牧師メッセージ

2019年総員修養会説教「教友」

更新日: 2020.02.07

2019年度 総員修養会 礼拝説教「教友」 牧師:野田和人

聖書:申命記7章6‐11節,ヨハネによる福音書15章12‐15節     2019.09.29

この9月から創立134年目の宣教の歩みを始めている神戸栄光教会の特徴は何かと問われれば、皆さんはどう答えられるでしょうか。私はこちらに来て7年目ですが、私がこれまで関わってきた私の母教会である多度津教会や最初の学生時代の塚口教会、牧師として最初の赴任地である諫早教会との大きな違いは、やはりそれぞれの教会が持っている地域集会や家庭集会の役割を肩代わりしていると言っていい、神戸栄光教会の組会制度の充実という点にあると思います。

組会は、同じ主に結ばれて教会に集う者たちが、より緊密に親密に互いに助け合い支え合うといったメソジスト教会の伝統としてできあがってきたものですが、これはただ、教会員が何百人、何千人と多くて互いに目が行き届かないから、あるいは教職が教会員全員に目を行き届かせることが難しいからできあがってきたものではなく、たとえ教会の規模が小さくとも、教会が大切に守るべき礼拝の恵みをそこで分かち合い、そこからまた私たちが礼拝へと結集していくために欠くことのできない交わりだと思っています。もちろんこうした役割を担っている交わりは組会だけではないのですが、神戸栄光教会が伝統として大切に守り続けているこの組会の交わりを利用しない手はないということです。

使徒言行録2章44節以下に次のように記されています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」-毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた-どうでしょうか。私たちはこのようにしてはいないでしょうか。

そしてこの交わりの、教会が最も大切に守るべき礼拝の恵みをそこで分かち合い、そこからまた私たちが礼拝へと結集していくために欠くことのできないこの交わりの最も小さな単位として、やはり神戸栄光教会が大切に守り続けてきている教友制度があるのだと私は考えています。

神戸栄光教会の信徒の交わりには、組会や地域集会だけでなく、他にも「聖書の集い」や「聖書と祈りの会」、早天祈祷会や夕拝、榮寿会例会や「ベテスダ食事とリフレッシュの会」、コーヒーサービスやランチサービスなどがあり、それぞれが「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美する」役割を担っています。そしてこうした交わりのすべては「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参る」ことへと、すなわち礼拝へと繋がっています。しかしこうした交わりに参加しておられない方や、また参加したくとも、様々な事情で集会はおろか、礼拝にも出席できない方々が多くおられるのが現実です。栄光コイノス委員会でもできるだけそのような方々の情報を集約して、熱心に祈りつつ、教会と教会に連なるお一人おひとりとの交わりを保つ努力をしていますが、実際には、私たちの知らない所でそうした方々と「喜びと真心をもって一緒に食事をし、その場でひたすら心を一つにして神殿に参り神を賛美する」役目を果たしておられる方も多くおられるのだと思っています。そうした中で、神戸栄光教会が伝統として大切に守り続けている教友制度を利用しない手はないということです。

制度としての教友は、受洗や信仰告白、転入会時に割り当てられるものですが、確かにそこで、礼拝へと繋がる信徒同士の交わりの中で、誰が私の教友か、私が誰の教友かを意識することは大切です。しかし教友を持っておられない方もたくさんおられるわけですから、そこでより重要なことは、制度は理解した上で、「私の教友は誰か」ではなく、とにかく「私が教友になる」ことではないでしょうか。「私の隣人とは誰ですか」ではなく、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」-そう、主イエスが私の隣人になってくださったのと同じように私が隣人になるということ、それと同じように、主イエスが私の友、教友になってくださったのと同じように私が教友になるということ、この意識がとても大切だと思います。

この教友同士が、信仰に入れられた時期の違いを超えて、互いに「喜びと真心をもって一緒に食事をし、ひたすら心を一つにして神殿に参り、神を賛美する」ことができるように、「主は救われた人々を日々仲間に加え一つにされた」のです。そう、私たち信徒の交わりの背後には、私の隣人となり、私の教友-主の教えに生きる友となってくださったこの主がおられるということ、これが私たち教会の信仰です。

この主の教え、旧約聖書の申命記で言う「今日私が行えと命じた戒めと掟と法」に新約聖書で当たるものが、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」となります。この箇所は今年の5月に「キリスト者の自由」というテーマでお話しした所ですが、最後に次のように言いました。「私はあなたがたを友と呼ぶ。-このイエスの言葉が意味していることは、私たちが互いに愛し合うことの、互いに受け入れ合い仕え尽くすことの苦しみと痛み、そして喜びを主イエスと共にこの身に負うということであり、これが私たちの味わうキリスト者の自由です」と。そしてここに私たち教会の信仰もあるのです。

この教会の信仰を御言葉で表わしているものが、例えば私たちの教会標語でしょう。一昨年まではミカ書6章8節「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」であり、昨年からはマタイによる福音書25章40節「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」となります。

教友-主の教えに生きる友は、単なる仲良しではなく、互いの背後にこうした教会の信仰を持った友であるということを理解していただきたいと思います。そしてその友のためにぜひ祈っていただきたい。そこから、私たち一人ひとりの視線は自ずと教友の持つ具体的な日々の課題へと、あるいは神などいないと決めつけてこの世界で生きているもう一人の私の隣人、私の教友へと向かっていくのだと信じています。

先週、今日の総員修養会のために行われた、分団長・書記・教育A委員との打ち合わせの中で、久世そらち牧師が著した『世に生きる教会』の第4章「教会の挑戦」の部分をお配りしました。今日の修養会のために少しでも参考になればと考えてのことですが、

最後にその中の第1節「教会の信仰」の最後の所をお読みします。

「キリスト者一人ひとりの信仰は、その人が主イエス・キリストとの個別の出会いの中で与えられたその人固有のものであるという側面と、それと同時に、その人が連なっている教会の信仰の一つの枝であるという側面とがあります。だとすれば、キリスト教信仰に生きる信徒一人ひとりが、信仰によって「社会人」としての生き方を自覚的に志すことになっていくかどうかには、教会の果たすべき使命と責任が極めて大きい影響を持っていると言わなければなりません。個々のキリスト者が隣人たちと関わり、この社会の課題に取り組んでいく証しの生活ができるかどうかは、より根本的には、教会そのものがそのような信仰に生きているかどうかにかかってくるのです。私たちの教会は果たしてどのような使命と自覚をもって社会の課題に関わろうとしているでしょうか。隣人と共に生きる信仰をどのように育もうとしているでしょうか。一人ひとりのキリスト者が「地の塩・世の光」としての生き方を志すに至るかどうか、そこで教会の信仰のあり方が常に問われ、吟味され続けているのです。」

 

神さま、あなたはその憐れみを持って私たちを罪と死の闇の縄目から引き上げ、まことの命を注いで私たちを新しい和解と平和を生きる者としてくださいました。感謝します。けれども私たちを再び罪と死の闇の支配の下へと引っ張っていく力は巨大です。私たちを友と呼んでくださる主が共にいて、その力に抗う私たちの意志を確かなものとさせ、この時代にあって、私たちを互いの隣人、教友として主の平和を生きる者としてください。復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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