牧師メッセージ

4月12日(日)復活節第1主日イースター礼拝「恐れ、喜び、走り出した。」

更新日: 2020.04.16

復活節第1主日/復活祭・イースター(2020.4.12)礼拝説教 牧師 野田和人

出エジプト記14章15-22節,マタイによる福音書28章1-10節

牧会祈祷

 慈愛に富みたもう、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、今日、この復活祭の礼拝に、赦されて、全世界の民と共に招かれている大いなる恵みを心より感謝いたします。

 今、新型コロナウイルスのパンデミックによって、それぞれの場でこの礼拝を守ることを余儀なくされている、世界の、あなたの愛する一人ひとりの上にも、あなたの慰めと希望を与えてください。

 この世界には闇があり、失望があり、多くのことが絶望的に見えます。けれどもその暗闇もあなたのものです。あなたはその闇の中に御子イエス・キリストを遣わしてくださり、私たちが墓から甦るためにキリストの光で私たちの闇を照らし、私たちを新たに造り変えて、あなたの愛すべきこの世界へと遣わしてくださいます。

 どのようにして私たちはあなたに感謝をささげればよいのでしょう。

 慈しみと愛の神、あなたは最も深い淵に沈んでいた私を助け出してくださいました。私はすべての悲しみをあなたに打ち明け、あなたは私を再び無傷にしてくださいました。あなたはひと時お怒りになっても、私たちに命を得させることを御旨としてくださり、泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださいます。そのように、あなたは私の嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。

 キリストは復活されました。そして私は新たに生きます。感謝します。

 このイースターの喜びの朝、今はこの場にいなくともまた必ず戻ってくる愛する子どもたちの明るい笑顔と共に、病や困難の中にある一人ひとりにあなたが与えてくださる平安を覚えて、私たちはもう一度告白します。キリストは復活されました。そして私たちは新たに生きます。

 この感謝の祈りを、今共にイースター礼拝をささげている世界中の教会に連なる人々と共に、またその外にいる者もあなたを通して私たちと一つにしてくださる甦りの主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。

 

説  教        「恐れ、喜び、走り出した。」

 今年の春分の日、3月20日(金)のすぐ後に来た満月は、先週4月8日(水)でした。洗足木曜日だった4月9日(木)の朝刊に、「人出減る街、輝き増す月」との見出しで次のような記事が載っていました。「暦の上では満月の8日夜、月が地球に接近して、普段より大きく見える『スーパームーン』が各地で東の夜空に姿を現した。新型コロナウイルスの感染拡大から緊急事態宣言が出た東京では、人出が減った都心を普段よりも明るい満月が照らしていた。」

 この満月の直後に来る日曜日を、キリストが復活された週の初めの日としてお祝いする復活祭/イースターとすることを定めた紀元325年のニカイア公会議以来、私たちは1700年に亘ってこの移動祝日を守っています。

 人類の歴史、特に近現代史の中で、これほど痛み、悲しみの涙の中で迎えるイースターはないでしょう。計り知れないほど数多くの失われた命と、それに数倍する悲嘆に暮れている人々、また現在感染症の痛み、苦しみの中にある人々と、その治療と命の回復のためにあらゆる手立てを尽くして労しておられる医療従事者の皆さん、感染拡大を何とか抑えるために日常生活や日々の働きが大きく制限される中で、思いも寄らない困難の中にある人々の上に、神さまの慰めと平安、復活の主のお力づけがあるようにと願わずにはおられません。

 昨日、京都在住で丸亀高校時代の友人から送られてきたメールに励まされました。「野田くん♡、元気していますか」の後に次のようなカラーの絵手紙が添付されていました。「しばらくは離れて暮らすコとロとナ、つぎ逢ふ時は君といふ字に」。これは日本語でしか分からないものですが、カタカナのコとロとナを組み合わせると、漢字の「君」という字になるんですね。そう、人が消えた街を私が知らない所で普段よりも明るいスーパームーンが照らし出してくれている。その闇の中に輝く光の中で、私たちは必ずまた「君」に会うことができる。そう、私たちはまたあのガリラヤで、エルサレムのゴルゴタの丘で失ってしまったと思った主にお目にかかることができるのです。このイースターの喜びと希望に心から生かされたいと願います。

 移動祝日としてのイースターの規定が作られる前までは、主の復活はイスラエルのエジプトからの解放の出来事を記念する、ユダヤ教の過越祭の時期に祝われていました。今日最初にお読みした出エジプト記の記事は、葦の海-いわゆる紅海の奇跡と言われている所です。エジプトの労役から逃れたイスラエルの民は葦の海の手前で宿営するのですが、そのうちにエジプト軍が彼らの背後に迫ってきます。そこで恐れと不安から、自分たちを導いてきたモーセに対して「なぜ自分たちをエジプトから連れ出したのか」と食ってかかる民を前にして彼が答えた言葉が、今日お読みした直前の所にあります。(出14:13-14)「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。』」

 「主があなたたちのために戦われる」。これが葦の海の奇跡が私たちに伝えていることです。民の反応はどうだったでしょうか。出14:31に次のように記されています。「民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。」

 キリストの復活、死からの甦りがユダヤ教の過越祭の時期に祝われるようになったということは、この復活祭が、過越祭と同じ時期に起こったイエス・キリストの十字架の死とそこからの復活の出来事を記念するために、「イスラエルのエジプトからの解放」に対して、「私たちすべての人間の罪と死からの解放」という新たな意味を持つものとして、すなわち過越祭の再解釈として守られるようになったということを表しています。

