牧師メッセージ

6月7日(日)聖霊降臨節第2主日・三位一体主日礼拝説教「主の霊を測る。」

更新日: 2020.06.09

聖霊降臨節第2主日(2020.6.7)礼拝説教     牧師 野田和人

イザヤ書40章12~17節、テモテへの手紙一6章11~16節

牧会祈祷
 慈しみ深い、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、私たちの使徒パウロによれば、霊の結ぶ実とは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテヤ5:22-23a)です。ペンテコステの神秘によってあなたの教会を聖め、地の面を新たにしてください。あらゆる地の境を越えてあなたの霊の賜物が流れ出で、御国を始められた時にあなたが約束してくださった実りをもたらしてください。
 世界の創造主であり、私たちが地にあるすべての善いものを分かち合うよう望まれる神さま、国々の民に対して責任を持つ人々が、主の平和に基づいて行動できるよう、導いてください。北と南、東と西、富裕な国々と貧しい国々とが互いに補い合い、結び合うことができますように。
歴史の中で、ご自身を貧しく弱い者の助け主として現してこられた神さま、あなたの霊によって、貧しい者、弱くされた者、周辺に追いやられている者、そして捕らわれ人を助けてください。
 いつも絶えることなく私たちにあなたの霊を送ってくださる神さま、ここに集まった私たちがあなたの霊を受け、同時に霊が私たちに与える課題-愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といった課題に私たちが応えることができますよう、お導きください。
 神さま、私たちを助け、私たちが今確かめたとおりにこの世で働き、あなたの霊の思いに沿って愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の霊の実を結ぶことができますよう、お導きください。
 私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

説  教           「主の霊を測る。」

 「一同は聖霊に見たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(使徒2:4)。“Todos ficaram cheios do Espirito Santo e passaram a falar em outras linguas, segundo o Espirito lhes concedia que falassem.”
 今のはポルトガル語ですけれども、そうなんですね、こんな風にして私たちの教会の時が始まりました。「この聖霊の風を止めることはできない。この聖霊の炎を消すことはできない」と。
 今日の週報の4頁にも記していますが、今日、教会の受付に、先月出されたWCC(世界教会協議会)の議長団、WCCの議長団はプロテスタントとカトリック、そしてオーソドクス(東方正教会)から成っているものですが、その議長団からのペンテコステ・メッセージを置いています。「絶望の波、炎の舌」というメッセージです。少しお読みします。
 「…今、音もせず、目にも見えない、しかし死に至るほど恐ろしい自然の力が迫っています。新型コロナウイルスは恐怖と混乱を人々に植え付け、おびただしい数の感染者と死者を出すことで全世界を一変させました。そのパンデミックは経済に大打撃を与え、家族や共同体生活を乱し、国際的あるいは各地における最先端の医療体制をもってしても拡大し続け、ガバナンスに対する気概とその有効性を試し、飢餓を生み出しています。
 それでもなお、今ペンテコステを迎えて、わたしたちキリスト者は時代を超えて、また世界中で互いにつながり合い、また最初期の弟子たちにつながることによって、彼らが大胆にしたそのように、神のいのちがわたしたちと共にあることを告げ知らせるのです。…」。お帰りになる時に手に取って、ぜひお読みください。

 教会の暦では、この聖霊降臨祭/ペンテコステから一週間後の主日を三位一体主日として守ります。三位一体については皆さんもよくご存じでしょうけれども、それは、父なる神、子なる神、聖霊なる神という三つの位相、三つの様相を持っておられる唯一なる神、父・子・聖霊なる唯一の神を表すキリスト教用語です。ただ日常的には、「三つの異なるものが一つとなる、三者が心を合わせる」といった辞書的な意味合いで用いられたりする言葉にもなっています。
 かつて政治の世界で、小泉さんだったと思いますが、「聖域なき構造改革」の一環として「三位一体の改革」が唱えられたりしたこともありました。覚えておられるでしょうか。ただそうなってくると、言葉本来の意味からは全くかけ離れてしまって、そこでただ自分の意を通す、自分の思いを通すために、ちょうど目の前にあった、自分にはたいへん都合のいい言葉を利用しただけといった遠慮のなさが前面に出て来ます。
 実はこの「遠慮のなさ」が、聖霊の働きからは最も遠い所にあるものだということに私たちは心を留めなければなりません。そしてこの「遠慮のなさ」を今日の聖書の言葉で言い替えると、今日最初にお読みした旧約聖書のイザヤ書にあった「主の霊を測る」ということになるのではないかと思ったのです。

