中にも一つだけ、神は逃れることのできる場所を与えてくださいました。『主よ、あなたは代々に私たちの避け所』。昔も今もこれからも、私の人生の中で最も重要なことはこのことです」。

 祈りましょう。
 神さま、私たちにもこの言葉を繰り返させてください。
 昔も今もこれからも、私の人生の中で最も重要なことはこのことです。
 「主よ、あなたは代々に私たちの避け所」。
  主の御名によって祈ります。 アーメン。

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