2017年総員修養会説教「キリストにおいて一つ」
更新日: 2018.02.21
2017年度 総員修養会 礼拝説教「キリストにおいて一つ」 牧師:野田和人
聖書:エフェソの信徒への手紙2章14‐22節,ヨハネによる福音書4章7‐15節2017.11.19
私たちは先週に、教会員のご子息、東京・世田谷の代田教会員のS.Yさんを主のみもとへとお送りし、昨日は私たちの信仰の友であった愛するY.Hさんを天へと送り、明日は長年この神戸栄光教会のために尽くしてくださった私たちの信仰の友、敬愛するS.Hさんを天へと送ろうとしています。天には三人を増しても、地上では悲しく辛い思いでいっぱいです。
旧約聖書のヨブ記では、神の手に触れられ、神によってその骨と肉を打たれる前に自らの財産と家族のすべてを失ったヨブが次のように語ります。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ1:21)。この言葉は、当事者以外の者が口にすることは決してできない、確かな真理を見通した重い言葉ですけれども、ある意味ヨブのプライドと言ってもいいものでしょう。
その後、そのプライドがずたずたに打ち砕かれた後、ヨブ記の最後でヨブは次のように語ります。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:5‐6)。こちらのヨブの方が私にはよく分かる気がするのですが、ヨブは神が御心に留められるとはどういうことなのかをこのところで初めて理解したのだと思います。
ノアの洪水の物語では、「しかし、ノアは主の好意を得た」(創6:8)とあり、カインの物語では、「主はアベルとその献げ物に目を留められた」(創4:4)とあります。そうなのです。ヨブは「恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れんでくださる」(出33:19)神をここでやっと理解したのでした。その時、ヨブにはもはや「自分を退け、悔い改める」他はなかったのだと思うのです。そして、私たち新約時代を生きる者たちはこのことを、「恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れんでくださる」神と私たちが出会う時、私たちにはもはや「自分を退け、悔い改める」他はないことを、主イエス・キリストの出来事を通して知らされたのではなかったでしょうか。
カインが伏せて上げることのできなかった顔を、私たちは主イエス・キリストゆえに上げることができるのです。主イエス・キリストを私たちのために十字架に架けられ、そしてそこから甦らせられるという、慈しみたい者を慈しんでくださる神さまの意志を受けて、私たちは自分を退け、悔い改め、死から命へと移されたのです。
私たち一人ひとりが、このようにして神さまとの和解に入れられているのだという信仰に堅く立ち、この信仰を通してお互いの間の和解へと結びつけられていくことこそが、教会形成にとって何よりも大切なのだと思っています。そしてこのことを使徒パウロは「実に、キリストは私たちの平和であります」(エフェ2:14)の一言で言い表したのでした。
「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、…」と続いていく言葉の中での「私たち」とは、この手紙が書かれた当時のユダヤ人と、ユダヤ人以外の他民族の人たち、異邦人のことです。自分たちは神の近くにいると考えているユダヤ人にも、あの者たちは神から遠く離れていると考えられている、また自分でもそう思い込んでいる異邦人にも、そこにはユダヤ人からは異教徒と考えられていたサマリアの女も含まれますが、とにかく彼らすべてにキリストは平和の福音を告げ知らせられたのでした。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされる」(エフェ2:16)ことによってです。
ここには「和解」ということについて二つの大切な事柄が示されています。まず「神さまとの和解」‐ユダヤ人も異邦人も十字架の主イエス・キリストを通してそれぞれが神さまとの和解/平和へと導き入れられたということ。そして「お互いの間の和解」‐以前は激しい民族主義や宗教上の様々な要求、そしてプライドによって互いを隔てて反目し貶め合っていた者同士が、今は十字架の主イエス・キリストによってそれぞれが神さまとの和解へと導き入れられたことで、そこに神さまとの平和を得た者同士の結びつきが生みだされて一つになったということです。キリストはこうして十字架を通して私たちに、私たちが神さまへと至る道を開いてくださると同時に、私たちが私たちの姉妹兄弟/パートナーへと至る一つの道を開いてくださったのでした。
主の十字架とは、主イエス・キリストが私たちの自我の底深い闇にまで降りて来てくださって、主の献身によってその闇に光を与えてくださった出来事です。私たちはそのようにして、以前は遠く離れていた神さまとの、そして私たちの隣人との和解の下に結びつけられて、「もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」(エフェ2:19)となったのです。それは「主イエス・キリストをかなめ石/土台とする家であり、聖霊の働きによって、あなたがたと共に神の住みたもう家なのだ」(エフェ2:20‐22)とパウロは告げます。そしてヘブライ人への手紙の著者も、この「確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、私たちこそ神の家なのです」(ヘブ3:6)と語るのです。
神戸栄光教会ではこれまで毎年総員修養会を行ってきていますが、8年前の総員修養会のテーマが『神の家族』でした。「支え合う教会を目指して」という副題で、テーマ聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ロマ12:15)でした。今年の総員修養会のテーマは『教会、神の家族-私たちの教会形成-』ですが、8年前と比べて新しい点は、「神の家族」のあとに「私たちの教会形成」が挙げられているところです。ただ、私たちがこのテーマに沿って考える内容そのものは何も変わらないと思います。
8年前のテーマに沿った具体的な聖句は、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」(ロマ12:13)でした。今回、私が教会形成のための根本にあると考えている聖句は、総員修養会に向けて準備された今年の教養講座でも取り上げ、次年度からの教会標語として考えている、マタイによる福音書25章40節の言葉です。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
ここで「する」と言うのは、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねる」(マタイ25:35‐36)ことです。この主の執り成しの働きを、主に信頼し、聖霊の慰めを受けて、過去から現在、将来へと私たちが継続していくところに教会は自ずと形づくられてくると考えています。
この執り成しの働きが教会の働きの中でどのように生かされてきたのかについて、教養講座では組会活動や教会学校の働き、教会生活への復帰や終活などについて話し合いました。今回話題には上りませんでしたが、献金も大切です。このあとの発題や分団協議を通して、あらためて、この神戸の地に開かれて立てられている、愛する私たちの家族である神戸栄光教会の働き、あり方について、皆さんそれぞれが思いを深めていただきたいと心から願っています。祈りましょう。
神さま、昨日は私たちの信仰の大先輩であられる日野原重明先生を偲んで「日野原重明先生を偲ぶ会」を当教会で開き、100人を超す方々と共に重明先生を覚えることができました。心より感謝いたします。私は、重明先生と神戸栄光教会との関係では讃美歌「きよしこの夜」との結びつきが強かったことをお話しし、普段は歌うことのない第4節の日本語の歌詞を紹介しました。
「静かな夜 聖なる夜 今夜 父の愛の すべての力を注いで
私たちすべてを兄弟として恵み深く イエスは世界の民を抱きしめる」
重明先生が、その105年に及ぶ人生を通して私たちに示してくださった主の平和に生きる道を、私たちがしっかりと受け継いでいくことができますよう、教会はそのために内外に向けて立てられていることを、思いと行いとをもって私たちが表していくことができますよう、私たち一人ひとりを力づけ、導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。