牧師メッセージ

2019年 降誕節第3主日 青年礼拝説教「信じてみよう。」

更新日: 2019.02.05

2019年 降誕節第3主日 青年礼拝説教「信じてみよう。」

(出エジプト記18章13~27節、ルカによる福音書5章1~11節) 牧師 野田和人


今日与えられた新約聖書個所を読んで思い出す言葉があります。特にイエスさまがシモンに命じられて湖へと漕ぎ出させた舟から群衆に向けて語られていた話を終えて、同乗のシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたところで。そこで思い出すのは「神は決してこの状態をそのままに放ってはおかれない」という言葉です。

私は、2018年の11月に妻のエルザさんと一緒にブラジルに帰った際、3年前(2016年10月)にこの神戸栄光教会の創立130年を記念する事業の一つとしてお招きした、ランバス先生も赴かれたブラジルで宣教活動をしておられる小井沼眞樹子先生をブラジル最初の首都であるサルバドールの教会にお尋ねしました。70歳を迎えられましたが、たいへん精力的に活動しておられます。その眞樹子先生を3年前にこの教会にお招きする前の事前準備として皆さんとご一緒に鑑賞したのが、小井沼牧師ご夫妻もそこに登場しておられる『生きている聖書の世界-ブラジルの大地と人に学ぶ』というビデオでした。そのビデオで、ブラジルのアマゾン奥地に新たに建設された砂埃の舞う「神の都」と呼ばれる町の小さな木造の教会の中で、日本人のイエズス会士、堀江節郎神父がそこに集まった人たちを前にして語っていた言葉が「神は決してこの状態をそのままに放ってはおかれない」との言葉だったのです。「貧しい者は貧しいままです。けれどもそれは決して神の望んでおられることではありません。神は決してこの状態を放ってはおかれません」。

ゲネサレト湖上でイエスさまがシモン・ペトロにかけた言葉は、この「放ってはおかれない」ということを如実に示すものではないかと思うのです。それは、今回訪れたサルバドールのヴァレリオ・シルヴァ合同長老教会での、ヨナ書を通して語られた「神さまの救いの計画は必ず実現する」とのダゴベルト・ペレイラ牧師の力強い説教でも感じたものでした。

今日お読みしたところはマタイとマルコにも並行箇所があるところですが、ルカはマルコやマタイとは違って、シモン・ペトロが最初の弟子として招かれる直前の湖での出来事、イエスさまと漁師たちとのやり取りを詳しく記しています。そこには、神の言葉を聞こうとしてみ言葉を求めて押し迫る群衆と、一方では夜通しの厳しい漁の後、一匹も魚が捕れずに疲れ切って網を洗っている、自分の周りの状況には何の関心も示さないでいるシモンら漁師たちの姿が対照的に描かれています。

シモンは、自分の家に入って来られて自分の姑を癒してくださったイエスさまをもちろん知ってはいました。そしてそのイエスさまに協力して舟を提供し、イエスさまが群衆に向けて話しておられる間もその船を操り、奉仕をしています。けれども彼自身はそのイエスさまの言葉の中にはいませんでした。イエスさまの言葉に捕らえられてはいませんでした。神の言葉をその直下で聞きながらも漁の不振に疲れ果て、今ここにある恵みとは全く無関係に行動していました。実はこれは私たちの状況でもあるのではないでしょうか。それは、シモン・ペトロの人生、私の人生という小さな物語が、同じ舟に乗っているイエスさまの物語、神さまの救いを告げる大きな物語の外に置かれている状態といえるでしょう。

けれども神はこの状態をお許しにはならない、この状態をそのまま放ってはおかれない。ペトロの、そして私の人生の、私たち人間の小さな物語を何とかして神の救いの物語へと結びつけようとなさる。神さまがイニシアティブ、主導権を持っておられるのです。そこでイエスさまの言葉がペトロに向けて、私にも向けて臨むのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。イエスさまの方から近づいて来られます。

