7月5日(日)聖霊降臨節第6主日礼拝説教「平和の礎(いしじ)」
更新日: 2020.07.07
聖霊降臨節第6主日(2020.7.5)礼拝説教 牧師 野田和人
ヨナ書4章9~11節、エフェソの信徒への手紙2章11~22節
牧会祈祷
慈愛に富みたもう私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、一つしかない世界の中で、互いに分かり合うことを求めつつも対立と争いの絶えない現実にあって、今日この所へと、この御堂へと召し出された多くの方々と共に、また今テレビの画面の前で、パソコンの画面の前で、私たちと一緒に礼拝をささげようとしておられるたくさんの方々と共に、主の年2020年の聖霊降臨節第6主日礼拝をささげることのできる大きな恵みを心より感謝いたします。
私たちに命の道を示し、私たちにその道を歩ませないようにしている私たち自身の内にあるエゴイズム/利己心、敵意、傲慢を打ち砕き、乗り越えさせてください。
私たちは生き生きとした信仰に生きていると思っていますが、その信仰を見失うこともあります。明るい将来に向けて生かされている喜びを体全体で表すこともありますし、暗闇の現実に打ちのめされることもあります。あなたの福音を心からの喜びをもって告げ知らせることもありますが、私たち自身の不安や不確実さの中で、怯え震えることもあります。けれどもその中で、私たちがお互いに主にあって助け合う交わりの中で、私たちはあなたが造られたこの世界と共に生きる希望を持つことができます。
そのためにあなたが私たちに遣わしてくださった主イエス・キリストを私たちの心の内に宿し、その主が遣わしてくださった聖霊に導かれて信仰を示しつつ、この世界の中で私たちが命の道を辿ることができますよう、私たちに力を与えてください。
福音が、私たちを通して、私たちの住んでいる所、生活圏に根ざして枝を伸ばすように拡がっていく恵みに触れ、その恵みに生きる喜びを感じ取ることができますように。
若林一義牧師と共に新たな福音宣教の歩みを始められた芦屋西教会の上に、あなたの祝福が豊かにありますように。
今、豪雨災害による被害や新型コロナウイルス感染症をはじめとする様々な困難の中にあるあなたの愛する一人ひとりを支え、その命を最後まで守り導いてください。
この祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。
説 教 「平和の礎」
新型コロナウイルス感染症の収束状況や第二波の発生については、今なお予断を許さない状況となっていますが、現在休止状態の神戸栄光教会の各集会は9月からの再開を
予定しています。その集会のうちの一つである「聖書と祈りの会」について、2018年11月発行の「榮光」第209号の教職黙想に次のように記しました。少し長くなりますがどうぞお聞きください。
「当教会の教職の休養日は、教会閉館日の毎週月曜日と、火曜から金曜の週日の内の半日と決められており、木曜日がその半日休養日に最も適しているのだが、半日休養はその他の週日で何とか融通して、教会員の皆さんがそれぞれの生活状況に合わせて教会へ足を運ぶ機会を少しでも多く提供したいとの思いで木曜日の夜の『聖書と祈りの会』を進めている。10数名の参加メンバーは固定化してきているが、そんなことにはお構いなく、ご都合に合わせて、あるいは少し無理をしてでも新しい方々や久しぶりの方々にもどんどん『聖書と祈りの会』に参加していただきたい。
教会形成の基は確かに祈りにある。詩編の詩人を通して導かれる、詩編の学びの後の有志の方々による祈りは、栄光コイノス委員会での各委員・教職による祈り、早天祈祷会での、御言葉に聴いた後の小グループでの祈りと共に、私自身を、そして教会を励まし支えるたいへん大切な共同の祈りだ。急逝された吉田弘正さんの『聖書と祈りの会』での大きな、はっきりとした声の祈りが今も私の耳に響いている。本当に力づけられた。弘正さんに心から感謝したい。」こんな風に記しました。
先月の23日、6月23日は、ご存じの方もおられると思いますが、太平洋戦争末期、沖縄戦で命を落とされた20万人を超える方々を悼む「慰霊の日」でした。この時期になると、かつて宜野湾市にある志真志伝道所の教会員であられた吉田弘正さんの「聖書と祈りの会」での祈りはますます熱気を帯び、平和を訴えるその祈りの声は地階集会室に朗々と響きました。その祈りの中で弘正さんが必ず口にするのが、沖縄戦最後の激戦地、糸満市摩文仁の平和祈念公園の中にある、現在では24万人を超す戦没者の方々の氏名が刻まれている石碑、今日の説教題でもありますが「平和の礎」でした。
諫早教会時代、九州教区沖縄の旅で何度か訪れた糸満市摩文仁のその「平和の礎」の前で、私は圧倒され立ち尽くす他はありませんでした。私たちに今与えられている平和はこれほどまでに尊いということ、「慰霊の日」の追悼式で読まれた高校3年生の高良朱香音さんの「平和の詩」にある「ありがとう あなたがあの時 あの人を助けてくれたおかげで 私は今 ここにいる」ことを-私たちに今与えられている平和はこれほどまでに尊く、「あなたがあの時 あの人を助けてくれたおかげで 私は今 ここにいる」ことを、どのようにして私自身の現実の生活の中に生かしていけばよいのかを「平和の礎」を前にして考えた時、私たちの傍らには幸いにも聖書があることに私たちはあらためて気づかされます。
例えば、平和の対義語、平和の反対の言葉は戦争ではなく、私たちのエゴ-エゴイズム/利己主義のエゴであることを。
