牧師メッセージ

5月24日(日)復活節第7主日礼拝説教「Living Water」

更新日: 2020.05.26

復活節第7主日/ききたまえ(2020.5.24)礼拝説教     牧師 野田和人
列王記下2章1~15節、ヨハネによる福音書7章32~39節

牧会祈祷
 お祈りをささげる前に少しお話しさせていただきます。今日は復活節の第7の主日、復活節最終主日ですが、今日の週報にも記してありますように、アジア・エキュメニカル週間の始まりの日、アジア・サンデーとしてもこの礼拝を守っています。第二次世界大戦後の1948年に創設された世界教会協議会、“World Council of Churches”-WCCに所属するアジア・キリスト教協議会、“Christian Conference of Asia”-CCAが今から61年前、1959年のペンテコステの一週間前の主日に設立されたことを記念して、1974年以来46年間に亘ってこの主日をアジア・サンデーとして守っています。それは、アジアにある21の国々や地域にある教会とそこに連なって生きる人々を覚えて、私たちの喜びと悲しみ、恐れや不安、そして希望をそれぞれの口に乗せて互いに理解し合い、賛美と祈りを分かち合うためのものでもあります。「教理は分裂をもたらすが、奉仕は一つにする」と言われます。「教理は分裂をもたらすが、奉仕は一つにする」。この言葉を標語として、私たちはエキュメニカル=一致を求めています。
 そこで、今日は本日の黙想のために与えられている旧約聖書のヨエル書2章と3章からの数節をお読みして、まずご一緒に黙想をいたしましょう。ヨエル書2章12節~、21節~、3章1節をお読みいたします。
 「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ。断食し、泣き悲しんで。衣を引き裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。』あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ。…大地よ、恐れるな、喜び躍れ。主は偉大な御業を成し遂げられた。野の獣よ、恐れるな。荒れ野の草地は緑となり、木は実を結び、いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。…『その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る』」。

黙  想

 神さま、あなたが創造された世界の中で、いまなお対立や差別、迫害に苦しむこのアジアに目を留めてください。数多くの、無残に奪われていく命に目を留めてください。悲しみ、苦しむ者に慰めと希望を与えてください。そして、私たちがあなたによって与えられた和解への知恵を用いて互いの偏見を捨て去り、平和の主に結ばれて一つとなり、主の福音が告げ知らせる平和をこのアジアからも根気よく構築していくことができますよう、私たちを導いてください。
 私たちの忍耐強い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教            “Living water”
 “Living water”-「生きた水」、前の口語訳聖書では「生ける水」、ギリシア語では「生きる」-“ゾ―”の現在分詞“ゾ―ントス”ですから“living”-「生きている」水となるわけですが、では「生きている水」って一体何でしょうか。
 この言葉は同じヨハネによる福音書4章の、イエスさまとサマリアの女の記事にも出て来るものです。皆さんも覚えておられると思いますが、ユダヤ人とは交際しないサマリアの女がシカルの町にあるヤコブの井戸に水を汲みに来た際、旅に疲れ、ヤコブの井戸のそばに座っていたイエスさまが彼女に「水を飲ませてください」と頼むと、「ユダヤ人のあなたが、あなたたちとは交際しないサマリアの女の私になぜ水を飲ませてほしいと頼むのですか」と聞かれた時のイエスさまの言葉です。
 「イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう』」。
 この「生きた水」のことです。

 そこで「生きた水」の反対の意味の言葉を考えると、「死んだ水」、「死んでいる水」となるわけですが、じゃあ「死んだ水、死んでいる水」って何かなあと考えると、例えば「淀んだ水、淀んでいる水」を私たちはイメージしたりします。そうすると、「生きた水、生きている水」は流れている水のことになりますよね。
 私たちは例えば激しい運動をした後、喉の渇きをいやすために水を飲みますが、その時私たちはその水をごくごくと喉を通して飲み干します。口に入れた水を口の中に溜めておいたりはしませんよね。喉の渇きをいやすためには、水はもちろん流れていなければなりません。ごくごくと喉を通して水を飲み干す時、私たちは「ああ、生きてるなあ」と感じるものです。その意味では、「淀んだ水」は命を失うもの、命を失う水ですけれども、“Living water”、「生きた水、生きている水」は命を与えるもの、命を与える水と考えることができるのではないでしょうか。

