牧師メッセージ

5月3日(日)復活節第4主日礼拝説教「ペトロは、悲しくなった。」

更新日: 2020.05.05

復活節第4主日/よろこべ(2020.5.3)礼拝説教     牧師 野田和人
イザヤ書62章1-5節,ヨハネによる福音書21章15-25節

牧会祈祷
 憐れみ深く、慈しみに満ちておられる私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年の復活節の第4の主の日にあって、私たちを新たに生まれさせ、私たちに生き生きとした希望を与えてくださるあなたに向けて、この礼拝をささげることのできる大きな恵みを心から感謝いたします。

 ただ、私たちの暮らすこの日本では、今日の憲法記念日の祝日、ゴールデンウィークと呼ばれる長い休みの真っただ中にあって、街のにぎわいは消え、人のにぎわいも消え、愛する神の家族のお一人おひとりが、この礼拝に集うこともままならない状況にあります。世界中が苦しんでいます。

 あなたは闇を照らし、命の息を私の中に吹き入れてくださいました。主キリストは、闇の中にいる私をそこから引き上げ、聖霊を注ぎ、この小さな命を祝福してくださいました。けれども私たちは、そのようにして吹き入れられ、祝福された命を、あたかも自分のものであるかのように取り扱い、私たちに向けて伸ばしてくださった主キリストの御手を払いのけてしまいます。

 私たちの罪を赦し、過ちを赦してください。あなたは私たちに赦しを与え、和解をもたらしてくださる方です。慈愛の神、絶えず、そして多くを赦される神、あなたの御名が称えられますように。

 あなたの平和が、現在の私たちの地上の困難な営みを覆ってくださいますように。私たちを病や飢え、愚かな暴力や災害から遠ざけ、あなたにある和解と一致のうちを歩ませてください。私たちの内からあらゆる疑いと空しい誇りとを取り去り、代々の聖徒たちに倣って、あなたの被造物を養い守ることへと私たちを導いてください。

 あなたを信頼し、すべてを御手に委ねて、エマオ途上の主イエスに導かれて、私たちの愛する家族、子どもたちと共に、私たちを主の平和に生きる者としてください。
私たちの甦りの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教         「ペトロは、悲しくなった。」
 今、世界中で「助けてください」との叫びが、「助けてください」とのメッセージが響き渡っています。そして何とか助けようと、まず医療の最前線で奮闘が続けられています。そしてその戦いをサポートしながら、この新たな未知の感染症を何とか終息へと導いていくために、私たちの生活の様々な現場でも、暮らしや仕事をこれからも続けていくことができるのだろうかという本当に大きな不安の中で、距離を取って、忍耐を伴う奮闘が続けられています。私たちは必ず助かるのだという希望に向けて。

 この希望の光が見えなくなる時、助かるはずのものを助けることができない時、助けられるはずのものに救いの手が届かない時、また、決してそんなことはないのに、様々な困難が重なり合って、自分は見捨てられたのではないかと思わざるを得ない時、私たちは激しい絶望に襲われます。3.11、1.17の時も、そのような現実があったのではないでしょうか。

 時代は遡って紀元前6世紀後半、バビロン捕囚から解放され、遥かな道のりを再び辿って故郷エルサレムへと帰還を遂げた神の民、イスラエルも、完膚なきまでに破壊され尽くした、愛して止まなかったエルサレムの荒廃を目の当たりにして、いまお話しした絶望と似たような絶望感に襲われたのではないでしょうか。捕囚から解放されはしたものの、今、自分たちの目の前にあるのは荒廃のみなのですから。彼らはそこに、助けてくれたはずの、あるいは助けてくれるはずの彼らの主なる神の、冷厳な拒否を見たのではないでしょうか。自分たちはやはり見捨てられたのではないか。「主の手は短くて自分たちを救うことができず、主の耳は鈍くて聞こえない」(イザヤ59:1)のだと。

 しかしそこで、そこから主は応えられるのです。今日お読みしたイザヤ書62章です。
「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない」と。「主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれる」。「あなたの神はあなたを喜びとされる」。

