牧師メッセージ

4月9日(木)洗足木曜日礼拝説教「足を洗われる」

更新日: 2020.04.15

洗足木曜日礼拝(2020.4.9)説教「足を洗われる」

ヨハネによる福音書13章1-15節 牧師 野田和人

 過越祭の前、イエスさまはこの世から父なる神のもとへ移るご自分の時が来たことを知り、この世の弟子たちをこの上なく愛し抜かれました。「弟子たちをこの上なく愛し抜かれた」-これはイエスさまがすでにユダの裏切りのことをよくご存じだったことと繋がっています。そしてこの裏切りの向こうにご自分の十字架の死があるということ、この裏切りの向こうにこの世から父なる神のもとへ移るご自分の時が来るのだということ、そのことを象徴的に表す行為として、イエスさまによる弟子たちの洗足の出来事があります。

イエスさまはユダの裏切りにも増してこのことを、ご自分の時が来たこととご自身による弟子たちの洗足との繋がりをよくご存じでした。このことを福音書記者は私たちに伝えています。

他人の足を洗うことが、なぜ十字架の死に繋がる象徴的行為となるのでしょうか。実際に人に足を洗われたり、人の足を洗ったりしたこともなく(私たちがそうですが)、また聖書にそれほど親しんでいない者にとっては、よく分からないというのが本音ではないかと思います。

まず考えられることは、当時、イエスさまが活動しておられた時代、人の足を洗うということが奴隷とされた人たちの仕事だったということで、それが、イエスさまがやがてご自身の十字架の死に至るまでご自分の身を低くされたことの先取りだったということです。イエスさまがご自分の身を低くされたところに、洗足と十字架の繋がりがあります。

そしてこの、奴隷のように身を低くして、人から軽んじられるような姿で、埃だらけのペトロやユダの足を彼らの師であるイエスさまが洗われたことが、ペトロとユダをも躓かせることになったところから見えてくることは、この洗足も、彼らをこの上なく愛し抜かれた、その先にあるイエスさまの十字架に彼ら弟子たちが躓くこと、神の愛の極みがその御子イエスの洗足=十字架でしか示されないことに彼ら弟子たちが躓くことの先取りとなったということです。このようにペトロもユダも躓いてしまうところに、私たちは洗足と十字架の繋がりを見ることができます。

加えて、洗足には「洗う」という事実そのものがあります。足に付いた埃を洗い落とすこと、身の汚れを清めること、罪を洗い清めること、赦され、救われること、これらは主の十字架を通してしか為され得ない事柄ですが、イエスさまはその洗足を、すべて後で分かるようになる弟子たちを前に実践されたということです。

さて、私たちはどうでしょうか。私の埃だらけの足を洗ってくださるほどにその身を低くされた主イエスを、受け入れることができるでしょうか。

教会では福音書記者ヨハネの記述に従って古くから洗足式が行われてきました。しかし宗教改革後のプロテスタント教会では、洗足式をローマ・カトリック教会の伝統に基づくものとして受け入れてこなかった歴史があります。ただ、近年のエキュメニカル運動の成果の一つとして、プロテスタント教会でも洗足式を行う教会も出てきているようです。当教会の教会学校でも、昨年の受難週・棕梠の主日の教会学校礼拝の中で、礼拝担当教職が礼拝堂での洗足式を試みました。ブルーシート、バケツに水にタオルと、物の準備はされたのですが、教会学校の中での周知不足と、やはり突然のことだったので、思うようにはいかなかったようです。

もし今、十分に周知がされて洗足式が行われることになったとすれば、私たちはどのように対応するでしょうか。少し想像してみてください。どうでしょうか。私たちは式の前に念入りに自分の足を洗ってその場に臨むのではないでしょうか。どうでしょうか。

そしてそれは意味のあることなのでしょうか。もしそうであるならば、それは実はペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったことと同じではないかと思うのです。そう、それは(私たちがまず念入りに足を洗ってから洗足式に臨むことと、ペトロがイエスさまの洗足を拒否することは)、私は自分で出来る、自分で洗えるということを意味します。

イエスさまはここで私たちに人の足を洗うことを教えられたのではなく、私が人に自分の足を洗われることを教えておられるのではないでしょうか。「人に足を洗われる」-ここにも洗足と十字架のもう一つの繋がりがあるのではないでしょうか。

私たちは確かに、人に助けられるよりも人を助ける立場にいたいと思うものです。しかし私たちは実は、自分が助けられて初めて本当に人を助けることができるのではないでしょうか。自分の足の埃を洗い落とされて初めて、自分の恥を、自分の高ぶりや傲慢を洗われる、その時の痛みや苦しみ、あるいは安堵感に気づかされて初めて、私たちは人の足を洗うことができるのではないでしょうか。

洗足を通して、イエスさまは私たちを罪からだけでなく、私たちの正しさや強さ、また私たちがそれらを装うことから私たちを解放してくださり、私たち一人ひとりを、それぞれがお互いの足を洗い合う、また見知らぬ他人の足を洗う一人ひとりとして立ててくださいました。そしてそれは、弟子たちにも後で分かることとなりました。私たちはそのように、まず主イエスによって一人ひとりがその足を洗われなければならないということ、ここに明日の聖金曜日の主の十字架の意味があります。祈りましょう。

神さま、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」。「わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないことを」(ローマ8:35,38-39)。神さま、私たちを愛してくださるあなたの忍耐と憐れみによって、この世界を救ってください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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