牧師メッセージ

2015年総員修養会説教「天におられるわたしたちの父よ」

更新日: 2020.06.02

2015年度 総員修養会(2015.11.22) 礼拝説教「天におられるわたしたちの父よ」 
牧師:野田和人
聖書:マタイによる福音書6章1節, 5節~15節

 今日の御言葉の5~7節を通して主イエスが語っておられることは、神によって生かされている私たちの生を、私たちの自己演出によって損なってはならないとの戒めです。自分から神を動かして神さまの慰め、癒しを手に入れようとするのは、偽善者や神を知らない異邦人のすることだと。祈りにおいて、癒しというような神にふさわしいことだけがたとい願われていたとしても、そのことで神が動かされるということではなく、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」からということです。それほどまでに神はあなたの近くにおられる、あなたの近くにおられて、「にもかかわらず」価高く貴い一人の存在として、あなたを受け入れてくださっている。神がそのように動かれるのだから、神を動かそうとする祈りは必要ないということです。
 では何のために祈るのでしょうか。それは、神ではなく私自身を動かすために、私自身を神さまへと向けるために祈るのだと思います。「神さま、私を癒してください」というのは、「神さま、私をあなたの癒しのうちに入れてください」ということではないでしょうか。
 すべてのことをすでにご存じである神に祈るということは、自らの願望を満たすためにそうするのではなく、逆に自らの願望を満たすことから離れていくように私たちが動かされるということではないでしょうか。握り拳を開いて、すべてをご存じである神さまへと自らを明け渡していくように私が動かされるということ、委ねること、そこで初めて私たちは与えられるものを受け取ることができるのだと思います。
 「主の祈り」は、私たちが自分自身に基づいて生きるところから、与えられたものに基づいて生きるところへと私たちを動かしていく祈りとし て、イエスご自身がまず弟子たちに、そして私たちに寄り添って示してくださった祈りです。ですから「主の祈り」を唱えることは、私たち自身も、主とともに与えられたものに基づいて互いに寄り添うことへと動かされていく、導かれていくことを意味しています。
 祈りは「アッバ(おとうちゃん)」という、父への日常的な呼びかけから始まります。「アッバ」という、当時ユダヤ教の祈りには決して用いられることのなかった、しかし家庭では日常的に用いられていた父への呼びかけで始められた祈りは、イエスさまにおいて父なる神が近きにおられることを比類のない形で表したものです。その祈りが弟子たちに伝えられたということは、彼らと神さまとの関係も子としての近さにある、そのように新しいものとされたことを意味しています。それはあの放蕩息子の父親が、全く家父長らしからぬ慌てぶりで走り出てその息子を抱きしめたのと同じような、また全く家父長らしからぬ無力さでその兄に放蕩の弟を迎える祝宴に参加するように求めたのと同じような、「にもかかわらず」私に寄り添ってくださる神さまへ向けての呼びかけでした。
 前半で三つの祈願がなされますが、「わたしたち」で特徴づけられる後半の三つの祈願とは対照的に、三つとも原文ではすべて「あなたの」という言葉で終わるものです。
 ここでの「御名」とは、神ご自身のこと、そのお働きのことです。あなたの名が崇められますように、あなたの名が聖とされますように。これはその名が軽率に用いられることのないようにということです。「聖とされますように」の主体は神ご自身であって、人間ではありません。人間が意のままに神を動かして神の名において自分自身の名を成すことを厳しく戒め、神を神そのものとする、神が本当に神として崇められるところへと祈る者を動かしていく祈りといえるでしょう。
 神が本当に神として崇められる。これは私たち新約の時代を生きる者にとっては、神が私たち人間と同じ肉の形をとって人となられた主イエス・キリストによって、私たちが新しく造り変えられることを意味しています。「あなたをあなたご自身とすることができますように」とは、私が主イエスによって新しく造り変えられることです。「あなた」と「私」は密接に繋がっているのです。
 御国が来ますように。この御国、天の国、神の国は、空間的な領域を表すものではなく、神の主権者としての支配、統治を表す言葉ですが、主イエスがその宣教の第一声で「天の国は近づいた」と語られたように、今まさに始まろうとしている神さまの支配を心の底から求める祈りです。それは、この世界の、またこの社会の至るところで差別や暴力に苦しんでいる者たちの、暗黒の淵からの「正義を来らせたまえ」との叫び、苦悩と恥辱の中で「私を罪の赦しの器としたまえ」との絞り出すような祈りとともに、絶望のあるところに希望を、憎しみのあるところに愛をもたらす、そのところへと十字架の主を通して祈る者自身を忍耐強く動かしていく祈りです。
 この二つの祈りに加えて、福音書記者マタイによって「御心が行われますように」との祈りが付け加えられます。御心が行われることこそが御国の内容だということです。
主イエスはゲツセマネで「あなたの意志が行われますように」との願いによって神の意志に、すなわち人間の意志とは真っ向から対立する運命に従っていきました。神の意志は善良な意志に違いないのですけれども、まさにその善良な意志がイエスさまを苦難の経験へと導いていきました。主イエスはこの時、この運命へと導く神さまの意志に向けてその身を献げました。御心が行われるように。それは、私の意志を神の意志に向けて献身させるように私を動かす祈りということができます。
 これらの祈りは、祈る者を自らのこだわりや利己主義、自らを神としようとする支配欲から解放するための祈りということができるでしょう。後半の三つの祈りはすべて「わたしたち」で特徴づけられるものですが、そのように解放された私たちが、では一体何を願うのか、主イエスはここで私たちが極めて具体的な要求を為すべきであることを教えています。そしてその訴えを通して、私たちは私たちが今生きていくための根源的かつ不可欠な食物であるパンと赦し、そして保護をすでに授けられた者としての自分自身を知ることになるのです。あとはそれにどのように応えていくのかということです。
 11節はまさに生活の糧が日々の関心の的となっている、現実に目の前にいる人々に向けて思いと行いとを馳せ、その人々とともに生きていくことへと私たちを動かしていく祈りです。そして12節の祈りは、私たちを生かしてくださる神さまに対する悔い改め、罪の告白へと私たち自身を動かしていくものです。私たちは、赦しがたい者を赦さなければならないところに追い込まれて初めて、自分がどれほど多くを赦されたのかを、その奇跡を悟らされるのです。そして生活のあらゆる局面で困難を与え続ける誘惑があり、不意に私たちを弱らせてしまうような予期しない誘惑がある中で、私が奇跡的に赦されているということが、私をその誘惑から遠ざかる方向へと動かしていくのです。
 私たちの「主の祈り」は、私たちが今生きていくための根源的かつ不可欠な食物であるパンと赦し、そして保護をすでに授けられた者としての自分がどのようにしてその主に応えていくのかを明らかにする告白の祈りとして、私たちの生の現実を照らしています。神さまの意志はこのようにして私たち一人ひとりのうちにしめされていることを感謝して、「天にいますわたしたちの父」と、ご一緒に賛美しましょう。

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