 この神がその民を守り、その民を祝福してくださることへの確信に立って、第3イザヤは、捕囚から何とか帰還してきた、しかし疑いと絶望のただ中にあったイスラエルの民に向けて、この章の最後で次のように宣言したのでした。「見よ、あなたの救いが進んで来る」(イザヤ62:11c)。

 第3イザヤのこの力強い宣言の背景には(「第3イザヤ」というのは預言者たちの集まり、グループのことですが)、彼らの先生、師匠とも言うべき第2イザヤの預言があります。イザヤ書40章9節~11節には次のように記されています。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。…主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。

 この言葉は、前半部で、すべてを遥かに超えて統べ治められる高きにいます方が、なお、後半部の羊飼いのところで、低きにいる者すべてと関わられて、その者たちの前で、ご自身がその身を屈められるということを表しています。これが聖書の神の顕著な特徴です。すなわち、すべてを統べ治められる高きにいます方が、なお、低きにいる者すべてと関わられてその身を屈められるということです。
 
 現在は休止していますが、私たちが隔週の木曜日の夜、「聖書と祈りの会」で学びを続けている旧約聖書・詩編の113編でも、この聖書の神の特徴がはっきりと示されています。

 詩編113編は、ユダヤ教の過越祭で過越の食事の前に歌う賛美として知られているもので、イエスさまが最後の晩餐の前に唱えられた「賛美の祈り」とも考えられているものです。4節以下には次のように歌われています。先ほどの第2イザヤの言葉と比べてみてください。

 「主はすべての国を超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝く。わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地をご覧になる。弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ、自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる」。

「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか」-この比類なき、主の比類のなさは、すべてを遥かに超えておられるところにだけあるのではなくて、高みにいまして、なお低きに下り、低きにいるすべての者の前でその身を屈め、弱く乏しい者を塵の中から起こし、高みへと引き上げてくださるところにあるというわけです。

 ここで、これまでご一緒に見てきたイザヤ書や詩編を通して、私たちキリスト者には一体何が見えてくるでしょうか。これらイザヤ書や詩編を貫いて、私たちの主イエス・キリストにおいて起こった出来事がはっきりと見えてくるのではないでしょうか。その十字架と復活において。

 今日お読みした第4福音書、ヨハネによる福音書の最後の最後にもう一度登場してくるペトロも、このことを、主の比類のなさは、高みにいまして、なお低きに下り、低きにいるすべての者の前でその身を屈め、弱く乏しい者を塵の中から起こし、高みへと引き上げてくださるところにあるということを、復活の主イエスとの問答を通して思い知らされたのではなかったかと思うのです。

 ペトロへの、主による「お前はわたしを愛しているか」との三度の問いかけは、現代の私たちの心の奥底にも響いてくる問いかけ、呼びかけではないでしょうか。「あなたはわたしを本当に愛しているか」と。

 私が、あるいは皆さんがこれまでに何度イエスさまを拒んだか、否定したかは数え上げることができないほどだと思いますが、またイエスさまもそのことを数え上げることはなさいませんが、ペトロはこの時までに少なくとも三度、イエスさまを拒んでいました。否定していました。「その人のことは知らない」、「分からない」、「違う(その人と一緒にいたのは私ではない)」と。三度の否定の後に鶏が鳴いた時、彼はそのことをすでに予め語っておられたイエスさまの言葉を思い出し、「外に出て、激しく泣いた。」と共観福音書には記されています。

 ヨハネによる福音書には、この「激しく泣いた」のところがありません。しかしその代わりに、「激しく泣いた」、「激しく悔いた」と記す代わりに、今日の「イエスとペトロ」の記事を福音書の最後の最後に持ってきたと考えることもできるでしょう。

 ペトロにとって、イエスさまは彼が考えていたような人物ではありませんでした。この地上の王をイエスさまにイメージしていたペトロにとっては。主イエスは結局逮捕され、審判を受け、十字架刑に処せられ、墓へと葬られただけでした。ペトロが、「さあこれから!」と思っていた矢先、主イエスは上昇カーブではなく、ただただ下降線を描いて、転落の一途を辿られたのでした。「こんなはずではない!」。ペトロの衝撃は大きく、「ああ、わが主は堕ちてしまった」との思いに捕らわれるあまり、その主の復活の顕現に出会っても、彼はわが主を見失ったままでした。

