「仕え、ささげるために」
更新日: 2014.05.25
2014年受難節第5主日礼拝
哀歌3:18~33 マルコによる福音書10:32~45
牧師 野田和人
受難節第4主日の礼拝テーマは、「主の変容」-イエスの姿が、ペトロと、今日も登場するヤコブ、ヨハネの三人の弟子の目の前で変わるということで、主日聖書日課はマルコ9:2~10が当てられていました。その3節のところ、「服は真っ白に輝き」という言葉は、主の変容が啓示-顕わし示す-啓示の物語であったことを示しています。何の啓示でしょうか。それはそのあと、真っ白に輝くイエスと共に現れたエリヤ、モーセと、三人の弟子たちを覆った雲の中から聞こえてきた声、「これはわたしの愛する子、これに聞け」との神の声を通して示されました。それは、今受難への歩みを進めている主イエスご自身が、神からのメッセージそのものであるということ、神の言葉であるということです。この声は、そのことを弟子たち、私たちが知ることのできるように、神の側から注意深く、辛抱強く、彼ら弟子たち、私たちに語りかけてくださった声でした。
私たちに向けて忍耐強く、注意深く語りかけてくださっているわけですから、私たちには、この愛する子、主イエスに辛抱強く、注意深く聴くことが求められます。そのための一つの方法として、私たちは礼拝の中で「説教」と呼ばれる御言葉の説き明かしを聞くために、今ここに集められています。神はその僕を通して語られます。そしてそれによって私たちは、私たち一人一人も、この主イエスを通して神の愛する子であるということを知らされるのです。
神の言葉を聴くもう一つの方法が、アウグスティヌスが「見える言葉」と呼んだ聖礼典・サクラメントによるもので、私たちプロテスタントでは洗礼と聖餐の二つです。聖礼典では、私たち一人一人が一体どのように神の愛する子であるのかについて、私たちは聴くべきことを見ることになります。聖餐は、私たちの主の生涯と苦しみへと私たちを引き入れる道です。パンとぶどう酒は告げ知らせます。神の言葉の受肉によって、神の子が人となられたことによって、一体どのようにして私たちの救いが成し遂げられたのかを。それは、裂かれた体と流された血によるものでした。これが、私たちが聴かなければならない言葉です。
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが問いかけられたのも、このことでした。「このわたしが飲む杯を飲むことができるか」。彼らは自信満々に答えました。「できます」と。
哀歌3:18以下は、絶望から希望への大きな転換を謳った箇所です。特に22~24節には、この詩人の信仰が端的に言い表されています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い」のところは、詩編16:5「主はわたしに与えられた分、私の杯。」に対応しています。詩人の絶望から希望への大きな転換のもとにあったのは、主が私の杯である、私の軛、私の苦しみを共に負ってくださる方であるという確信でした。
けれども、今日のマルコの箇所に登場するヤコブとヨハネには、この詩人の確信はありませんでした。彼らはただこの地上の栄光、支配という空腹を満たすものとして、「(あなたの飲む杯を飲むことが)できます」と答えたのではなかったでしょうか。こうして彼らは主イエスの飲む杯、地上の栄光、支配という空腹を満たすのではない、彼らを主の生涯と苦しみへと引き入れ、そこで彼らの軛、彼らの苦しみを共に負ってくださる主の杯を軽んじました。
今日のマルコの箇所は、この後11章のイエス一行のエルサレム入城から始まるイエスの受難物語に向けてのクライマックスの部分に当たります。というのも45節ではじめて、なぜメシア(キリスト)が苦しまなければならないのか、メシアが苦難を受ける理由が明かされるからです。それは、「多くの人-ここではすべての人と考えてよいところですが-すべての人の身代金として、ご自分の命を献げるため」でした。私たちがどうしても陥ってしまう罪、高ぶり、傲慢、無関心という罪の支配から私たちを解き放つ、自由にする、買い戻す、贖うためでした。この直前、彼らはイエスによる三度目の受難予告を受けますが、それら予告のすべては、彼らがイエスの死への備えをするためのものでした。けれども彼らはそれを理解しませんでした。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とのペトロに対するイエスの叱責や、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」-ただ先立ち行くキリストのみを見て、恐れず、十字架の主に固く結びついて-というイエスの教えにもかかわらず、まただれがいちばん偉いかという議論に対して、イエスが子供を例に出して叱責したにもかかわらず、そして、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」とイエスが教えられたにもかかわらず、そして最後に、この道行はイエスご自身の受難と死で終わるとイエスが三回に亘って予告したにもかかわらず、ヤコブとヨハネは今なお来るべき栄光、人の支配を夢見ていたのでした。