 あとからお読みした新約聖書のテモテへの手紙一には次のようにあります。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、…」。そりゃできればそうしたい。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めて信仰の戦いを立派に戦い抜き」たいのはやまやまだけれども、私たちは例えば自分自身の熱心さや努力の足りなさを言い訳にして、それがそんなに簡単にいくものではないと思い込んでいる節があります。
 けれども実際にこれら「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」の良い業へと私たちを導いていくものは、私自身の熱心さや努力ではなく、その熱心さや努力さえも私に備えてくださる、主イエス・キリストが私たちに送ってくださると約束してくださった「真理の霊」-聖霊なのだというのが、この手紙を記した使徒パウロが、「ポンティオ・ピラトの面前で証しをされたキリスト・イエスの御前で」、愛する弟子のテモテへ、そして私たちに伝えたいことなのだと思います。

 もし「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」が、それらを追い求めるのは確かに簡単にはいかないことだけれども、それでも私の熱心の実、努力の実であるとするのならば、それは私が主の霊を測っていることになるのではないでしょうか。それは、主の霊を私の熱心、私の努力に上手に乗せて、主の霊を私の熱心、私の努力にうまい具合に合わせて、これら良い業を手に入れようとするものではないでしょうか。しかしそれは決してできないのです。なぜなら、主の霊は測ることができないからです。
 そう、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」は私の熱心の実、私の努力の実ではなく、私たちには測ることのできない、万物に命をお与えになる主の聖霊の実であるからこそ、私たちはその聖霊に導かれて実を結ぶことができるのです。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」が万物に命をお与えになる主の聖霊の実であるからこそ、私たちはその聖霊に導かれてそれら実を追い求めることができるのです。

 聖霊は、自らの権威によって語ることはしません。自らの権威によって語るのではなく、ただこれから起こることを私たちに告げてくださいます。すなわち、私たちの未来は、私たちが本当の意味で「今、ここ」に生きることを得させてくださる主イエス・キリストそのものにあるということ、このことを告げ知らせてくださるところに聖霊の働きがあります。
 こうして聖霊が私たちの主を指し示し、私たちとこの世界すべてのためにご自分の命を投げ出され、上へと上げられた私たちの主を指し示し、そしてその主は父なる神への道を私たちに指し示してくださる。ご自身を通して、ご自身を超えて、父なる神の栄光へと、「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ、自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる」(詩編113:7-8)神の栄光へと私たちを向かわせてくださる。このようにして三位は一体となるのです。
 この意味では、三位一体は単なるキリスト教の教理ではなく、使徒パウロも語ったように、まさに私たちが主イエス・キリストを生きるという実践そのものであると言ってもいいでしょう。

 その実践を生きたのが、今日のところで「神の人よ」と呼ばれたテモテでした。ただテモテはここで模範的な意味で「神の人よ」と呼ばれているのではありません。逆にそうではないからこそ、信仰を失くしてしまうような危機の中にあったからこそ、「しかし、神の人よ」と呼びかけられ、その呼びかけが危機の中にあったテモテにとっては力強い励ましとなったのだと思います。
 当時の、同じキリスト教会の中にさえ見られた異なる教え、誤った教えとの激しい対立、同じ教会の中での異なる、誤った教えとの戦いの中で、知らず知らずのうちに自分の足もとにばかり、自分の足の下の急斜面ばかりに気を取られていたテモテに対して、そのような状況下で「確かに、自分がその上に立っているはずの、しっかりと踏み固められた揺らぐことのない道に目が向いていかないかもしれない。けれども、それでもあなたはやはり『神の人』なのだ、あの洗礼の誓いを思い起こしなさい」とパウロは呼びかけているのではないでしょうか。
 「あなたはこの世の罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きる者となったのではなかったのか。神がそのようにあなたを召し出してくださった、その召命に忠実に、その召命を燃え立たせなさい。そのようにして、あなたにゆだねられている良いものを汚すことなく、私たちの内に住まわれる聖霊によって、最後の日、主の現れる日までその良いものを生き生きと保ちなさい」とパウロはここで勧めています。

