牧師メッセージ

2018年総員修養会説教「この最も小さいものの一人にⅡ」

更新日: 2020.06.02

2018年度 総員修養会(2018.6.24) 礼拝説教「この最も小さいものの一人にⅡ」
牧師:野田和人
聖書:ミカ書6章6~8節,マタイによる福音書25章31~46節

神戸栄光教会では主日礼拝や教会学校の礼拝の他に、皆さんに開かれている御言葉に聴く機会として六つの集会があります。「聖書の集い」、「聖書と祈りの会」、栄寿会例会、栄光金曜・垂水集会、早天祈祷会、そして六つの組会です。その他に二つ、栄光コイノス委員会と「栄光ベテスダ食事とリフレッシュの会」でも会の冒頭で私の短い奨励‐ショートメッセージがあります。
今月のメッセージは、教会のパンフレットのタイトルにもなっているヨハネの手紙一4章16節の「神は愛です」でした。これは私がこちらへ来て、教会のパンフレットを更新しようとして、キリスト教を一言で言い表すとどんな言葉になるのかなあと考えた時に浮かんできた御言葉です。この言葉は、私たちを造られた神さまは、私のことを、あなたのことを、近くにいるこの人も、遠くにいるあの人も、イエスさまを通して、イエス・キリストの出来事を通して、これまでも大切にしてくださったし、今も大切にしてくださっているし、これからも大切にしてくださるに違いないということを表しています。そして私もあなたも、近くにいるこの人も遠くにいるあの人も、イエスさまを通して、イエス・キリストの出来事を通して、私たちを造られた神さまと繋がっているところに神の家族としての私たちの教会の基があるということ、イエス・キリストという存在が、私たち神の家族の一人ひとりを、具体的に目に見える一人ひとり、肌で感じられる一人ひとり、手に取ってわかる一人ひとりとして結びあわせてくださっているということ、ここに私たち教会の基があり、教会がそこで生きている現実の社会の基も実はここにあるのだということ、これが私たちの宣教の出発点にあるのだと思っています。

「イエス・キリストという存在が、私たち神の家族の一人ひとりを、具体的に目に見える一人ひとり、肌で感じられる一人ひとり、手に取ってわかる一人ひとりとして結びあわせてくださっている」‐これが福音と言っていいものだと思うのですが、この福音に魅せられて、この地上で一人で生きてきた私は神さまの愛に包みこまれて神の家族の一員となったわけですから、福音はこの私で止まるものではありません。私を通して、あなたを通して自ずと伝えられていくものです。そう、イエス・キリストという存在を通して。そして聖書が証しするイエスさまの働きの中で、神の家族の一人ひとりを、具体的に目に見える一人ひとり、肌で感じられる一人ひとり、手に取ってわかる一人ひとりとして結びあわせるための大切な働きとしてあるのが執り成しの働きであり、その執り成しについての具体的な聖書の御言葉として、私たちはこれまでの5年間、ミカ書6章8節の言葉に聴き、今、マタイによる福音書25章40節の言葉に聴こうとしているのです。
教会形成ということでは、昨年の総員修養会の礼拝説教の中で次のようにお話ししました。「カインが伏せて上げることのできなかった顔を、私たちは主イエス・キリストゆえに上げることができるのです。主イエス・キリストを私たちのために十字架に架けられ、そしてそこから甦らせられるという、慈しみたい者を慈しんでくださる神さまの意志を受けて、私たちは自分を退け、悔い改め、死から命へと移されたのです。
私たち一人ひとりが、このようにして神さまとの和解に入れられているのだという信仰に堅く立ち、この信仰を通してお互いの間の和解へと結びつけられていくことこそが、教会形成にとって何よりも大切なのだと思っています。そしてこのことを使徒パウロは『実に、キリストは私たちの平和であります』(エフェ2:14)の一言で言い表したのでした。」
私自身はこのキリストに繋がるものとして、ミカ書6章8節の御言葉に聴いてきました。何度もお話しし、書いてもきたことですけれども、主が求めておられるのはあなた自身であって、ある「もの」ではない。あなたの生き方そのものを主はぜひ受けたいと望んでおられる。「私たちの平和」‐それは、「正義を行い」‐力なき人々の弁護者として働き、「慈しみを愛し」‐傷つき、助けを必要としている人々に配慮を示しつつ、「へりくだって神と共に歩む」‐神と共に、注意深く着実に、賢明に、思いと行いを他者へと馳せつつ生きることだと。