イスラエルの伝統では、杯は救いの喜びや力づけ、あるいは神の怒りなどを表していましたが、ここでイエスが「わたしの飲む杯」と言われる時、それを共に飲むことは、彼らを彼らの主の生涯と苦しみへと引き入れることでした。この後、イエスがゲツセマネで「父よ、この杯をわたしから取りのけてください」と死ぬばかりの悲しみの中で祈っておられた時、この二人とペトロらが眠っていたのを私たち読者は知っています。その彼らがここで大胆にも、あるいは傲慢にも「できます」と主張したのです。
けれどもイエスはここでは彼らを叱責しませんでした。「できます」との彼らの答えを受け入れ、御国での保障を求める彼らをそのまま受け入れ、しかし保障の約束はせずに、そこで彼らの歩むべき新たな道行を彼らにはっきりと指し示したのでした。それはイエスとヤコブ、ヨハネのやり取りを聞いていたほかの10人の弟子たちが二人のことで腹を立て始めた時、すなわち彼らの、私たちの貪欲さが頂点に達したところで示されました。
なぜメシアが苦難を受けなければならないのでしょうか。それはまず「仕える」ためでした。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」「あなたたちは私がこれだけ言ってもまだ栄誉や権力を得ようという野望を捨てていないようだが、あなたがたの間ではそうであってはならない。同じ野望を持つのならば『仕える』という野望を持ちなさい。それこそがこの世界の支配構造を逆転するものとなる。劣っているもの、役に立たないもの、弱いものを容赦なく切り捨てていく権力構造を逆転するものとなる。逆転するというよりも、仕えること、奉仕の業を果たすことにこそ、本来の権威がある。わずらわしさを遠ざけてはならない。最も小さいものの一人に為すことが、地上の支配を意味のないものにするのだ」と。
「仕える」という言葉は、聖餐にも通じる「食べ物や飲み物を提供する」という具体的な意味も持っています。そうだとすると、45節は「人の子は食事の席で仕えられるためではなく仕えるために、すなわち、ご自身が注がれた命という賜物を通してすべての人に栄養を与えるために、命の糧を与えるために来た」ということになります。そして「すべての人を罪の支配の網から解き放つための身代金として、贖いの献げものとしてこの世に来られた」ということになります。
メシアの受難と死は、すべての人のための身代金として支払われるものであり、それがイエスにとって「仕える」ということの究極的な形でした。仕えるということは、愛すること、もてなすことにも繋がりますが、それらはイエスにとっては、私たちの硬直した命を罪の中から買い戻して、また新たに弾力を与えて生かすという行為そのものでした。
「身代金」-それはこの無理解で貪欲な弟子たちの代わりに、あの横暴な権力者や民衆の代わりに、そしてこの私の代わりに、私たちに代わってご自分の命を差し出し、すべての者を、この私を、あなたを罪と死の闇から救い出してくださった、贖い出してくださったことを意味します。私たちの功績によってではなく、私たちの反抗、無知、過ち、そして愚かさにもかかわらず、イエスは私たちのために生き、そして死んでくださった。そのようにして、仕えること、愛すること、もてなすことの究極の形、姿を私たちに示してくださったのです。
イエスに従う一人がこのことを理解して、自らの手紙に次のように記しました。ヨハネの手紙一3:16以下です。「(主)は、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは(まことの)愛を知りました。(ですから)、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。……愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
今日のマルコによる福音書37節のヨハネ、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と語ったヨハネを通して、私たちはありのままの私たち自身を見ます。一方、手紙の方のヨハネは、私たちが主イエス・キリストに応答していく中で、どのような者になることができるのかを私たちに知らせてくれます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と。
私たちを、仕え、愛し、もてなすことへと導いてくださる、受難と死の杯から命の杯を飲むことへと至るよう導いてくださる、この受難節の主の歩みを覚えつつ、共に祈りましょう。
神さま、主はご自身の命を献げて、仕えること、すべての人の僕となることを私たちに示してくださいました。そしてそれはあなたの御心に適ったことでした。私にもその主の杯を飲ませてください。そして、困難の中で、苦しみ、痛みを覚えて歩む人と共に、その中から、あなたによって生かされる喜びを与えられ、あなたにある平安のうちを共に歩むことができますよう導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。