牧師メッセージ

7月12日(日)聖霊降臨節第7主日礼拝説教「息子は生き、タビタは起きる。」

更新日: 2020.07.14

聖霊降臨節第7主日(2020.7.12)礼拝説教     牧師 野田和人

ホセア書14章2~8節、使徒言行録9章36~43節

 

牧会祈祷
 慈愛にあふれる私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年の聖霊降臨節第7の主日にあって、あなたが私たち一人ひとりを捕らえてくださってこの祈りの家へと導き、私たちが今日もあなたの家族の一人ひとりとして、パソコンやテレビモニターを用いつつ、御前で共に礼拝をささげることのできる大きな恵みに入れられていることを心より感謝いたします。

 神さま、あなたはその創造の業の最後に、お造りになったすべてのものをご覧になってそれらをはなはだしく良しとされました。ところが、私たちのその後の歩みは、あなたによって造られたものであるのに互いに排除し合い、互いに傷つけ合い、あなたによって与えられた一つひとつの大切な命をあまりにたやすく蔑ろにするものとなり、そのような日常が私たちの上に重くのしかかってきています。
 神さま、どうか私たちを私たちの望んでいない闇の中から掬い上げ、互いに認め合い、互いに赦し合う今へと、互いに受け入れ合い、互いに愛し合う未来へと導いてください。あなたが統べ治められるところに私たちの敵はいないのですから。

 今日の「部落解放祈りの日」を覚えて祈ります。「神さま、どうか私が自分勝手に傷つけた人たちの傷を癒してください。変ではなく個性なのに、私が『変だ』と見なしたあの人たちの、病気と闘う勇気がある人たちなのに、私が『病気だ』と見なしたあの人たちの、弱さは誰にでもあるのに、私が『弱い』と見なしたあの人たちの、なぜ不幸なのか考えもせずに、私が『可哀想』と見なしたあの人たちのいくつもの傷を癒してください。私が差別していないと思い込んで、実は差別していたあの人たちに私が与えた深い悲しみを癒してください。」(土沢教会2016年度の祈り)

 神さま、どうかあなたの限りのない愛と憐れみによって、私の差別へと向かってしまう罪を赦し、選択肢が多く思われる中にあって、しかし他に行き着く所はないただ一つのあなたの平和の道へと私たちを導いてください。
 今、苦しみや不安、恐れや悲しみの中にある子どもたちをはじめ私たち一人ひとりをあなたが顧みてくださって、あなたが与えてくださる慰めと平安の中で私たちが互いに寄り添い、助け合って生きることができますよう、私たちを支え導いてください。
 私たちの命の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教        「息子は生き、タビタは起きる。」

 皆さんはSDGs(エスディージーズ)という言葉をお聞きになったことがあるかと思います。もともとは1987年、今から33年前の「国連環境と世界委員会」での話し合いから出てきた考え方で、その時はSD(Sustainable Development)だけだったのですが、そこにGoals(目標)が加わって、“Sustainable Development Goals”(持続可能な開発目標)の頭文字を取ったもので、2015年の国連総会で採択され、2030年までに達成を目指す17の目標のことです。
 その中には、例えば1番「貧困をなくそう」、2番「飢餓をゼロに」、3番「すべての人に健康と福祉を」、そして16番「平和と公正をすべての人に」などの目標があるわけですが、このSDGs(エスディージーズ)の理念/合言葉が、「誰ひとり取り残さない」というものなのです。
 「誰ひとり取り残さない」-現在、新型コロナウイルス感染症への様々な対策が迫られる中で、「誰ひとり取り残さない」とのSDGsの合言葉は、感染症対策が本当にそのようにあるべき大切な考え方でもあり、様々な仕方で感染症対策に取り組んでいる一人ひとりを励まし、力づける言葉でもあると思います。感染者が180万人を超え、7万人を超す死者が出ているような状況下(ブラジル)で、「人間いつかは死ぬのだから」などと言っている場合ではないのです。

 「誰ひとり取り残さない」-この言葉を見た時、私自身は聖書の最初に記されている神さまの創造の意志を思い浮かべました。それに続いて主イエス・キリストの出来事を。創世記1章27節「神は御自分にかたどって人を創造された」。そしてヨハネによる福音書1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。
 御自分にかたどって人を創造された神さまがまさにその人となられたところに、すなわち、言が肉となって私たちの間に宿られたところに、どんなに小さい者、弱い者も、神さまがそのようになられた一人の人間として、その存在が、その尊厳が、決して蔑ろにされてはならないのだということです。
 “Black Lives Matter.”の根拠もここにあると言うことができるでしょう。