 そう、主は恐れと不安にさいなまれていた私たちのために、あらためて戦ってくださったということです。

 現在、教会学校の礼拝は残念ながらお休みしていますが、昨日までのレント/受難節の期間、教会学校JCでは普段は消火礼拝を守ります。「火を消す」と書いて消火礼拝です。レントの第1主日から第6主日、そしてご受難の聖金曜日に向けて、7本のロウソクに灯された明かりを一本ずつ消していくものです。一昨日の受難日正午礼拝は、本来ならば7本すべてのロウソクの明かりが消された中で守るものでした。それは、1本目、2本目、3本目のロウソクの明かりを消しただけでは済まない、その奥にある、そのまた奥にある最も暗い、そこへと届く光のない、本当に誰にも言うことのできない私自身の闇を覚えるものでもあります。けれども今日の物語はそこから始まるのです。

 最も暗い、最も深い闇に、何としてもそこへと光を入れまいとする、そのところに届く光がある、そこへと下ってきてくださる光があるのです。民数記(11:23)に次のように記されています。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」

 マグダラのマリアともう一人のマリアは、この主の手を、自分自身でも気づかない自らの闇へと届いてくる光として見たのではなかったでしょうか。ただそのためには、再びあのガリラヤへと赴く必要がありました。

 十字架にかけられた御子イエスは、金曜日の午後3時頃、十字架の上で息を引き取られます。そしてその死が確認された上で、アリマタヤのヨセフが用意していた墓に埋葬されます。主が十字架にかけられた金曜日の日没から安息日が始まりますので、あわただしい埋葬でした。埋葬に立ち会った女性たちはイエスさまとの別れのために十分な時間を持つことができず、本当に心残りだったと思います。ですから、安息日が終わるや否や居ても立っても居られなくて墓に来てしまったのでしょう。その彼女たちに「主が甦らされた」ことが告げられ(「復活なさった」というのは、「甦らされた」ということです)、婦人たちは「一体何が起こったのか」恐れながらも大いに喜んだのでした。一方、番兵たちは「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」ほどでした。

 福音書記者マタイがこの物語で伝えたいことは、復活の証拠ではなくて、復活を客観的に論証することではなくて、金曜日の午後3時に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエスさまに、神ご自身がそこで裁かれるものとなられて応えてくださったということです。「神さまが私たちのためにあらためて戦ってくださる」というのは、神さまご自身が十字架で私たちのために裁かれるものとなられるということ、そこで裁かれるものとなられて、なおかつ、神さまご自身がイエスさまの叫びにその主を甦らせることによって応えてくださったということです。この神の出来事を福音書記者マタイは伝えたかったのです。

 その出来事の前で、婦人たちは番兵たちのように恐れながらも大いに喜びました。ただこの時、彼女たちは主の復活の本当の意味を理解していませんでした。彼女らにとってそれは「最上級の奇跡」と言われているラザロの復活のように、イエスさまが自分たちの所へ戻ってきてくれたことに対する、生前のイエスさまとの関係が回復されたことに対する喜びではなかったでしょうか。

 けれども天使は「あの方は死者の中から甦らされた」と告げたのです。誰によって。もちろん神さまによって。彼女たちは自分たちが弟子たちに告げなければならない「あの方は死者の中から甦らされた」との出来事の意味を考えなければなりませんでした。そして弟子たちにそのことを知らせに走る途中、「おはよう」と(これは「喜びなさい」という方がふさわしい言葉ですが)、「喜びなさい」と彼女らに挨拶を送られたイエスさまが、生前のイエスさまとは異なる復活の主イエスであることにマリアらは気づかなければなりませんでした。そしてそれは、「あの方が死者の中から甦らされた」ことを婦人たちによって告げ知らされた弟子たちが、あのガリラヤへ向かう途中においても気づかなければならないことでした。

 イエスを見捨てて逃げ出したこのエルサレムを出て、かつてすべてを委ねてイエスに従ったあのガリラヤで復活の主イエスと相まみえたとき、彼らは、自分たちの最も暗い、最も深い闇に、何としてもそこへと光を入れまいとする、そのところへと下ってきてくださった光に包まれたのではないでしょうか。

 あのガリラヤを後にして、イエスの十字架に自分たちの悲しみと絶望、自らの裏切りと挫折を見た彼女たち、彼ら弟子たちが、かつてすべてをイエスに委ねたそのガリラヤで死者の中から甦らされた主イエスと再会した時、彼らは主がかねて言われていたことの本当の意味を理解したのでした。悲しみ、絶望、裏切り、挫折のただ中で、神ご自身が裁かれ、そしてそこから甦らされたことを通して、彼ら自身も新しく生まれ変わらされ、闇から光へと入れられるのだということを。
 
 ここに本当の喜びがあります。初代の教会は、この喜びを闇の中にいる者に語り伝えることを自らの使命として走り出したのです。そして今度は私たちに向かって、「あの方は死者の中から甦らされた。そして、私たちのガリラヤで、あなたたちのガリラヤで再び会ってくださる」と告げ知らせるのです。

 復活祭、イースター、私のガリラヤで、あなたのガリラヤで、私の闇に、あなたの闇に届く光との再会を心から喜び、その喜びを今困難の中にある世界中の人々と共に分かち合おうではありませんか。主の復活、ハレルヤ! アーメン!

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