 そのペトロに対して、復活の主は「ヨハネの子、シモン」と、羊飼いが自分の羊の名を呼ぶように呼びかけられたのです。「お前はわたしを愛しているか」-しかしたいへん厳しい問いかけでした。「この人たち以上に」-世にある他の何ものにもまさって、何びとにもまさって、彼らがわたしを愛する以上に「わたしを愛しているか」と。

 確かに厳しい問いかけですが、イエスさまは今、ここで、ご自分の目の前にいる弱く、躓いた、罪のペトロを招き、赦し、そしてペトロにご自身を愛することを許されたのではないかと思うのです。「ペトロ、わたしはあなたを愛している」と。

 主人を求めて止むことのなかった羊は、その主人の導きによって、羊飼いである主人の声を聞き分けました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。
ただ、これだけでは終わりませんでした。復活の主イエスの三度に亘る問いかけに、ペトロは三度応えました。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。どのような気持ちでペトロは主による三度の問いかけに応えたのでしょうか。わが身を削るほどの痛みを伴った応答ではなかったでしょうか。心の中では、まさに激しく泣き、激しく悔いていたのではないでしょうか。

 ペトロは本当に悲しくなりました。しかしここからなのです。ここから始まるのです。

 この躓きと不信、裏切りのただ中で、その罪のただ中で、ああ自分はなおもイエスさまを愛していたということに、ペトロは気づかされたのではないでしょうか。そのところで、その罪のただ中で、ペトロはイエスさまに繋ぎとめられていたのです。そして今は本当に、自分がイエスさまを愛していることを、イエスさまを愛することが許されていることを感じとったのではないでしょうか。

 復活節第4主日の礼拝テーマは「よろこべ」というものですが、ペトロの悲しみはここで喜びへと変わりました。悲しみが喜びに変わった瞬間です。

 なお弱く、躓き多く、不信と罪の人間であるにもかかわらず、その私をそこから起こし、高みへと引き上げるために主イエスはこの低きに来てくださった。おそらく他のどの弟子よりも、誰よりも深く傷ついていたペトロは、それだけ深くその主によって愛され、癒され、その主の愛にふさわしい者へと造り変えられました。それがここでのペトロの、わが身を削るほどの応答となって表れたのではないでしょうか。「主よ、あなたは何もかもご存じだ。私があなたを愛していることは、死んで甦らされた主であるあなたがご存じだ」と。

 その言葉に応えて、イエスさまはペトロを、羊のために命を捨てることさえある牧羊者として召し出されました。そして彼は、その厳しく困難な使命を主イエスからの賜物として受け取り、囲いの中にいる羊はもちろんのこと、囲いの中に入っていない、囲いの外にいる他の羊をも神の栄光へと導いて行くために、一歩を踏み出したのでした。そしてそれは、イエスの愛しておられたもう一人の弟子も同じでした。

 「神の栄光」-それは、その身をもって「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ、自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる」(詩編113:7-8)主イエス・キリストの業のことです。それが「神の栄光」です。
ペトロと、イエスの愛しておられた弟子は、彼らの生きた時代の中で、最後にはその主の栄光のために生きることができました。私たちの教会、羊を飼う教会も、このキリストの十字架の愛によって力を得た彼らと同じ賜物を、代々の聖徒たちを通して受け継いでいます。それは、その身をもって、弱く乏しい者を自由な人々の列に返してくださる栄光の主に、私たちが従うということです。悲しみは喜びに変わるということです。

 私たちは主によってそのように囲いの内外へと一歩を踏み出すように導かれていることにあらためて目を向け、その主の導きが、私たちがそれぞれの日々の、特に現在の困難な現場で生きていくための大きな支えとなっていることに、心から感謝したいと思います。祈りましょう。

 「主よ、あなたを求めます。あなたは私を引き上げてくださいました」。神さま、この年も「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にする」ことを通して、私たちの主に従う私たちの営みを、主の栄光、主の平和に繋がるものとしてください。
 助けを必要としている人たちのために祈り、行動する私たちを支え導いて、苦しみ、悲しみの中にある人たちを救い出し、癒しと慰め、生命への希望を与えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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