 今日は「部落解放祈りの日」としてもこの礼拝を守っていますが、何からの解放かと言えば、それはもちろん差別からの解放です。先ほどご一緒に声を合わせてお読みしたリタニー「罪の告白」でも、私たち自身が差別し、あるいは差別する力の前に屈服し、排除するような態度を取りましたと告白しました。
 イエスさまは12人の弟子を選ばれた後で、マタイによる福音書10章26節で次のように語られました。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」と。これは例えば、私たちが差別することへと取り込まれていくことに対して、差別する力に対して、差別するその力に抗って、私たちがNo!を突き付けることを後押ししてくれる言葉としてあるものです。覆われているものは必ず現され、隠されているものは必ず知られることになる。すなわち、差別する力は必ず糺され、その力は必ず打ち砕かれるということです。

 神さまは御自分にかたどって私たち人を創造され、その神さまがまさに肉となって、私たちと同じようになって私たちの間に宿られたのです。ここには、どのような者も、神さまがそのようになられた一人の人間として、その尊厳を決してゆるがせにはできないのだという神の創造と受肉の意志がはっきりと働いています。私たちはそのように造られた者同士として、互いの尊厳を蔑ろにすることは決してできないはずなのです。

 「イスラエルよ、立ち帰れ あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる」。今から2742年前、この預言に聴くことなくアッシリアによって国を滅ぼされた北イスラエル王国の人々に向けて語られた預言者ホセアのこの言葉は、2742年後の今も活きています。私たちは、私たちの創造主なる神に、その意志に立ち帰る必要があるということです。
 なぜならそこに立ち帰ることで、私たちは例えば差別によって消耗した生命(いのち)を回復することができるからです。排除ではなく受容、受け入れることによって、再びその鼓動を始める生命を回復することができるからです。
 今日与えられている聖書の御言葉のうち、今日はお読みしませんでしたが、ヨハネによる福音書4章50節の「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とのイエスさまの言葉と、使徒言行録のタビタの蘇生(生き返り)の物語は、このことについて、この生命の回復について私たちに伝えてくれているものです。そう、「誰ひとり取り残さない」と。

 使徒言行録の状況は、今日お読みした少し前の箇所に記されています。9章31節「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」。
 ところが、貧しいやもめたちを集めて下着や上着を一緒に作る仕事をしながらキリストの群れを形作っていた主の弟子であるタビタが、「ドルカス/かもしか」と呼ばれるほどでしたから活発な活動をしていたのでしょう、そのタビタが死んでしまったのです。主のご支配と聖霊の慰めの下にあったキリストの群れ、教会の平安が突然突き崩されました。
 そこはヤッファという地中海沿岸の町でした。そこから少し内陸に入ったリダという町に、そこで中風で8年前から床についていたアイネアという人を癒したペトロがいることを聞いたタビタの弟子たちは、ペトロにヤッファまで来てくれるように使いをやって頼みます。リダに住む人は、ペトロがそこで「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアがすぐに起き上がったのを見て、皆主に立ち帰ったとあります。
 さて、タビタです。ペトロがヤッファにやって来て、皆を外に出し、ひざまずいて祈り、タビタの遺体に向かって「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がりました。そしてヤッファの町の多くの人が主を信じた、主に立ち帰ったとあります。

 この二つの物語、アイネアとタビタの物語は、この使徒言行録を記したルカによって書かれたルカによる福音書に記されている、イエスさまによる「中風の人の癒し」(5:17ff.)や「ヤイロの娘の蘇生」(8:40ff.)を介して、旧約聖書列王記上(17:17ff.)や列王記下(4:18ff.)の、預言者エリヤやエリシャによる「女の息子の蘇生」の物語に対応するように構成されています。それは、エリヤとエリシャ、イエス、そしてペトロと繋がって、エリヤやエリシャ、そしてイエスさまによって示された預言者的な力が、最初期の教会の活動においてもペトロに至るまで続いているのだということを、著者であるルカがこの物語を聞く者や読む者に対して訴えるためであったと考えることができるでしょう。
 ここでは、ペトロがアイネアを癒し、タビタを生き返らせたわけですが、もちろん彼自身の力でそれを為したのではありません。ここで大切なことは、重要な事実は、この癒しと蘇生がただイエスの名によって、祈りと言葉による宣言、命令によってなされたということです。すなわち、これら癒しや蘇生と言う行為が、単なる「癒し」という行為ではなく、「しるし(・・・)」であったということです。そのことを通して主を指し示す「徴」であったということです。だからこそ、この出来事を見た多くの人たちが「主に立ち帰った」、「主を信じた」のです。