今日は最初に旧約聖書からヨナ書の最後の部分をお読みしましたが、もちろんここだけでは何のことかよく分からないでしょうから初めからお読みいただければよいのですが、ここでヨナはなぜ怒ったのでしょうか。前の部分から読むと分かりますが、預言者ヨナは初めから疑っていました。もし神さまが悪を見過ごせないというのなら、かつてのソドムやゴモラのように滅ぼしてしまえば済むことなのに、なぜ自分が「右も左もわきまえない」(4:11)ニネベの人たちに向けて破滅を預言し、彼らに悔い改めを促さなければならないのか。もしかすると彼らはその通りに受け取って、悔い改めて救われてしまうかもしれない。あの「右も左もわきまえない」ニネベの者ですら神の慈しみの中に入れられてしまうのではないか、と。ヨナの心配は的中しました。「ああ、怒りのあまり死にたいくらいだ」(4:9)。
ヨナのエゴには、慈しみたいものを慈しまれる神さまの意志は見えませんでした。結局エゴイズムそのもの、自分だけしかありませんでした。
では、私たちはどうでしょうか。慈しみたいものを慈しまれる神さまの意志を私たちは受け入れることができるのでしょうか。
聖書は、慈しみたいものを慈しまれるこの神さまの意志を、まず人として受け入れたのがイエスという人物であったことを記しています。そしてそのイエスこそキリスト/救い主であられたことを証ししています。どのようにして。
どのようにして、慈しみたいものを慈しまれる神さまの意志をイエスという人物が受け入れたのか-それを言い表しているのが、今日後からお読みしたエフェソの信徒への手紙2章に記されている使徒パウロの言葉、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(2:14)との言葉ではないかと思うのです。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、…」と続いていく、ここでの「わたしたち」とは、この手紙が書かれた当時のユダヤ人とユダヤ人以外の他民族の人たち、異邦人のことです。自分たちは神の近くにいると考えているユダヤ人にも、あの者たちは神から遠く離れていると考えられている、また自分でも確かに神からは遠く離れていると思い込んでいる異邦人にも、キリストは平和の福音を告げ知らせられました。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」(2:16)ることによって。
ここには「和解」ということについて、何度かお話ししましたが二つの大切な事柄が示されています。まず「神さまとの和解」です。ユダヤ人も異邦人も、十字架の主イエス・キリストを通してそれぞれが神さまとの和解、神さまとの平和へと導き入れられたということです。そして「お互いの間の和解」です。以前は激しい民族主義や宗教上の様々な要求、またそれぞれのプライドによって互いを隔てて反目し、互いを貶め合っていた者同士が、今は十字架の主イエス・キリストによってそれぞれが神さまとの間の和解へと導き入れられたことで、そこに神さまとの平和を得た者同士の結びつきが生みだされて一つになったということです。
キリストはこうして十字架を通して、私たちが神さまへと至る道と、私たちの姉妹・兄弟/パートナーへと至る、二つの、けれども合わせて一つの道を開いてくださいました。主の十字架とは、主イエス・キリストが私たちの底なしのように思える闇、絶望の淵にまで降りてきてくださって、その主の献身によって私たちの闇を光に変えてくださった出来事です。
「私たちはそのようにして、以前は遠く離れていた神との、そしてまた私たちの隣人との二重の和解のもとに結び付けられて、『もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族』(2:19)となったのだ。それは、主イエス・キリストをかなめ石/土台とする家であり、聖霊の働きによって、あなたがたと共に神の住みたもう家なのだ。」とパウロは告げるのです。
これはここでは当時のエフェソにある「キリストの教会」、エフェソの信徒たちに向けて語られた言葉ですが、現代においては、聖書から御言葉の養いを得て、聖書からの御言葉によって生かされることを願うすべてのキリスト者たちへの励ましの言葉であり、それらキリスト者たち、私たちキリスト者たちを通して、現代を生きる者たちすべてに向けて語られている共生へのメッセージ、私たちが共に生きることへのメッセージではないでしょうか。
慈しみたいものを慈しまれる神さまの意志をまず人として受け入れられたイエスさまと私たちとの出会いは、私たちの間の「敵意という隔ての壁を取り壊し」(2:14)、また私自身の内にある、あなた自身の内にある何かしらの頑丈な壁を取り壊し、私たちを私たちのまだ知らない、見知らぬ「旅人をもてなす」(ローマ12:13)ことへと導いていくものであることを、吉田弘正さんの祈りに合わせて心から覚えたいと願います。
祈りましょう。
神さま、「ありがとう。あなたがあの時、最も小さい者の一人にしてくださったおかげで、今の私たちの平和があります」。しかし、平和のように見えるその幕の奥には、今なお深い闇が横たわっていることも私たちは知っています。その中で、私たちがキリストの平和に生きる希望と確信を失うことのないよう、私たちを力づけ、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。