 そしてこの勧めは、テモテ以来それぞれの困難な時代を生きた神の人々への大きな励ましとなって、現代を生きる私たちにも向けられています。
 この手紙一の最後のところに出てくる「あなたにゆだねられている良いもの」、手紙二の最初に出てくる「わたしにゆだねられている良いもの」、「あなたにゆだねられている良いもの」、それが今日の聖書箇所にある「永遠の命」と考えることができるでしょう。ということは私たちも、もうすでにそれを得ているということになりますよね。
 その命を燃え立たせ、主の再び来られる時まで生き生きと保ち用いること、それが、私たちがこの命を手に入れるということ、この永遠の命を本当に手に入れるということ、私たちが主イエス・キリストを生きるということになるのではないでしょうか。

 「永遠の命」とは、言い替えれば「万物に命をお与えになる神」によってなされた新しい創造のことです。すなわち、「真理について証しをするためにこの世に来られた」(ヨハネ18:37)御子イエス・キリストによって、真理からは最も遠い私たちが救われたということ、そこで私たちが新たに造りかえられたという事実を表すものです。
 この私が救われているということ、そこにキリストの命が宿るのです。そのことへ私たちの目を向けさせるもの、それが、私たちが賜っている信仰なのだと思います。

 信仰とは、私たちが知っている神さまを信じることではなくて、私たちを知っておられる神さまを私たちが信じるということです。そうです。私たちが神の霊を測る手立てなど、実は一切ないのです。私たちのすべてを知っておられる神さまから出てくる、私たちへの「神の人よ」、「しかし、神の人よ」との呼びかけだからこそ、私たちはそこから大きな励ましと力とを得ることができるのです。
 そしてその呼びかけが、自分の足もとの急斜面ばかりを見ている視線を、自分が本来その上に立っている揺るぎのない土台へと向け直して、私たちに主を信じることの希望を与えてくれるのです。そして私たちがその希望を決して失うことがないのは、その主への信仰によって生かされ、決して失望することのなかった最初の使徒たちと、彼らに続いた私たちの信仰の先達のキリスト者たちの、ぶれることのない信仰に包まれて私たちも信じることができるからです。彼ら神の民の信仰に包まれて、私たちも、私たちに先立ってすべてを成し遂げられた方を、その主の現臨を信じることができるからです。そのように神さまご自身が私たちを召し出してくださった。ここに私たちが「信じること」の希望を失わない基があります。

 この神を称えて、使徒パウロは今日お読みした手紙一の15,16節のところで頌栄を記しました。「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」
私たちは、続くテモテへの手紙二1章12節のパウロの言葉を今日の頌栄としたいと思います。「わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」。
 祈りましょう。

 神さま、私に委ねられている良いものを、私たちの内に住まわれる聖霊によってお守りください。あなたの霊もまた、“pan-demo”(パンデミックの語源)、すべての人に関わるものです。それは、あらゆる障壁を超えてすべての民に、しかもそれは死ではなく命をもたらすために拡がっていきます。神さま、どうか現在のこの地上のパンデミックとの格闘において、神の民全体に注がれる聖霊の力が、愛するブラジルの地においても十分に発揮され、私たちすべてが主イエス・キリストを通してあなたの救いのうちに生かされているという希望を堅く保つことができますよう、お導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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