 今日の主日は復活節第7主日、復活節の最終主日に当たり、次週、私たちはペンテコステ/聖霊降臨祭を迎えます。そのペンテコステの一週前に今日の聖書箇所が与えられているということは、“Living water”-生きた水、生きている水は、やはりペンテコステの日に下される聖霊の注ぎとたいへん密接に関係しているということだと思います。
 私たちは激しい運動をすれば喉が渇いて水の注ぎを十分に受け入れる体の状態になりますが、私たちが、日常生活の中で、また私たちの人生の歩みの中で、果たしてどれほどこの水の注ぎを、生きた水の注ぎを受け入れる体の状態にあるかと言えば、淀んだ水の中にいて、想像力-イマジネーションも涸らしてしまって、この生きた水の流れを私たちが意識して受け入れる体の状態にはほとんどないのではないでしょうか。
 今回の新型コロナウイルス感染症が今、私たちの生きている世界にもたらしているたいへん大きな影響は、別の意味で、私たちがその中にいる淀んだ水を吹き飛ばして、私たちがこれまで気づきもしなかった、あるいは気づこうともしなかった私たちの生きている世界の亀裂、裂け目、私たちの喉の渇きへと私たちの関心をあらためて向けさせたということでは、それなりの意味があったのではないかと思います。
 この世界の亀裂、裂け目を私たちが自分の喉の渇きととらえることができるかどうか、“Living water”-生きた水、生きている水、命を与える水の流れは、そのこと-この世界の亀裂、裂け目を私たちが自分の喉の渇きととらえることを可能にするためのものとしてあるのではないでしょうか。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と、主イエスは招いてくださっているのですから。

 今日最初にお読みした旧約聖書・列王記下のお話は、火の戦車と火の馬が現れ、嵐が預言者エリヤを神さまのもとへと引き上げるというたいへん不思議なお話ですが、大切な点はお読みした最後、15節の言葉にあります。「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」、この言葉です。この言葉は、今日から一週間後に私たちが迎えるペンテコステ、私たちの教会の誕生日の時、イエスさまを通して神さまから与えられる聖霊が、イエスさまを信じてイエスさまについて行った弟子たち、そして私たちの上に同じようにとどまることを表しています。
 その前に、イエスさまも神さまのもとへと引き上げられます。昇天、天に昇ると書いて「昇天」です。昇天日はイースターから数えて、今年は4月12日(日)から数えて40日目、先週の5月21日(木)でした。この日はちょうど私たちの敬愛する、私たち神戸栄光教会の教会員であられた加藤洋子さんの葬送式の日でした。

 使徒言行録の始めに記されていますが、イエスさまが天に昇られる直前、心配になった弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねました。イエスさまは「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と答えられました。
 これは、あなたがたは聖霊の力を受けて、そこで神さまの御心、神さまのご計画に耳を傾ける中で、それまであなたが持っていた考えが全くひっくり返されるような新しい時を生きることができるということです。この、これまで自分が持っていた考えが全くひっくり返されて新しい時を生きること、これが聖書の語る福音-ゴスペルです。
 そしてこの福音はイエスさまのお生まれになったイスラエルだけでなく、地の果てのアジアまで、中国、北朝鮮、韓国、日本にまで、あなたがたを通して必ず伝えられるというイエスさまの約束の言葉に信頼して、弟子たちはただ天を見上げて立っているのではなく、前を向いて、希望を持って歩き始めたのでした。私たちの教会の始まりです。
 彼ら弟子たちがこうした行動を取ることができたのは、自分たちが実際にイエスさまと出会い、その出会いの中で経験した出来事を思い起こして、その主が再び来られることを聖霊の働きによって信じることができたからです。今日福音書に登場してきた「祭司長たちとファリサイ派の人々」は、そのように行動することのできなかった人たちの代表として描かれています。
 イエスさまと出会うには出会ったのですけれども、イエスさまと出会っても、そのイエスさまに耳を傾ける前に、自分の考えを絶対にひっくり返されまいとするものですから、それでは新しい時を生きることは決してできません。そして今日の箇所にあるように、イエスさまのおられる所について全くの無理解をさらけ出し、とんちんかんなことを言ってしまうのです。さて、そのような彼らも、イエスさまと本当に出会うことができるのでしょうか。そして私たちはどうでしょうか。