 「イエス・キリストがいやしてくださる」。この名前と言葉は、無力さや絶望のただ中にあった者たちに新しい可能性を造り出しました。新しい生命を生み出しました。
 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)。この「わたし-イエス」という名と言葉によって、平凡な漁師が神殿の権力者たちに向かって大胆に説教を始めたように、この名前と言葉の下においては、それまでの自分の元の立場に留まっている者は誰もいないということです。
 タビタもおそらくそうだったのだと思います。彼女もこの名前と言葉の下にあって、かつての自分の立場に留まることなく、使徒パウロが第一コリント書(1:28)で記しているように「神はこの世の卑しく見下げられている者を用いて、地位のある者を無力な者にする」という新しい現実の中で、その働きを続けていたのではなかったかと思うのです。タビタがその命をまさに投げ打ったのは、社会の底辺にあって、貧しく、誰も彼女たちの保護も代弁もしてくれないやもめたちでした。タビタは死に、もはや彼女たちを助ける者は誰もいません。
 けれどもここで、祈りに続いて言葉が響くのです。「タビタ、起きなさい」と。私たちにとって最後の、手に負えない領域を、死を打ち破ることのできる力が解き放たれた瞬間です。「タビタ、起きなさい」-語っておられるのはイエスさまです。この名と言葉の下においては、やもめたちは滅びゆくままに放置されることはなく、この世の力/権力や金銭は確かに欠いてはいるけれども、死を乗り越えて生命を与えてくださるただ一つの頼りにするものと共に生きることができるのです。
 この物語は、ここで語られる名前と言葉が、その名以外には望みも力も持たない人々ややもめたち自身のものであることを私たちにはっきりと示しています。

 これら奇跡物語は、確かに私たちが私たちの理解できる言葉で説明できる事柄ではありません。けれどもこれら物語が少々唐突に使徒言行録第二部へと至る流れの中にはめ込まれているのは、第10章から第二部が始まるのですが、その前にこれら物語がはめ込まれているのは、そのような構成になっているのは、これら物語が語られ、聞かれ、主張され続ける中で、私たちの現実の生の、現実の生活の流れの中にもこれら物語が割り込んできて、私たちの現実を変えるということ、私たちの現実がこれら物語によって覆されるのだということを示しているのではないでしょうか。

 確かに私たちはこの世の生活において、家族や学校、職場、また教会においても、強さと弱さ、命と死といった、どちらかと言えば固定的で決められた物事の中で生きています。ですから、ペトロはその漁網(あみ)を手放すべきではなく、アイネアは医者の指示に従うべきであり、タビタは家にいて、貧しいやもめたちを助ける何らかの持続可能な福祉制度を考えるべきであったのかも知れません。

けれどもあの名前と言葉がこれらの人々に臨んで来るのです。この名と言葉は人々の中へ出て行き、その傍らに立つペトロのような人のいる所で人々に臨み、そこで起きる出来事が人々の現実を覆し、新たな生命を与えていったのでした。イエスさまが語られた「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)という「しるし(・・・)」とともに。

 この物語は、私たちもイエスさまと共に出て行って「起きなさい」と言うと、今までと同じままのものは何一つなくなるということ、自分の元の立場に、例えば差別する者という立場にそのまま留まっている者は誰もいなくなるのだということを私たちに告げています。私たちは忍耐強く「起きなさい」との言葉に聴き、「誰ひとり取り残さない」働きを続けていく他はないのではないでしょうか。祈りましょう。

 生命を与えてくださる主、日々あなたより注がれている愛と生命とを豊かに受けることによって私たちが変えられ、あなたを必要としているすべての人と共に、その生命と平安を分かち合うことができますよう、私たちを導いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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