私たちへのこの呼びかけは、イエスさまの「私について来なさい」との呼びかけと響き合っています。イエスさまについて行くこと、それは主の執り成しの働きへと私たちが目を向けることに他なりません。そして、この主の執り成しの働きを具体的に表している御言葉として、今回、マタイによる福音書25章40節の御言葉が私たちに与えられました。
7週前の5月第一主日には、この御言葉についてミカ書2章と6章、イザヤ書58章と関連させてご一緒に聴きました。そこでお話ししたことは、マタイによる福音書25章31節以下のお話のポイントは、終末の審判の基準は、ある人が「最も小さい者の一人」にどのように接したか、いかに小さな愛の業に生きたかにあるというよりも、小さな愛の業に生きた者の、自分の業についての無知、無自覚にあると言えるのではないか。最も小さい者の一人に為した者が、その業の一つひとつを神さまの御前で指折り数えることをしなかった、というよりも数えることを知らなかったという点にあるのではないか、ということでした。そこで、私たちにとっての問題は、最も小さい者の一人にすることができない、あるいは小さな愛の業一つすることができないというところにあるのではなく、そのほんの小さな愛の業の一つをしても、自分はそれを誇り得ると思うところにあるのではないか、あるいは人がそのような小さな愛の業に生きていないことを非難してしまうところにあるのではないか、とお話ししました。
それこそが「行いによって義とされる」ことを望む偽善であり、「いつお世話をしなかったでしょうか」と真顔で問う偽善でしかないのではないか。審きの前で自分の小さな愛の業について問われた者が、その業についての自らの無知、無自覚を語ったことは、その人がこの偽善から自由になっていたことを示すものであり、この偽善から自由になるための鍵となる言葉が、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」との御言葉なのだと思います、と話を進めました。そこで、「最も小さい者」とは一体誰なのかが問題となってきます。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)。神が人間と成られたということは、他ならぬ「神」がそう成られたということと同時に、神が成られたものが他ならぬ「人間」であったということも意味しています。そして後者は、だからどのような人間も蔑ろにされてはならないということを表すものです。
社会の中で忘れ去られようとしている「最も小さい者の一人」も、「飢え、渇き、さすらい、裸になり、病を得、捕らわれの身となる」ことが‐人間の基本的な生存権が脅かされることがどういうことであるのか、自分自身、また社会の繋がりの中で身に沁みて分かっている、あるいは分かろうとしている私やあなたという「最も小さい者の一人」も、神が他ならぬ「人間」と成られたゆえに、決して蔑ろにされることはないのだということです。そして、主がそれら最も小さい者の一人のために為してくださった「食べさせ、飲ませ、宿を貸し、着せ、見舞い、訪ねてくださった」この主の業は、実は主イエスご自身に対する業なのだということを主はここで語っておられるのです。
主はここで「あなたは私なのだ」と語っておられます。「どのようなあなたであっても、あなたは私なのだ」と。そのように語ってくださる主を前にして、私に誇り得るところは何もありません。この、「主が私自身であられるということ」、このことへの集中が、自らの小さな愛の業についての無知、無自覚へと繋がり、私たちがイエスさまについて行く、すなわち、他者のための教会、他者のために生きる私たち神の家族である教会を形作っていくことになるのではないでしょうか。
最後に、「その名はイエス・キリスト」‐“Seu nome e Jesus Cristo”というブラジルの賛美歌を紹介して終わります。

「その名はイエス・キリスト 飢えに苦しみ、飢えのために叫んでいる
私たちは彼を見ながら通り過ぎる 時には教会に向かって
その名はイエス・キリスト 家も無く、歩道脇で眠っている
私たちは彼を見ながら通り過ぎる 酔っぱらって寝ているんだと言いながら
(おりかえし)
私たちの間におられるのに、私たちにはわからない
私たちの間におられるのに、気づかずに、私たちは彼を軽蔑している」

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」との御言葉に導かれて、主に信頼し、聖霊の慰めを受けて、この主の執り成しの働きを、仕え尽くす働きを、過去から現在、そして将来へと私たちが継続していく中で、甦りの主イエス・キリストが示してくださった、「主の平和を実際に生きる道」を皆さんと手を携えて進んでいきたいと願います。

神さま、2018年度の総員修養会の恵みを感謝します。この後に行われる「み言葉の学び」、分団別協議と全体協議のひと時を、あなたが私たちと共にいてくださって、「教会、神の家族‐わたしたちの教会形成PartⅡ‐」の学びを導いてください。私たちの思い、行動、祈りを通して、互いの喜びも重荷も担い合うことができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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