牧師メッセージ

「わたしは主を見ました」

更新日: 2017.05.26

2017年イースター礼拝説教

イザヤ書12:1~6,ヨハネによる福音書20:11~18

牧 師  野田和人

 

今から6年前に起こった東日本大震災から1ヵ月ほど経った頃、実は6年前のちょうど今日、4月16日、私はブラジル・サンパウロの、エルザさん(野田牧師お連れ合い)と二人でサンパウロに帰るといつも行く靴屋さんで靴を買っていました。Sabino’sというその店の主人は私がどの靴にするかを決めた頃、「日本はどうだ」と聞いてきました。私の答えは一言「悪い」でした。彼はその答えを聞いて「私も心を痛めている。本当に張り裂けそうだ」と自分の心臓を叩きながら答えてくれました。そして次のように続けました。「けれども日本はそこに生きて住んでいる人たちの忍耐と志で必ず復興するだろう。時間はかかるだろうけれども、私も、私たちもどのような支援も惜しまない」と。こんな風に言ってくれるのは靴をたくさん買ったこともあるのかなと一瞬思いましたが、ブラジル人らしい、親密で率直な励ましに心から感謝しました。

「忍耐と志」か‐そうだなあと思いました。今日はこの地上のすべてのキリスト教会で、宮古教会や新生釜石教会を始めとする東北の教会でも復活祭の礼拝がささげられています。それぞれ目の前の事情は違うにせよ、見つめているところは、マグダラのマリアがイエスさまの弟子たちの所へ行って「わたしは主を見ました」と告げることができた、その告白を支えた忍耐と志とを通して、新たな命に生かされる希望ではないかと思うのです。

マグダラのマリアは「わたしは主を見ました」と主イエスの弟子たちの所へ行って告げた後、主から言われたことを伝えました。一体どのように「主を見た」のでしょうか。マリアはこの時までに3度「主がどこに置かれているのかわかりません」と繰り返しています。主イエスの十字架の死から3日目の朝、彼女自身は、主の遺体のみならず主ご自身を見失ったまま、まさに受難の真ただ中にいました。その悲しみと絶望の淵から転じて、「わたしは主を見ました」という心からの喜びの証言が語られる‐これがヨハネによる福音書が私たちに伝えている復活の物語です。

少し思い出してみましょう。ヨハネによる福音書は1章の最後の所で、洗礼者ヨハネの弟子たちとイエスさまとの最初の出会いを物語っていました。そこでイエスさまは後についてくる彼らを振り返って「来て、見なさい」と語りかけられました。彼らはイエスさまの所に来て、見て、留まって、主イエスと出会います。この「わたしは主と出会った」という証言の連鎖がこの福音書を形作っています。その最後の所に位置するのが復活の証言となっているわけですから、やはりここに、この復活に私たちが主イエスと出会うための鍵があるのだということを、福音書記者は私たち読者に知らせようとしているのだと思います。

1章の最後の所でイエスさまは次のように語っていました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。イエスさまが引用されたのは、創世記28章、ヤコブが兄のエサウのところから逃げて行く途中、石を枕に野宿していた時に見た夢の話です。ヤコブはその夢から覚めて次のように言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家だ。そうだ、ここは天の門だ」。ヤコブが「まことに主がここにおられる」と語った、そして主イエスが言われた「人の子が天と地とを繋ぐことになるのをあなたがたは見ることになる」との約束の言葉の成就として、私たちは復活の主とマリアとの邂逅を見ることができます。

マグダラのマリアは主イエスによって「7つの悪霊を追い出していただいた」女です。おそらく重い病を患い、また様々な人間関係の中で傷つき、苦しみ、悲しみの極みを味わってきたであろう彼女が、主イエスによって癒され、束縛から解放され、安らぎを得て新たな交わりに生きる者とされたのですから、その主に従い、仕えることは、彼女の人生の、生きがいのすべてであっただろうことは容易に察しがつきます。その主が十字架上で殺されたのです。強い衝撃と深い悲しみが彼女を襲いました。せめてご遺体のそばにでもいようと、週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに墓へと出かけると、墓を塞いでいた石が取りのけられ、中には遺体がありません。「ああ、誰かが取り去ってしまった」、絶望的な喪失感が襲ってきます。2人の弟子は空の墓を見て家に帰ってしまいましたが、マリアはそこに留まって泣き続けました。

ところがそのマリアの背後から、全く逆の方向から主が呼びかけられたのです。「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と。マリアはご自分のすべてを賭けて彼女を悪霊の支配から救い出してくださった、自分の存在のすべてをそこに負っている主イエスに執着していました。だからこそ墓穴の方向を見つめていました。何とか手厚く葬りたいと。けれども主は、マリアがこだわった死とは逆の方向から呼びかけられました。「マリア」と。ここで「羊はその声を聞き分け」ました。彼女は振り向いて、方向を転じて、命へと向かって、「ラボニ(先生)」と応えました。十字架に死んだナザレのイエスとの再会です。彼女は驚きと、しかし喜びの余り主イエスにすがりついたに違いありません。けれども彼女の主は単に視覚的、経験的に生き返った主ではなく、私たちに永遠の命を得させる復活の主でもありました。マリアには彼女が今向かっている、死とは逆の向きにある命のありようがすぐには分かりませんでした。

しかし、今ここにおられる復活の主は、その父の下に挙げられることを通して、すなわち神ご自身が命を与え尽くされることを通して、私たちすべてに永遠の命を得させてくださる方であるということ、このことをマリアはこの後主によって彼女に与えられる新しい使命を通してわかったのではないでしょうか。

永遠の命とは、例えばイエスさまがこれまでに地上で顕わされた数々のしるしが示すような、最も弱い者を生かす命と言ってもいいでしょう。この命をすべての者に得させるために復活の主は父の下へと挙げられる、このことをヨハネによる福音書は「十字架の死は栄光である、勝利である」と語るのです。

マリアの新しい使命は、この復活の主イエスの使信を告げ知らせる証言者として新たに立つことでした。最も深く恵みによって生かされたマリアは、それゆえ最も深い恵みの証言者として、主イエスの復活と、それと共に復活させられた、新たに生かされた自分自身をも証しする者として立てられました。「羊はその主人の声を、もう一度、忍耐と志をもって聞き分け」ました。「わたしは主を見ました」と。

そして「私も主を見た」のです。この言葉に含まれる新しい命に生かされる希望を、忍耐と志をもって、今困難のただ中にある人たちと共に繋いでいきたいと心から願います。ご一緒に唱和しましょう。「私も主を見ました」-「私も主を見ました」。

主の復活、ハレルヤ!

 

主に向かって私は歌います。「主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」(イザヤ12:2)。モーセから使徒たちへ、そして代々の信仰者たちへと連綿と受け継がれている信仰の核心に立って、私たちが主の平和の器として働くことができますよう、私たち一人ひとりを導いてください。

主イエス・キリスト、私たちの光、あなたの光に私たちは世の光を見ます。復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

page top