牧師メッセージ

3月15日(日)受難節第3主日礼拝説教 「離れて行きたいか」

更新日: 2020.04.23

受難節第3主日(2020.3.15)礼拝説教     牧師 野田和人
ヨシュア記24章14-24節,ヨハネによる福音書6章60-71節

牧会祈祷
 今日は今から9年前の「3.11」を覚えつつ祈りをおささげいたします。

 神さま、嵐のただ中で、同じ小舟に乗っておられるキリストが見えます。
 今、私たちの目の前には何が見えるでしょうか。
 私たちの前には重い決断とともに復興されつつある町もありますが、まだまだ崩れてしまったままの町もあります。この町を建て直し、そこで生きる力を与えてください。

 何が見えるでしょうか。
 私たちの前には争いがあります。憎しみ合い、奪い合うのではなく、理解し合い、分かち合い、助け合い、愛し合う心を与えてください。

 何が見えるでしょうか。
 私たちの前には喪失感と悲しみがあります。私たちを孤独の中から引き上げ、あなたの慰めと慈しみの中へと移してください。

 何が見えるでしょうか。
 嵐のただ中で、同じ小舟に乗っておられるキリストが見えます。
 私たちの前には今、不安の中にある世界があります。戦争や暴力、災害の傷、貧困や飢え、環境汚染に苦しむ人々に加えて、未知のウイルスの猛威から身を守るために、出来得る限りのことを為そうと努めている私たちがいます。キリストが共にいまして、癒しと励ましとを与えてください。

 今、私たちの目の前には何が見えるでしょうか。
 暗闇の中で輝く光が見えます。キリストはすでに私たちの前を歩んでおられます。キリストは私たちの道です。真理です。命です。キリストは私たちの光です。

 どうか主よ、私たちに再び立ち上がる力を与えてください。たとえ小さくとも、一歩を踏み出す力を私たちに与えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

説  教          「離れて行きたいか」
 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。聖書には、私たちの世間的な思い、いわゆる常識からすれば「そんな話はないだろう」という話はたくさんあります。例えば、ルカによる福音書15章後半の「『放蕩息子』のたとえ」の話がそうです。

 イエスさまがシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの4人を弟子として召し出された時に用いられた口説き文句は、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」でしたが、私が46歳の時、私を献身へと導いた御言葉の一つ、イエスさまの私に対する口説き文句は、「『放蕩息子』のたとえ」の中の父親が僕たちに言った言葉、「食べて祝おう。この息子(弟)は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」というものでした。ところが、私が今教誨師として務めている刑務所、日本にはまだ三つしかない、民間(そこでは大林組)がその運営に参入している刑務所の一つ、播磨社会復帰促進センターでの集合教誨の時にこの話をすると、収容者の皆さん全員決まって「実にひどい話だ」となるのです。

 そうですよね。詳しい話は聖書を読んでいただければよいのですが、放蕩の限りを尽くした挙句の果てに、実家の父親のもとに戻ってきた弟を喜んで受け入れた父親に対して、その間その父親に誠心誠意尽くしてきた兄が怒るのは当然だというわけです。その兄を、「いなくなっていたお前のあの弟が見つかったのだから、祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか」と父親がなだめるのは、そんなおかしな話はないということです。

 そこで集合教誨では、では皆さんはご自分をこの話のどのあたりに置いて、この話の弟、父親、兄、そして世間のどのあたりに置いてこの話に聴きますか、というところから話を始めるのですが、それは今日のお話のテーマではないので、ここでは置いておきましょう。

 もう一つ、「そんな話はないだろう」の例を挙げましょう。

 こちらに来る前に私が仕えていた九州教区・長崎地区の諫早教会時代、原爆の惨禍で長崎市から諫早市へと移ってきたキリスト教主義学校の鎮西学院高校で、非常勤講師として聖書科の授業を担当していた時の学年末試験での一人の生徒の解答が印象的でした。学年末試験の問題は、「アブラハムによる息子イサクの奉献について、その試練の意味やアブラハムの行動への評価を、自分自身が受けるであろう試練とも考え合わせて、率直に述べなさい」というものでした。

 記述式で、当時5クラスを受け持っていたので採点が大変だったのですが、授業では生徒たちが自分から意見を述べることはほとんどなかったので、ここぞとばかりに書いてくれる生徒もいたのです。こんな解答でした。「聖書には、誰がそんなことをするだろうといった、訳の分からない文章がある。ここでも、アブラハムは神が一体なぜそのようなことを命じられるのかを聞くのが当然なのに、そんなことは一切せずに彼は息子イサクをささげようとした。よく理解できないので興味もわかない。最初から殺すつもりはなかったのが見え見えで、だから聖書は嫌いなんです」。