熟練の漁師たちが夜通し漁をしても何の収穫もなく、ただ空しく網を洗っていました。そこでイエスさまはそのうちの一人に協力を頼んで湖へ舟を出してもらい水上から群衆に語りかけられましたが、舟を操る当の本人はいっこうにその話を聴く気配がありません。それは自分とは全く関係のない話だと。けれどもそのような思いを見据えて、その思いを超えてイエスさまの言葉が響くのです。「網を降ろしてみないか、漁をしよう」と。イエスさまの意識は初めからシモン・ペトロに集中していました。しかし彼の答えは「先生、私たちは夜通し苦労しましたが何も捕れませんでした」というものでした。当然の答えでしょう。けれどもこの後に言葉が続くのです。「しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と。私たちはこの言葉をどのように理解すればいいでしょうか。

ペトロはここでイエスさまの顔を立てたのでしょうか。確かに自分の目の前にいるイエスは自分の姑を癒し、その語る言葉を通して多くの人たちの耳目を集めてはいる。けれども漁に関してはこちらがプロだ。そのプライドや、そこから相手を揶揄する気持ちなどがない交ぜになってイエスさまの顔を一応立てた言葉なのでしょうか。そしてこのことに対して彼は後で「私は罪深い者なのです」と罪の告白をしたのでしょうか。

「しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」―これはやはり神さまのイニシアティブー主導性がペトロに言わせた言葉ではないかと思います。イエスさまの招きの言葉がシモン・ペトロをその気にさせたのです。「信じてみよう」と。神さまのイニシアティブの前にペトロの頑なさは折れました。砕かれました。そしてこの言葉を通して、彼の人生の小さな物語が神さまの救いの大きな物語へと繋がっていったのです。かつては神の物語の外にあったものが、その中に入れられていったのです。この後に続く大漁という出来事を通してそのことに気づかされた時、彼は初めて畏れるべきものが何であるかを知らされ、そのことが彼を罪の告白へと、悔い改めへと導いたのではないでしょうか。

この罪の告白に対して、イエスさまの味わい深い、慰めに満ちた言葉が与えられます。祝福といってもいいでしょう。「恐れることはない」。これは「あなたの罪は赦された」という言葉と同じ意味を持つ言葉です。「恐れることはないーあなたの罪は赦された」。この罪の赦しを通して人は初めて自律し、本当の使命へと招かれるのです。キリストの弟子として、人間をとる漁師へと。

物語は一旦ここで終わりますが、これとよく似た不漁と大漁のお話がヨハネによる福音書21章の最初のところに記されています。そして今日のルカによる福音書の「ペトロの召命」と呼ばれる出来事は、このヨハネ21:1~14の記事と併せて読まれてきた歴史があります。どうしてでしょうか。

ヨハネにおいては、この不漁・大漁の物語はイエスさまの復活の出来事の後に起こったことになっています。つまりペトロにとっては二度目なのです。よく似ているお話の中で最も違っているところは、ペトロはこの時、夜明けにガリラヤ湖の岸に立っておられたイエスさまを見ても「それがイエスだとは分からなかった」ことです。これは、彼が岸に立っておられるのが「ああ主だ」と分かった時、彼は今日のルカの箇所での最初の召命を思い起こしつつ、再び主の召しを受けたのだということを意味しています。彼はこの時までに数々の挫折や失敗を繰り返していましたが、今再び、最初の召命と同じガリラヤ湖畔での経験を通して、召命を受けて、今日のルカの箇所での最初の召命を本当に理解できたのではないでしょうか。

このことは私たちが神さまの召しを受け入れることの困難さを物語っています。しかしそれと同時に、神さまは私たちの愚かな行いにもかかわらず、またそれらを通しても、神ご自身の召しを忍耐強く貫かれることを示しています。だからこそ私たちは神さまのこのイニシアティブにすべてを委ねて何度でも「しかしお言葉ですから網を降ろしてみましょう」と、「信じてみよう」と語ることができるのです。

若い時にも、また年を重ねてからも、どのような時にも、特に困難な状況にある時にイエスさまから差し出される「網を降ろしてみないか、漁をしよう」との招きの言葉に、「網を降ろしてみましょう」、「信じてみよう」と応えていこうではありませんか。神は決してこの状態をこのままに放ってはおかれないのですから。

 

神さま、どうか私たちにあなたの招きに気づかせてください。羊の群れの羊のようにあなたの声を聴き分け、私の心の戸口に立って戸をたたくあなたのノックを、「網を降ろして漁をしなさい」とのあなたの招きを、モーセに導かれたイスラエルの隊長たちと同じように素直に受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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