 イエスさまはこの後、仮庵の祭と呼ばれている祭りの7日目に行われる水注ぎの儀式の真っただ中で立ち上がって、大声で叫ばれます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と。
 イエスさまはこの直前、ファリサイ派の人たちがイエスさまを捕らえるために遣わした下役たちに向けて、「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言われましたが、そうすると、これら二つのイエスさまの言葉、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」との言葉を比べてみると、「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」というのは「あなたたちは渇いていない」と言っておられることと同じことなのではないでしょうか。渇いている人はだれでも、イエスさまの所へ行って飲むことができるのですから。

 詩編の詩人は、詩編42編で「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」と謳っています。魂の渇きを覚える者がイエスさまの所に行って生きた水を、命を与える水を飲むことができます。ファリサイ派の人たちや祭司長らのように、知識や地位-位によって自分は潤っていると思い込んでいる者は、それらが淀んだ水、命を失う水であることも知らずに、イエスさまの所へ行くことも、そこで命の水を飲むこともないのです。
 ここで彼らに求められていることは、イエスさまと出会うことで自分が淀んだ水、流れの止まった水、命を失う水の中にいることに気づかされ、そこから一歩を踏み出し、イエスさまの招きに応えていくことではないでしょうか。この出来事のずっと後で、
 「わたしの足など、決して洗わないでください」とイエスさまに向けて言い放った洗足のペトロは、なお、ここに登場してくる祭司長たちと同じ位置にいます。
 しかしイエスさまの昇天の後、天を見上げて立っていた弟子たちははっきりと思い出したのではないかと思うのです。この時のイエスさまとの経験を。仮庵祭のクライマックスでのイエスさまの招きを。

 イエスさまとの出会いによって私たちは“Living water”-生きた水、生きている水、命を与える水を飲むことができます。この後、この水は聖霊であることが弟子たちに、そして私たちに知らされます。そしてその聖霊が彼ら弟子たちを、そして私たちを導いて真理をことごとく悟らせ、私たちを絶えずイエスさまとの新しい出会いの場へと導いてくださるのです。そこには聖霊の水の流れがあります。

 弟子たちの渇きは、イエスさまの昇天からペンテコステ/聖霊降臨までの10日間、ちょうど今のこの時期ですが、この間の10日間、心を合わせて熱心に祈ることにおいて表されました。そしてそこに聖霊が注がれました。
 私たちの渇きはどのような形で表されるのでしょうか。私たちが聖霊を受けて希望を持って前を向いて歩き始めることができるのは、例えば、最も小さい者の一人にしてくださった主イエス・キリストの業が私たちの目の前にありありと証しされているからです。このイエスさまの業への同調が、シンクロナイズが、このイエスさまの業と結び付いていくことが、私たちの喉の渇きをいやしてくださるのではないでしょうか。

 今日、アジア・エキュメニカル週間の始まりの日のアジア・サンデー、最も小さい者の一人に為してくださったキリストのありようを、ポスト新型コロナ時代にあって、アジアの人々と共にしっかりと受け継いでいく決意を新たにしたいと心から願います。
 祈りましょう。

 神さま、聖霊の導きによって私の魂を潤してください。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り、…旅人をもてなし、…だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行い、…すべての人と平和に暮らすことを心がけ」(ロマ12:12~18)させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

page top