牧師メッセージ

2月26日(水)「灰の水曜日」早天礼拝奨励 「偽善者」

更新日: 2020.04.17

「灰の水曜日」早天礼拝(2020.2.26)奨励 「偽 善 者」

 出エジプト記20章1-17節,マタイによる福音書6章1-15節 牧師 野田和人

 キリスト教の教会暦の一番元になっているものは、キリストが復活された週の初めの日、現在は日曜日に当たる主の日を記念する復活祭/イースター(今年は4月12日)です。この日から50日後にペンテコステ/聖霊降臨祭(今年は5月31日)が来、紀元4世紀頃からは、この日から40日前(日曜日を入れると46日前)に当たる水曜日から、イースターの時に行われる年に一度の洗礼式の準備期間としての四旬節、受難節/レントが守られるようになりました。

 ノアの洪水の物語では40日40夜雨が降り続き、モーセは40日間シナイ山に留まり、イスラエルの民は40年間荒れ野をさまよい、イエスさまも40日間断食をされました。聖書の中では受難や試練を表す40という数字です。その40日間の始まりを、私たちは「悔い改め」を意味する灰-棕梠の枝の灰を用いて、「灰の水曜日」、“Ash Wednesday”、“Quarta-feira Cinza”として守っています。

 この40日間という期間は、今日ご一緒にお読みしたリタニーにもありましたように、主の復活の日の朝の光に向けて、私たちの生き方をあらためて問い直す時としても与えられているものです。その私たちの生き方を導くものが、旧約聖書では「十戒」であり、新約聖書では、イエスさまの「山上の説教」と言うことができるでしょう。

 私たちは「十戒」をどのように理解しているでしょうか。私たちを束縛する、私たちを一つの枠に入れ込む古い価値観の一つぐらいに思ってはいないでしょうか。あるいは「十戒」が、これら掟を私たちがきちんと守っていることを誇示するためにあるもの、これら十の掟を私たちが厳守していることを見せびらかすためにあるものと思ってはいないでしょうか。

 「殺してはならない」は、“Don‘t kill.”ではなく、“You shall not kill.”-「あなたは殺すなどということがない」ということです。他の掟も同様に、そこには神さまの意志が反映されています。その意味では、「十戒」は私たちを貪欲や偽り、嫉妬から解放していくための教えとして読むことができるものです。

 そしてその解放の過程に、その解放のプロセスに、私たちは主イエス・キリストの受難ー十字架と復活とを通して私たちに与えられる赦しと、その主と共に私たちが新たに生きる希望を見出すことができるのではないでしょうか。

 今日私たちに与えられている「山上の説教」で主イエスが語っておられる一連の偽善者についての事柄も、この解放と逆方向へと進んでいくような、神さまの意志を自分の意志にしてしまって却って自分自身を、そして他者をも束縛してしまう、そのような偽善者のあり方を、そう、私たちのあり方を問い直すものとしてあると言えるでしょう。

 神さまによって生かされているあなたがたの生命を、自己演出の祈りによって損なってはならない。たとえ「癒し」といった、神にふさわしい事柄を祈ったとしても、そのことで神さまが動かされることはなく、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と主は語られ、私たちに「主の祈り」を教えてくださいました。

 それは、私たちが主によって束縛から解放へと導かれる中で、その主の受難-十字架と復活とを通して私たちに与えられる赦しと、その主と共に私たちが新たに生きる希望を私たちが見出し続けるための祈りです。

 次週、受難節第1主日の礼拝でもご一緒に聴くことになりますが、主イエスが、荒れ野での40日間の断食の後に出会わされた誘惑の中で守り通されたものは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神さまの祝福の言葉でした。

 レントの期間、私たちは主の苦しみに連なって様々な試練を自分自身に課したりしますけれども、それは、私たちがただこの世の誘惑に打ち勝って人間的な正しさや道徳的規範を守るために自ら与える試練なのではなく、主イエス・キリストを通して私たちに示された神さまの愛を、赦しを、私たちが決して無駄にしないためのものであることを、しっかりと心に留めたいと思います。

 「朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)主イエスを思い起こして、讃美歌134番「神よ、われをあわれみ」の4節をご一緒に賛美しましょう。

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