牧師メッセージ

2018年ペンテコステ礼拝メッセージ「うろたえてはならない」

更新日: 2018.06.02

「うろたえてはならない」(使徒言行録2111節、ヨシュア記119節)

2018520日(日)ペンテコステ礼拝説教 神戸栄光教会牧師 野田和人

 

 神戸栄光教会では、2013年のペンテコステ以来、主日礼拝の中で「この風を止めることはできない」との祈りをご一緒にささげています。私たちの生きている世界が、私たちが歴史から少しずつ学びとってきた和解と受容よりも、対立と自己中心へとその歩みを押し戻そうとしているまさにこの時、「この風は真理の風、この炎は愛の炎、風は吹くことをやめず、炎は燃え続ける、誰も止めることも消すこともできない」と皆さんと再び声を合わせることは、キリストの体なる教会に繋がっている者としての証です。冷笑と絶望と嘲笑、無関心と不安と不信仰を私たちから遠ざけてくださる「真理の風、愛の炎」である聖霊が、今私たちを取り囲んで生きて働いていてくださる‐この確信とともにキリストの教会は誕生しました。それがペンテコステ‐聖霊降臨祭です。

 「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」今日は五ヵ国語でお読みしましたが、私が15年間暮らしたブラジルのポルトガル語ではこうです。“Todos ficaram cheios do Espirito Santo, e passaram a falar em outras linguas, segundo o Espirito lhes concedia que falassem.”「ほかの国々の言葉で」‐これについては「異言」‐誰にも理解できない、日常言語とは異なる言葉なのか、それとも「多言」‐いろいろな国の言葉なのかという議論がありますが、6節に「だれもかれも自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて」とあるところから「多言の奇跡」と理解することができます。皆さんはどうでしょうか。「天下のあらゆる国からエルサレムに帰ってきた信心深いユダヤ人たち」、彼らは巡礼者ではなく、天下のあらゆる国へ散らされていったディアスポラの信心深いユダヤ人たちで、父祖の国へ戻ってきて今はエルサレムに住んでいるユダヤ人たちですが、彼らが自分たちの生まれ故郷の言葉を聞いている、聞かされている感覚が少しはお分かりになったでしょうか。そして彼ら信心深いユダヤ人たちは、イエスさまの弟子たちをはじめ120人ほどのガリラヤの人たちが自分たちの生まれ故郷の言葉で‐自分たちに分かる言葉で話しているその内容をもちろん理解したのでした。全世界が様々な言葉で神さまを賛美する、最初のペンテコステ礼拝と言っていいでしょう。

 イエスさまの弟子たちとは、かつて「この中で誰が一番偉いか」と言い争った弟子たちのことです。そして信心深いユダヤ人から見れば、無学で素朴な、預言者がそこから出るものではない異邦人のガリラヤと蔑まれた地からやって来た人たちを代表する者たちのことです。その彼らが今は「一つになって集まっていた」とあります。これは彼ら弟子たちが、イエスさまの復活から40日後の主の昇天の後、かつてイエスさまに聞かされていた「父の約束されたもの‐高い所からの力」を待ち望んで、イエスさまの憐れみの下で赦し赦され合うことを通して、ただひたすら祈ることへと導かれていたことを示している言葉です。彼ら一人ひとりが聖霊の力に覆われることを求めて、渇きを覚えて一つになって祈り、待ち望んでいた五旬祭の日が満ちて、彼らの渇きは潤されたのでした。一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話しだしました。霊が語らせるままに。

 信心深いユダヤ人から見れば無学で素朴な、神の偉大な業を語るための舌を持っていなかった人たちが今語り始めた、その彼らの話す言葉を天下のあらゆる国からエルサレムに帰ってきたディアスポラのユダヤ人たちすべてが理解しました。そこで、いろいろな国の言葉で何が語られたのかと言うと、「神の偉大な業」というただ一つの言葉だったというわけです。では「神の偉大な業」とは何でしょう。それは、主イエス・キリストの十字架と復活による私たちの救い以外のことではありません。このただ一つの言葉をその場にいたすべての人が理解したということは、このただ一つの言葉が、様々な国の様々な立場にある一人ひとりの心に今刻み込まれたということです。   

 「霊が語らせるままに」というのは、ほんの二ヵ月前には、真夜中、大祭司カイアファの屋敷の中庭で「この人もイエスという人と一緒にいた」と女中らに問い詰められて、「私はその人を知らない」と三回打ち消したペトロが、今は声を張り上げて「私はあの人を知っている」と大胆に語り始めたことを意味しています。ペトロは語りました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またキリストとして立てた。悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦され、聖霊を受けよ」と。このただ一つの言葉が様々な国の様々な立場にある一人ひとりの心に刻み込まれて、新しい信じる群れとしての教会が起こされていきました。ガラテヤ220の使徒パウロの言葉が響きます。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」

 主イエス・キリストの十字架において示された赦しと憐れみ、そして復活の希望と新生の「霊」の約束、これらは私たち教会を主イエスに「固く留める」ものです。聖霊は、私たち教会が主イエスに留まること、イエスさまから逃げ出さないことへと私たちを導いてくださいます。だからこそ私たちは「この風は真理の風、この炎は愛の炎、風は吹くことをやめず、炎は燃え続ける、誰も止めることも消すこともできない」と今日宣言することができるのです。「うろたえてはならない。おののいてはならない。」(ヨシュア19)うろたえることなく、おののくことなく、私たちに与えられている恵みに固く留まりつつ、聖餐の喜びに与りましょう。

 

 神さま、あなたは「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(ゼカリヤ46)と言われます。あなたの霊は、私に分かる言葉と同じように、私には分からない言葉の一つひとつにも働きかけてくださって、それぞれの言葉に聴く者たちを同じ風のなかに包んでくださいます。歴史から学ぶことなく、対立と排除へと向かおうとする現代の私たちを、互いに赦し合い受け入れ合うことへと、主にある和解と一致へと引き戻してくださいますよう心より願います。私たちにどうか最良の平和の実を結ばせてください。困難の中にあるすべての友を顧み、必要な助けと慰め、励ましを与え、聖霊の導きによって主の平安に生きる者としてください。私たちの愛の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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