 まことに率直な意見で感心しました。躊躇なく10点満点を差し上げました。そして、もしこの生徒が今日のヨハネによる福音書6章の「イエスは命のパン」の記事を読めば、その反応は、イエスさまのもとを離れ去った弟子たちの多くの者と同じだったのかなあと考えたりもしたのです。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。だから聖書は嫌いなんです」と。

 ここで言われている「実にひどい話」というのは、直前の58節、「これは天から降ってきたパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」という言葉に限定されるのではなく、6章22節から続くイエスさまの講話全体を指しています。イエスさまの天的な出自から、イエスさまを信じる者にとって、イエスさまが食べ物であり飲み物であるということに至るまでのすべてが、またイエスさまと父なる神さまとの親しい間柄を受け入れることから、真の食べ物、飲み物としてイエスさまの肉を食べ、血を飲むことに至るまでのすべてが、「実にひどい話だ」ということです。

 イエスさまはご自分の言葉―「わたしが命のパンである」との言葉を認めることができずに躓いてしまう人たちのことを知っておられます。彼らが求めている救いは、現実的な肉であり、現実的な力でした。ですから、イエスさまを食べ、その血を飲むことに加えて、イエスさまがもし元おられた所へ上られるのを見ても、すなわち十字架に上げられ、死人のうちより上げられ、天に上げられるのを見ても、それらは彼らにとって何ら現実的な解決をもたらさないわけですから、躓きの石はますます大きなものとなって、彼らがご自身からますます離れて行くことを知っておられました。

 けれども、イエスさまはここでもう一度はっきりと語られるのです。「肉は何の役にも立たない」と。「あなたたちがそれほど大切に思っている肉そのものには何の命も宿っていない。そこに命を与えるのは父が遣わされる『霊』(聖霊)であり、その霊によって語られる言葉こそが肉に本当の命を与える。それがこのわたしなのだ」と。ここにおいて、このヨハネによる福音書1章のプロローグの言葉、「言の内に命があった」、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」との言葉が成就します。

 そこでイエスさまは弟子たちに、そして私たちにも決断を迫ります。ちょうどヨシュアがイスラエルの民に、彼らの神、主に仕える決断を迫ったように。「あなたがたも離れて行きたいか」と。

 確かに私たちの間にも、イエスさまから離れ去り、もはやイエスさまと共に歩まなくなった人たちは案外多いのかも知れません。その人たちに向けてと同じように、「あなたがたも離れて行きたいか」とイエスさまはここで問うておられるのでしょうか。

 しかし、私はその人たちにも何かしらの信仰の名残りは残っているのではないかと思うのです。このイエスさまの問いは、確かにイエスさまを信じるか、拒むかの二者択一を迫るものですが、その根底には、深い信頼を込めた招きが言い表されているのではないでしょうか。「あなたたちが立ち去りたいというのならば、私はそれを止めることはできない。それはあなたたちの自由だ。けれどもあなたたちは、そのような地上的な自由の上に信仰的な自由を得ていたのではなかったのか。あなたの罪を贖った主に信頼し、その主の体に与る自由を、その主から離れない自由を得ていたのではなかったのか」と。

 この招きに、共観福音書では「サタン、引き下がれ」と叱責されたペトロが応じます。「主よ、私たちが一体誰のところへ行くというのですか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられるというのに。私たちの罪と無力と死とを克服して私たちを永遠に生かす命の言葉は、主よ、あなただけが持っておられる。他の誰も持っていないのです」と。

 このペトロの応答のうちに、キリスト者の信仰的自由、この主から離れないという、キリスト者の信仰的自由の根本があります。

 ただ、今日の箇所の最後の所にも記されていますように、私たちの心の中にはユダも住んでいます。そしてそのユダを通して表される地上的自由は、私たちの信仰的自由を揺さぶります。「実にひどい話だ」と。私たちはこの地上的自由からの反撃に鈍感であってはならないのだと思います。この反撃の怖さと痛みとを敏感に感じつつ、私たちの信仰的自由を生き抜くこと。これが現代を生きる私たちにも求められていることではないでしょうか。

 最後に、あの生徒の話に戻りますが、彼は学年末試験のもう一つの記述式問題、「一年間のチャペル(礼拝)に出席して、印象に残ったことを述べなさい」には、イエスさまの山上の説教、マタイによる福音書5章4節「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」の箇所を挙げて、「矛盾しているところがたくさんあるが、それが聖書だから」と答えていました。希望はあります。

 祈りましょう。

 「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)。
 神さま、いかなる困難の中にあっても、私たちが主イエス・キリストを通してあなたから与えられている職務を誠実に果たしていくことができますよう、私たちを守り、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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